『 匣の中のやさしい場所 』  
 
 そこは三畳にも満たなそうな小箱のような和室だった。  
障子はあるが締め切られており、中は薄暗い。  
部屋の片隅に置行灯があり、その居るものを癒すような暖色系の微かなあかりが、部屋を柔らかく照らしている。  
 そんな空間に、男のかぼそい喘ぎ声が上がっていた。  
「ぅ…あぁ…っ…!お、大草…さんっ…そこ、は…」  
男性としては華奢な身体を着物に包んだその男は肩をふるわせ、身をもみねじりながら必死で何かに耐えている。  
その畳に這いずる男の体を見下ろした女が、手にした棒状のモノをくねくね動かしていた。  
それは男のからだの敏感な穴に深々と埋め込まれ、その肉の内側を責め立てているように見えた。  
「動いちゃダメですよ…?ヘンな所まで入っちゃったら、痛いですからね?力を入れないで…」  
「は、はい…くぅっ!が、我慢…してみま、す…」  
きゅう、と手を握る男のしぐさがいっそ可愛らしい。思わず女はにっこり微笑んでいた。  
「よしよし」  
 そう言いながら大草と呼ばれた女の手の動きは細かく巧みだった。  
横の壁をくりくりとこねまわしたかと思えば入り口を小突いてみたり―。  
穴の周囲をするする棒の先端で引っ掻き回してみたり―。  
かと思えば、いきなり穴の奥まで棒を突っ込んで、くりくり暴れさせたりするのだ。  
棒が体に出し入れされるそのつど、男の体はよじれ、ふるえ、歯を食いしばってのたうちまわりそうになるのを堪えている。  
その顔は桜色に染まり、羞恥に歪んでいたが―。  
目はうつろに潤み、えも言われぬような快感に耐えているのは一目瞭然だった。  
 女は手にした棒を男の穴の奥の曲がった部分に引っ掛けるようにすると、ゆっくり引っ掻くようにそれを引き抜いてゆく。  
「これで最後ですからね…わ…すごいですよ、先生?こんなになって」  
―ごりごりっ!  
目標物を捉え引き摺り出すようなその動きに、先生と呼ばれた男はたまらず情けない声をだしてのけぞった。  
「あ、わっ、…あぁ…あぁあっ…」  
女がくすりと笑う。  
ぷるぷる痙攣する男の腰をたしなめるようにぽんと叩くと、まるで女性のように細やかで綺麗なその髪を漉き、頭を撫でてやる。  
そんな一刹那の優しいそぶりに男が安堵したかと見えた瞬間―。  
その手にした棒を、男の体から一気に引き抜いた。  
「ぅわ、ぁああああああっ!」  
びくん、と男が身体を強ばらせたのも、同時だった。  
身体の中から何か汚れたものを搾り出され、否、掻き出された男は、双眸をとろんと恍惚にくらませながらまぶたを閉じていった。  
 
 「いや〜…すみません…。年甲斐もなく声まで上げてしまって」  
着物に袴の男―糸色望は頭をかきながら起き上がると女に向き直り、はにかんだ笑みで見つめた。  
和服に前掛けの女―大草麻菜実は棒を拭いながら、少し得意そうに、しかし何処か照れくさそうに笑う。  
普段ふたりは東京府小石川区の某高校の担任教師とその生徒の間柄だった。  
「私、上手だって評判いいんですよ。でも、先生あんなに震えちゃって…ちょっと可愛かったです」  
「それにしても…世の中にはこんな仕事もあるんですね。まあ自分でも意外でしたよ、  
 『耳かき』してもらうのがこんなに気持ちいいものだとは」   
 そう、ここは大草麻菜実のアルバイト先。  
小石川区某所、とある雑居ビルにある『ひざまくら耳かき店』なのだ。  
ここは悩み多く疲れのたまるある種の男性たちのための癒し空間。  
無機質な雑居ビルの中でここは和風の内装がなされ、清雅な雰囲気で満たされていた。  
お隣りの区にゆけばメイドさんやら巫女さんやらのマッサージ店や猫カフェなど、  
そのような店はいくらでもあったが、ここ小石川区では珍しい。  
 時には生命の危険すらある教師生活を送る望は、ふと思い出したように自分に異様に過保護になる時がある。  
ストレスストレス、癒し癒しと強迫観念のようなものに取り憑かれ、結果発見したのがこの店だったというわけだ。  
…そこで教え子が働いていた、というのは偶然かはたまた神の悪意か。  
 
 望の耳垢を拭いたティッシュを始末し、商売道具の棒――耳かきを綺麗にしてしまうと、  
麻菜実は先程まで望の頭をのせていた太ももの上の手ぬぐいをたたむ。  
「じゃあお茶をお出ししますね。まだ時間、ありますからゆっくりしていってください」  
耳かきのあとお茶と和菓子が出て、店員としばし会話を楽しむことができるようになっている。  
「はい大草さ…いや、ここではマナさん、でしたか。空いているというので指名したらあなたが出てくるとは…驚きましたよ」  
この店はひざまくらで耳かきをしてくれる女性店員を指名することができた。  
望が頼もうとした娘は皆客についており、空いている娘はマナ―麻菜実ひとりだった。  
まだ採用したてであるので写真が用意されていないんですが、いい娘ですよ―という受付の説明を受けて、  
望はマナというその娘を頼んだのだった。それが蓋を開ければこのとおり。  
 
「最初、『マナ』じゃなくて『ナミ』にされそうになったんですよ、私」  
「おやおや。それじゃあ日塔さんと同じになってしまいますよね」  
「ええ。だから『マナ』のほうに―」  
そんな他愛もない会話を交わしながら麻菜実の淹れてくれたお茶をすすり、塩羊羹をつまむ。  
望はゆったりした時間に疲れが溶けていくのを感じていたが、どうも麻菜実と顔を合わせられない。  
彼の視線は麻菜実の肩や袖のあたりをうろついている。  
誰にも聞かせたことがない声をあげて身悶えするのを目の当たりにされたから、ということもあるが―。  
淡いあかりに浮かぶ着物姿の麻菜実が、あまりに艶かしかったからだ。  
大人びた化粧はとても自然で、高校生という実年齢を感じさせない。  
後ろに纏められた髪のほつれたうなじの曲線になんとも言えないあえかな気配がただよっていた。  
 だがその肩にはうっすらと疲れが浮かんでいる。  
望は麻菜実が様々な場所で年齢を偽ってまで働く、その理由を知っているだけにある種の切なさも抱いてそれを見ている。  
人妻でもある彼女と、その夫の抱えた借金―。やりくりに四苦八苦する良妻は、必ずしも報われているとは言えない状態だった。  
むろん、麻菜実のアルバイトはここだけではないのだろう。  
「いろいろあるでしょうが…贔屓のいいお客さんがたくさん付くといいですね」  
「ええ…ここ、完全歩合制ですから…頑張らないと」  
「それは…」  
出勤しただけでは給与は発生せず、こなした客の落とした金銭のうち一定割合が、麻菜実の取り分になるという事だった。  
「それに…」  
麻菜実がわずかに眉をひそめた。  
「いいお客さんばかり、というわけでもないですから…」  
「うっ…」  
 
 そうなのだ。  
もちそん大抵の客は店の定めるサービスの範囲を守る『よく訓練された紳士たち』であるが―。  
男性客と一対一、この小箱のような部屋で向き合わねばならない彼女たちは、時として質の良くない客に出くわすこともあるのだ。  
今のご時世、一見普通の成人男性が内心にどんな狂気を溜め込んでいるかわかったものではない。  
望は、どう返していいか一瞬口をつぐんでしまう。  
「あ…お、大草さん…。大変、でしょうが…」  
「…でも」  
ぱっ、と麻菜実のポニーテールが跳ねる。  
望に向きあってにっこり笑う。  
「今日は嬉しかったですよ。まさか先生が来るなんて」  
それは望の胸に、じんわりにじんで来る笑顔だった。  
返答し難いような事を言ってしまって望に良くない想像や余計な心配を抱かせてしまった事を詫びるような、  
その眉根のあたりに浮かぶ微かな申し訳なさと気づかいを、望は敏感に感じ取る。  
麻菜実は明るく感謝を述べることで望の心配を払拭しようとしてくれているのだ。  
そんな心の機微は、普段人の顔色をうかがって生きている彼ならずとも充分人の心に届くものだろう。  
望も、麻菜実に微かな笑みを返していた。  
「普段来るお客さんは、こんなふうにして、あなたに癒されるのでしょうね」  
客にただ店のマニュアルに則ってサービスを提供したところでそれは単純作業でしかない。  
人の心を癒すのは、やはり人の心、なのだった。  
 
 逆に望に返されて、頬を薄く染めた麻菜実を横目に見ながら、しかし望は考えていた。  
とりとめのない会話の中で麻菜実は時折、眼をこすり小さくあくびを噛み殺していた。  
それはもちろん客の望が退屈な男だから、というものではなく、連日の学業、主婦業、そして労働による疲れに相違あるまい。  
狭いこの部屋と薄暗い明かり、そして担任との会話が、かえって彼女をリラックスさせてしまったのかも知れない。  
 望は考える。  
彼女は疲れた男たちに癒しを与える。与え続ける。  
――では、彼女の疲れは誰が癒すというのだろう?  
 
「…よし」  
そうつぶやくと、望はすっくと立ち上がっていた。  
「大草さん、ちょっと待っていて下さい」  
「えっ?先生、時間はあとちょっと…」  
手荷物も置き去りに、望は障子を引くと廊下に出、足早に歩んでいってしまった。  
 
 
 やがて戻ってきた望は麻菜実の隣に座ると照れくさそうに口を開いた。  
「フロントに頼んできました。あなたの今日の出勤時間終了までの、ええと、コマ数ですか。  
 終りまで全部、私が買わせて貰いましたから―」  
「えっ!」  
「大草さん、お疲れのようでしたから…。六十分のナントカコースを、ひい、ふう、み…まぁ仮眠には充分な時間だと思いますよ」  
「あ…」  
麻菜実は時々自分がうつらうつらしていた事を思い出した。  
確かに疲れは溜まっていた。今日だってこのあと家に戻って家事をした後に夜のアルバイトもある。  
だがその羞恥の感情は一瞬で掻き消え、この普段は頼りない担任からの思いがけない気づかいに胸が熱くなってくる。  
それに歩合制であるこの店では、麻菜実は望に一日の勤務で望みうる限度額のお金をもらったも同然なのだ。  
目尻にちょっぴり浮かんだ涙を指でぬぐう。  
「毎日いろいろ大変でしょうが…若いから身体が持つのかも知れませんけど、時には休んでください。  
 大草さんには癒しが必要ですよ。なに、さっきのお返しです。私は失礼しますが、あとは時間までここでゆっくり―」  
望は顎を掻いて照れながらカバンを手にすると帽子を引っ掛け、立ち上がろうと膝を立てた。  
その袖に、麻菜実の手が触れている。指先は、触れたものを掴むか掴まないか、ためらうように震えていた。  
「えっと…大草さん?」  
「…」  
顔を伏せた麻菜実の表情はうかがい知れない。  
ただ、その耳が赤く染まっていた。  
 
 望は畳に正座している。  
その太股の合わせ目の上には麻菜実の頭がのせられている。  
先ほどとは逆に、今度は望の膝枕に麻菜実がその身を委ねているのだった。  
麻菜実はポニーテールが崩れてしまわないように横臥していた。  
柔らかい頬が望の太股に押し付けられ、手が望の膝を抱くように置かれている。  
 望は動けない。  
動けないから、先刻の事を反芻していた。   
さっき望の袖を掴んだ麻菜実の手にはどのような力も入れられていなかった。  
だがそれだけで望は一歩も動けなくなってしまった。  
望の動きを止めたもの、それは恐怖か戦慄か。  
そんなある種の啓示めいたものが望の葛藤を換気する。  
考えるうち、膝から力が抜けていた。  
そして腰をおろし、その場に座り込んでしまったのだ――まるでそこに、吸い込まれるように。  
それとほとんど同時に、正座したその望の腿の上に、ころりと麻菜実が横たわってきたのだった。  
 
 狭い小部屋の、静寂が重い。  
正座した望は動けない。その膝に頭を預けた麻菜実も、一言も発しない。  
望が見下ろす麻菜実の横顔、その目は閉じられているが眠っているかは望にはわからなかった。  
茶をすすって談笑していた先刻とは激変したこの現状に、望の精神も麻痺気味だった。  
普段は自己保身と危機回避のため、異常事態に際して忙しく働くはずの頭脳が、どういうわけかさっぱり働かない。  
望はただひとつ自由に動かせる眼をそろりと動かしてみる。  
麻菜実の横顔から、首―そしてからだへ。  
 合わせられた襟の付け根に微かに覗く鎖骨の丸み。  
その下で布地の内に包まれているであろうふくらみ。渋い色合いの帯。  
前掛けをかけた腰回りの、着物の上からもわかるまるみのある肉置き。  
そこから伸びるふともも。わずかに割れた裾から、足袋に包まれた小さい足がのぞいている。  
その足袋と裾の間の、足首の肌色。  
―肌色。  
その肌をみたとき、ぞろりと望の背筋を走り抜けるものがあった。  
それはつい先程まで頭をあずけていた前掛けと着物の布地の下の麻菜実の太股に、その肌色はつながっている、という閃きだった。  
そして、肌色は腰、腹から胸乳を経て、すぐ眼下のかぼそい首、横顔へと―。  
高校生である教え子のその柔らかい肌は、しかし男を知らない肌ではないのだ。  
彼女は人妻なのだ。  
麻菜実の日常の端々から夫婦仲は今はあまり上手くいってはいないようだとうすうす感じられるが―。  
彼女のからだはそれでも時々は、その夫に開かれているだろう。  
他の肌色と絡み合い、混じり合う肌色の麻菜実の姿――そんな妄念が一瞬、望の脳裏をよぎった。  
そして一瞬、二瞬が過ぎて、その妄念の中で麻菜実を組み敷いている男の顔は、いつの間にか自分の顔になっている。  
自分の顔――そうそれは、教師が生徒を、独身の自分が人妻を犯しているという極彩色の背徳図だった。  
 その時突然、望は何かにぶつかったように反射的に我に返った。  
いま自分はこの健気な教え子の身体を舐め回すように観て――視姦していたのだ、と気づいたからだった。   
おのれの頬にこの教え子の太股の肉の感触がふいによみがえる。  
それと同時に、胸にのたくる疼きを自覚していた。  
――疼く。  
疼きは血流となって下腹に凝り、いつの間にか股間の布地を押し上げている。  
 望は自分の身体の状態に気づいて死ぬほど驚いた。絶望した、などといういつもの台詞すら浮かんでこない。  
硬くなってもう収まらない肉棒が、布地越しに麻菜実の頭頂に触れそうになっていたからだった。  
 
 望は狼狽しながら何とか肉棒の位置をずらそうとしてみたり、昂ぶりを収めようとしてみたが、すべては無駄な努力だ。  
だいいち麻菜実に気取られてしまうし、もし彼女が眠っているとしたらそれを妨げてしまう。  
(お、教え子に一瞬とは言え欲情するなんて!それなのに身動き取れないこの状況、あぁあ…八方塞がりです!)  
などと、望が悶々としながら心のなかで嘆いたそのとき。  
「…先生」  
「はいぃっ!」  
麻菜実の声が、望の膝枕から上がった。やはり眠ってはいなかったらしい。  
「ありがとうございます…甘えてしまって…私」  
「い、いいいいや、いいんですよ、わ私が、そうしたかっただけですから」  
「…!」  
望はいま自分が発した少女にある種の誤解を抱かせてしまいかねない台詞に気づいていない。  
少女の胸はその一言で波打っていたのに―。  
麻菜実の手が、望の膝をきゅう、と掴んだ。  
しばしの沈黙。  
それは少女が何かを言うために必要だった心の力を溜める時間だった。  
そして男にとっては―。  
望は膝を掴んだ麻菜実の手から伝わってくる覚悟のようなものを感じ取り、  
この後にやってくるものが何なのか、自らの『やんちゃな時代』の経験から思い至る。  
恐怖と混乱の予感―、そう、ちょうど大波が来る前に波が引きあらわになった海底を見ているような、そんな時間だった。  
膝の上の麻菜実の頭が、やけに重い。  
その重さが、すっと膝を離れた。  
 麻菜実は望の膝についた手を支えに上体を起こし、望の胸に自分の胸をぴったりと押し当てていた。  
鼻梁が、望の顎に触れている。  
望は少女のまとう薫りにとらわれたように、身じろぎひとつできない。  
互いの心臓の鼓動だけが、合わさった胸と胸を叩いている。  
――それがどれくらい続いただろう。  
やがて、麻菜実の唇が開いた。  
 
「さっき、先生が立ち上がった時。先生の顔、見れませんでした。…とても、とても…怖くて」  
望の身体は動かないが、心は忙しく働いている。  
(私もとても恐ろしかった。眼を合わせたら、座ってしまいそうで)  
「先生の顔を見た瞬間、先生がこの部屋から出ていってしまうかもしれない、と思って」  
(…でも、私がこの部屋をもし出て行ったとしたら、この部屋に残ったあなたはどうするのか?  
 あなたを傷つけてしまいはしないか?  
 …私はそれも恐ろしくて。それで結局、座ってしまいました…)  
ふるり、麻菜実が震えた。  
望は何人かの教え子たちから向けられる恋慕の情を自覚してはいたが、面と向かって思いを告げられた事はそうない。  
ふだん行動や態度で好意を伝えてはくるものの、ただ数文字で済むある一言を、少女たちはまるで示し合わせたかのように口にしない。  
それは少女たちも、『その言葉』を告げてしまうことで賑やかながらそれなりに安定した日常が壊れてしまうかも知れない、  
と無意識裡に恐怖を覚えているからかも知れない。  
だが、ここは黒板を背に教卓越しに向かい合ういつもの日常ではなかった。  
一対一で向かい合うしか無い、小箱のような部屋だった。  
「何か言うのが怖くて。口を開いた瞬間、…言ってはいけない言葉を、言ってしまいそうで。  
 だんなも――いるのに、先生の生徒なのに、私…」  
(ええ、ええ、私も恐ろしいですよ、それに直面するのが。そんな瞬間が来るかも知れないことが。けれど、ああ、でもですね大草さん。  
 わかるんですよ、予感というか。いえこれは、チキンな私の本能というやつですね…。  
 あなたはきっとその恐怖の瞬間を。いま、…ここで)  
麻菜実の手が望の袷の襟をつかむ。それはまるですがるように。  
「でも、今は言わないでいる事のほうが、怖くて。苦しくて」  
麻菜実はついに顔を上げ、望を濡れた瞳で見上げた。  
瞳の奥からやってくるもの―望にはそれが何か、もうわかっている。  
(ああああ、来た。逃げたい。でも、逃げてしまったあとも怖い!さっきと同じ八方塞がりです!  
 絶望した!ただひたすら絶望したぁああ!)  
「先生、私。先生のことが――」  
 
麻菜実が発音できたのはそこまでだった。  
望の唇が麻菜実のそれをふさいでしまったから―。  
 
 
 口づけは追い詰められた望の唯一の逃げ道だったのかも知れない。  
先日のスキ魔の件とは異なり、もう逃げ場は前方にしか無かった。  
確かにこの場合、彼の日常を崩壊させる、たった数文字の少女の真心を聞かずに済んだ。  
しかし彼はこの行為が少女の思いに応えた形になってしまっていることにすぐに気付く。  
思えばなんと間の抜けた逃避行動か。  
(し…しまったぁぁぁっ!恐怖のあまり私はなんて事を!で、ですが今更大草さんに何といえばこの場を逃れられるのか…)  
そんな望の内心の狼狽をよそに、触れ合った唇から言葉として音にならなかった麻菜実の感情が、望の肉のうちに注ぎ込まれてくる。  
驚きと歓喜に満ちた少女の気配が唇越しに踊っているのがわかった。  
そうして挿し入れられてきた麻菜実の舌が望のそれに絡みついてきた。  
麻菜実はもうスイッチが入った女の眼をして、望の唇をむさぼるのに夢中になっていた。  
唾液の糸を引いていったん顔を離すと、麻菜実は頬を桜色に染め上げて笑顔をほころばせた。  
「ん…んん…ぷぁ…先生、嬉しいです…」  
「お、大草さん、落ち着い…」  
麻菜実の一方の手が望の袴の帯に伸びていた。するするとそのあたりを撫でまわしながら、望の耳元でささやく。  
「…先生、さっき大きくしていましたよね…?私、気づいていました」  
「…うっ!」  
望の背に、嫌な汗がどっと吹き出した。  
「それも、嬉しいです…枯れ果てたとか言われている先生が、私であんなになってくれるなんて」  
(うわぁぁぁぁああ!)  
望は先刻の予感の通り大混乱だ。  
羞恥と後ろめたさと、そして麻菜実の普段とのあまりの変貌ぶりにもう何が何だかわからない。  
「誰にも言いませんから…癒して、くれるんですよね…?」  
微笑む麻菜実の濡れた瞳には、どんな少女でも持っている女の魔性がきらきら光っている。  
この小部屋はいつの間にか、狙った獲物は逃さない、恋する乙女の戦場に変わっていたのだった。  
面と向かった望はもう糸に絡め取られた獲物の気分で、この場を逃れ去るのはもはや不可能と諦めをつけるほかなかった。  
(いったい何でどうしてこんな事に…初めはただの好意だったはずなんですが…あーもう!こうなりゃヤケです!)  
麻菜実を満足させて、事を済ませればこの部屋から出ていけるだろう、そう見当をつけて開き直ることにした。  
苦労して寝かしつけていた、自分の中の獣のスイッチをしっかりと押す。  
望は唇をわずかに出した舌で湿らせると、麻菜実の腰を抱き寄せた。  
「ええ…たっぷり、癒してあげますよ…」  
少々演技過多だが、この場合仕方がない。  
 
 望は麻菜実の身体を膝の上にのせ、くるりと回すと、背中側から抱きすくめる。  
首筋に唇を這わせながら、両手で麻菜実の着物の襟をかき開いた。  
ふるりとこぼれだしたまるく豊かな乳房が、薄明かりにほの白く光った。  
「大きいですね…大草さん。それに…とても綺麗です」  
「や…」  
麻菜実の耳元でささやきながら、望は両手でその白い乳房をそろそろなでまわし、揉みまわす。  
「ん…んぅ…」  
張りのある柔らかなものが望の手のひらの上で形を変えるたび、短いあえぎが虚空に吐き出される。  
身をよじる麻菜実の反応を楽しみつつ、今度は指をぷっくり起き上がった乳首に伸ばし、つまみあげた。  
「ひゃあっ!」  
「声が、大きいですよ。あなたはここで寝ている事になっているんですから―」  
「は、はい先生…で、でも」  
幸いこの店の個々の部屋は防音がしっかりしているらしい。よほど大げさに声をあげない限り大丈夫だろう。  
望はつまんだ乳首を指の腹で転がし、しごきあげてやる。  
手首にかかるたっぷりと重い乳房の感触がたまらない。ふるえる麻菜実の耳たぶを甘噛みしながらくすりと笑った。  
「あったかいですよ…大きくて柔らかくて…ここに大草さんの母性が詰まっているんですね…」  
「んあっ!せ、先生、何をいってるんですっ…」  
麻菜実は自分の眼下で望の指に弄ばれる柔肉を見せつけられ、それでも声を上げるのを必死で押し殺す。  
そうしていると、急にその乳房が麻菜実の喉元に持ち上げられてきた。  
「きゃ…」  
「ほら、自分でも舐めて下さい。見ててあげますから…」  
「そ、そんなこと…」  
望の手指で押し上げられた両の乳首が麻菜実の口元に突きつけられている。  
麻菜実は観念したように首をすくめ、舌をいっぱいにのばすとおずおずとその乳首の間に差し入れた。  
「んんぁ…ぷぁあ…やだ…恥ずか―」  
自分の舌先に触れる自分の敏感な部位が、麻菜実に今まで感じたことのない快感を送り込んでくる。  
「眼を閉じて…しっかり味わってくださいね…」  
意地悪な望の声が頭の後ろに聞こえ、麻菜実は言われるまま眼をつむり、押し込まれてくる自分の乳首を舐めしゃぶった。  
舌先をすぼめ、片方づつちゅうちゅうと吸い上げ、ねぶりあげる。  
喉の奥に湧き上がりそうになる嬌声を必死で抑えながら、しかし快感を文字通り吸い上げる為に麻菜実は夢中で舌先を動かし続けた。  
 望は片腕で双乳を抱え、お留守になっている麻菜実の手をそこに導いて支えさせると、空いた手を麻菜実の帯の下へと伸ばす。  
柔らかい太股を撫でまわしながら前掛けをまくりあげ、着物の合わせ目をなぞり、そこからするりと手を滑り込ませた。  
 
 麻菜実の太股の間はもうすっかり熱くなっている。  
望は手のひらと甲とに吸いつくようなむっちりした腿肉の感触を味わいながら足の付け根に指先を這い寄らせてゆく。  
そのだいぶ手前で―。  
「わぁ…すごいですよ大草さん…。こんな所まで、じっとり湿って」  
「んぅいぃ…それはぁ…先生が、いじめるからぁっ…」  
まだ自分の乳首を口に含んで転がしている麻菜実が苦労して応えるが、望は礼儀正しくそれを無視する。  
遠慮無く太股の根っこに指をつっこむと、薄衣の布地を探り当てた。  
「ぐっしょり…ですよ?着物は制服ですよね…こんなんじゃヘンな染みが出来てしまうのではないですか…?  
 裏地にも糸、ひいてますよ?」  
望の肩の上で、麻菜実のポニーテールがふるふる揺れた。  
「先生の…先生のせいで…熱くなって…」  
「脱ぎ脱ぎ…しますか?」  
「…はい、先生、ぬが…せて」  
教え子の懇願とあらば仕方がないとばかり、望はいったん手を抜いて帯下の裾を左右に大きくさばく。  
太股が付け根まであらわになり、望はその外側から麻菜実のショーツに指をかけるとゆっくりとひきおろした。  
 さすがに顎と手が疲れたか、自分の乳房への愛撫をやめた麻菜実は涎を口の端から垂らしながらぐったりしている。  
その眼下には裾がひろがった着物から覗いた両の太股に、濡れそぼった下着がまとわりついていた。  
望の誘導に従って片足を下着から引き抜くと、もうぐしゃぐしゃの自分の秘部が空気にさらされていると理解する。  
そこから脳に沸き上がってくる疼きがもどかしくて、麻菜実は太股をすりあわせた。  
麻菜実の頭は、望がそこに触れてくれる、その期待でいっぱいになっていた。  
 望の一方の手が麻菜実の乳房を鷲掴みにすると同時に、もう一方の手が秘部に伸びてきた。  
あっさり割れ目を探り当てると、さっそく入り口をすりあげ、こね回しだした。  
「きゃあぁっ!んぁぁあっ…」  
麻菜実は声を押えきれずに、舌をまるで犬のように伸ばしてあえいだ。  
(先生の指が…私のあそこに…)  
夫の帰らない一人の夜、幾度も望を想ってそこを慰めたことを思い出す。  
麻菜実はいまやあぐらをかいた望に抱き抱えられているからだを、妄想が現実になった歓びでいっぱいに震わせた。  
その望の指と指が肉の蕾を挟み込み、細かい動きでしごきあげてくる。  
すっかり水びたしの肉唇は、狭い部屋に粘液質の音をあげながらひくひく収縮し、暴れる指に吸いついてゆく。  
ぷるぷると柔らかな肉がひきつるたび、麻菜実は顎を撥ねあげ、のけぞり、身をもみねじった。  
「せんっせ…もうだ、め…」  
連動して動く望の手指が舌が唇が、麻菜実のからだを這い回るそのつど、麻菜実は耐えかねたように嬌声をひびかせた。  
 微笑んだ望が麻菜実の頭をあおのけ、唇を合わせる―。  
その手指が麻菜実の割れ目に食い込んだとき、麻菜実の背をぞくりと大きな波が走り抜けていった。  
「んぃっ…あぁぁあああああっ!」  
 
 絶頂感にぐったりした麻菜実は、唇を割ってきた望の指に気だるげに舌をまきつかせている。  
(先生に…イカされちゃった…)  
とろんと惚けた頭の隅でそれでも物足りない、もっと欲しいという欲望がみるみる育ってくる。  
そう、まだ熱の引かない、どろどろに溶けた部分の一番奥に―。  
「大草さん…可愛かったですよ」  
「ひぇん…ひぇ」  
望の指をしゃぶっているため、麻菜実は間の抜けた声で応える。  
「でも、もっと欲しいんですよね?もっと癒されたいんですよね?」  
「ふぁい…」  
「じゃあ、手を付いてください…」  
ぐいと背中を押された勢いのまま麻菜実は前方の畳に両手を付いた。望の手が腰の下に入り、お尻を持ち上げられる。  
ちょうど四つん這いの格好だ。  
「せんせ…うしろから…?」  
麻菜実がそのままじっとしていると、するすると衣擦れの音が聞こえた。  
望が袴を脱ぎ帯を解いているのだ、そう悟ると下腹が期待感で痺れてきた。  
「おや?お尻が着物で見えませんね…。ねえ、大草さん?まくりあげて見えるようにしてくれませんか?」  
望の無情な声がした。  
「…え?」  
そういえばそうだった。麻菜実の着物は襟から乳房がこぼれ裾は開いて乱れていたが、それは前面のこと。  
帯は少々緩んではいたがお尻は依然、布地に覆われているのだ。  
「そんな…そんなこと」  
「いらないんですか?」  
なんだかねちねちとした、鳥が獲物をついばむような望の物言いはどうだ。  
やけくそなどと言っていたわりに教え子の身体を弄ぶうち、スイッチを入れた獣のサガというやつがいよいよ活性化してきたらしい―  
男にはよくあることだが。  
 望は自分も身体を倒し手を付くと、麻菜実の耳元でささやく。  
「さ、はやく…私も早く、大草さんの中に入りたいんです」  
「…はい」  
――普段の望とは違う望。それを、今は自分だけが知っている。現在進行形で体感している。  
麻菜実はそう思うと望の意地悪な要求を受けていることにも倒錯的な快感をおぼえた。  
そして浮かぶ、いわば恋敵ともいえる級友たちの顔。それを出し抜いた女としての優越感もあった。  
 麻菜実は畳に頬をついて肩で身体を支えると、尻を高く突き上げた格好のまま手を裾にのばす。  
羞恥に震えながら、ゆっくりそれをまくりあげ、望の眼下に白い桃のような尻を晒し上げた。  
その真ん中のやや下側に、肉壺が濡れて光っていた。  
 
 望の手が白い尻肉を掴んだ。  
望の熱い肉棒が、入り口にあてがわれる―麻菜実はそれだけで腰をふるわせ、気が遠くなりそうになった。  
「じゃ、大草さん」  
「はい…」  
「ゆっくり、いきますね…」  
あてがわれた先端が、ゆっくり麻菜実の中に侵入してゆく――ゆっくり、ゆっくり。  
「ぁあ…ぁ…ああぁ…ぁぁ…」  
長く尾をひくあえぎを漏らしながら、麻菜実は背骨をうねらせた。  
(先生の…入ってきた…ゆっくり少しずつ…私の、なかに…っ)  
望はそのまま一気に奥まで貫いてしまいたい思いにかられながら、それでも緩慢に腰を突き出してゆく。  
亀頭のえらが押しのける麻菜実の肉襞一枚一枚――それが彼女が身をよじるたび微妙にうねり、肉棒に快感を与えてくる。  
「あなたの中、気持ちいいですよ…いっぱい、大草さんに包まれているようで」  
「せん、せぇ…」  
細い肩の向こうでポニーテールがいやいやするように揺れ、振り返った涙目の麻菜実が荒い息を吐いていた。  
「ああ…ここが大草さんの…」  
「んぅうっ…先生、おく…来た…」  
麻菜実の肉をかき分けるうち、いつの間にか子宮にまで届いていたらしい――  
帯に回した手で麻菜実の下腹を撫でさすると、望の入ったぶん、うっすら盛り上がっているのがわかった。  
望はもう我慢出来なくなった。そこから腰を引くと、麻菜実の脳の裏側まで届けとばかり一気に肉棒を奥まで突き込む。  
互いの腰と尻が当たり、ぴしゃりと音が上がった。ふるりと痙攣した麻菜実の肉壷が、望を食い締める。  
「きゃ、あぁっ!せんせ、いきなり…っ」  
「いま、また軽くイキましたね―。そんなに欲しかったんですか?」  
「いやぁ、あっあ…っ」  
普段のチキンぶりは何処へ行ったのか、意地悪く笑った望は腰をいっそう激しく動かし、麻菜実の肉襞を突き回した。  
両手を麻菜実の腰骨に据え、肉棒を出入りさせるたび臀部を微妙に動かして肉壺の内壁をうねらせ、変化させる。  
ひと突きごとに変わる肉の感覚が、麻菜実と望、ふたりの脳髄に多様な快感をもたらしてくる。  
吹きこぼれた麻菜実の雫が畳に染みを作っては消えてゆく。  
「ほら、大草さんも腰を自分で動かしてみてください。大きくなくて良いですよ、小さく細かく―」  
「は、はいぃっ…!」  
麻菜実は上体を畳にはいつくばらせながら、望に言われるまま腰をひねくりだした。  
望の肉棒の動きに合わせてお尻を小さく不規則にうねらせるその都度、  
今まで抉られたことのない部分をほじくられ、突かれ、こねくり回される。  
そしてその動きを上から望に見られていると思うたび、激しい官能が脳髄を灼くのだった。  
 
 二人が腰を使ううち麻菜実の帯下までまくり上げた裾がずり落ち、肉のぶつかる音は上がらなくなっている。  
ただ湿った音と麻菜実のあえぎが、狭い部屋を満たしていた。  
麻菜実はもう腰を高く保っていることも出来ず、その腰を抱え寄せた望の太股の上に乗せられている。  
 と、望が肉棒を引き抜いた。麻菜実の身体をころりと裏返し仰向けにさせるとその上に覆いかぶさる。  
肉棒を麻菜実にあてがったまま、ほんの一瞬動きを止めた。  
「先生…?」  
望の手が麻菜実の頬に触れ、その眼が麻菜実の瞳を覗き込んだ。  
(私はひょっとして、こうなることがわかっていたのではないでしょうか?フロントに話をつけた時から、  
 部屋に戻ったら大草さんとこうなるかも知れないと。動転してはしまいましたが、そもそもどうして  
 この娘を助けたい、と思ったのか。…それは、あるいは、私の中に―)  
それはさっきまで自分の中に荒れ狂っていたものが休んだほんの一瞬のこと。  
麻菜実の手が下から伸び、望の袖を掴んでいた。  
「先生、ください、奥まで…いっぱい…いっぱい…」  
頬を染めた教え子の哀願に、望の理性はまたどこかに行ってしまった。  
「お、大草さん…。…ええ、いっぱいあげますよ」  
望はそう言うと上体を起こし、麻菜実の膣中に肉棒を突き入れる。  
腰を抱え、また激しく責め始めた。  
肉棒が抜けるほど腰を引き、子宮を押し潰そうとでもするかのように深々と打ち込む事を繰り返す。  
「ん、ぁあっ!先生、せんせい、もっと…いっぱい…っ!」  
たちまち上がる麻菜実の反応に、望は再び身体も心も熱くなってくる。  
麻菜実は先ほどの体位で味を占めたのか望の抽送に合わせて腰を微妙にひねり、身をよじりながら望を迎え入れる。  
はしたない顔で乱れる教え子を眼下に見下ろしながら、望は先程浮かんだ思いを忘れるように、夢中で腰を動かした。  
「ああぁっ!せんせいっ!せんせぇえっ!」  
麻菜実はもう大声を上げてはいけないことなどすっかり忘れ去り、感じるままに声を上げていた。  
望もそんな事はどうでもよくなっていた。  
彼にはわかっていた。  
――この大草麻菜実という少女は優しさの量が大きいゆえに、その源として愛しいものから愛されなくてはならないのだ。  
  優しさも母性も、愛されればこそ―無償ではないのだ。過去に満たされたはずの彼女の中は、今は乾いて飢えていた。  
  彼女は愛して、愛されたかったのだ。彼女はそうして私を見た。  
  その私とこうすることで、彼女は、明日からまた大草麻菜実でいられるのだ――。  
 だから。  
望はこの少女の肉壷を、思うさま責めさいなみ、犯しに犯す。  
麻菜実が望むように。…望が、望むように。  
つい先刻望が妄念した背徳図は今や現実になっていた。  
彼は人妻でもある教え子に肉棒を突き立て、その教え子は官能にあえいでいるのだ。  
 望は麻菜美の襟に手を突っ込むと薄く浮かんだ肋をさすり、律動に弾む双乳をもみくちゃにする。  
薄桃のその先端にくちづけて吸い上げ、舐めしゃぶった。たゆんと揺れる胸から麻菜実の鼓動が響いてくる。  
望の肉棒を包む肉壷が一突きごとに収縮し、昂ぶりと官能をともにする歓びがおたがいの中に満ちてゆく。  
麻菜実の両足が持ち上がり、望の腰の後ろで組み合わされた。  
深く深く、一番奥底まで欲しい――望を見上げる眼が、そう訴えている。  
その願いを汲みとって、望はこれが最後とばかりに腰を突き入れてやる―。  
 
 麻菜実は何処かに消し飛んでしまいそうな意識をつなぎとめながら、思っていた。  
(気持ちいい…恥ずかしいのに…なのに…あったかくて…)  
――今の夫との行為は、こんなに良かっただろうか。…いや。きっとそれは、もう私の心があの人から離れてしまっているから。  
  先生とするのがこんなに気持ちいいのは、私の気持ちが先生に向いているから――  
簡単なことだった。女は、想う人に抱かれるのが一番幸せなのだ。  
 望の唇が近づいてくる。  
麻菜実はそれに吸い付こうと頭を起こしながら、小さく小さくつぶやいていた。  
「…先生…好き…」  
そのつぶやきは、望にはきっと聞こえなかっただろうが―。  
   
 くちづけながら、望は麻菜実の一番奥に精を放っていた。  
麻菜実は脳天まで絶頂感に貫かれながら、歓喜のあえぎを望の唇の中に注ぎこみ、満ち足りた顔で眼を閉じていった。  
 
 小箱のような部屋の中に、静かな寝息が上がっていた。  
寝入った麻菜実の衣服を整えてやった望は己の荷物と帽子を抱えると、抜き足差し足で部屋をあとにした。  
廊下を一歩二歩あゆんで足を止めた望は、そっと振り返る。  
一刻も早く逃げ出したかったはずのその部屋を、今は名残惜しい思いで顧みる自分が不思議だった。  
その心もちを楽しむように眼を細めると、出口に向かって足を進めだす。  
 その向こうにはいつもの日常が広がっている。  
 
   
 それから数日。  
望も麻菜実も、とくに先日の二人だけの時間のことは意識せずに日常を過ごしていた。  
 だがとある日の放課後に麻菜実が望の教卓にやって来た。  
「あの、先生」  
「…なんでしょうか、大草さん」  
「私、あのバイト、クビになってしまいました」  
麻菜実はにっこり笑って報告する。望は少々面食らった。  
「それは…」  
「先生との…その…あのこと、やっぱり他の部屋に聞こえてたみたいで」  
「うっ…!そ、それは、また、何と言うか……すみま…」  
「でも、いいんです。お給料は、ちゃんと貰えましたし―。先生、あとこれを」  
麻菜実はそう言うと、なにか折りたたんだ紙を望に握らせた。  
そして小部屋の秘め事の時と同じように、濡れた瞳を光らせて微笑んだ。  
「私、月曜と金曜、出てますから」  
望は手の中の紙を広げてみる――その紙は『耳かきリラクゼーション・アロマ・マッサージ云々』にはじまり、  
店名や営業時間、所在地が記されたチラシだった。先日の店とは違う。  
望が顔を上げると、麻菜美の姿は消えていた。  
望はチラシを丁寧にたたむと、袂にしまった。  
 
 金曜日。  
糸色望は勤務を終えると住居の宿直室にも帰らず、真っ直ぐ校門を出ていた。  
足早に歩みながら件のチラシを握り締め、望は考えていた。  
 
――ひょっとすると、自分はとらわれてしまったのかも知れない。  
  日常のはざま、日々の喧騒を離れた狭い小さな匣の中にひそむ、非日常の魔性に。  
  あるいはその中にたたずむ、あのやさしい少女に――  
 
 そうして糸色望は匣に通う。大草麻菜実は匣の中でひっそりと待っている。  
その匣の中のやさしい場所は、二人しか知らない。  
 
 
 
                                 『匣の中のやさしい場所』 了  
 
 

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