残暑の厳しさもいつの間にか和らいで、いよいよ気候も秋めいてきたある日の事。  
一日の授業を終えて、職員室で宿題やテストの採点をしていた望はふと気付く。  
「いけませんね。教科書を忘れちゃったみたいです」  
今日、最後の授業では使用した教材が多かった上、生徒達から宿題を集めなければならなかった。  
そんな沢山の荷物に気を取られて、望はうっかり教室に教科書を忘れて来てしまったようだ。  
あれが無ければ、明日の授業の準備に差し障る。  
望は自分の席から立ち上がり、職員室を出てその教室、2年へ組へと向かった。  
 
放課後の校舎は不思議な静けさに満ちている。  
遠くから聞こえてくる部活に精を出す生徒達の声が、一人きりの廊下の静寂を際立たせる。  
どこか物寂しい心地を味わいながら、望は教室への道を歩く。  
「やっぱり、こんな事を思うのは季節の変わり目だからなんでしょうかね…」  
風の音、澄み渡った空、全てが秋の色に変わっていく。  
過ぎ去る季節は人に決して止まる事のない無情な時の流れを意識させる。  
窓の外を流れる雲を見つめながら、望は人恋しい気分になり始めていた。  
「なーんか、どうにも感傷的になり過ぎてるみたいです。……秋は人を詩人にさせるってとこでしょうか」  
などと事を考えながらのんびりを歩を進める内に、望は2のへの教室に辿り着いた。  
 
「さて、確か教卓の上に置いてあった筈なんですが……」  
教室に足を踏み入れた望は記憶どおり教卓の上で忘れられていた教科書を見つけ手を伸ばす。  
が、そこで彼は気付いた。  
「おや、まだ帰ってなかったんですか」  
教室内の机の一つにお馴染みの少女の姿を見つけて、望は声を掛けた。  
ところが、いつもなら明るい返事を返す彼女からの返事がない。  
よく見ると、彼女は机にもたれかかってすやすやと寝息を立てていた。  
「風浦さん……」  
教科書を手にとってから彼女・風浦可符香の机に近づいた望は、可符香を起こそうとして肩に手を伸ばしたが、それを途中でやめる。  
本来なら早く起こすべきなのだろうけど、そうするには可符香の寝顔はあまりに穏やかで、安らかで、それを破る事は何かとてつもない罪のように思われた。  
肩を揺するつもりで伸ばした手は止まり、吸い寄せられるように可符香の髪に触れる。  
(起きない………寝たフリって可能性も否定できませんけど…)  
二度、三度と望の手のひらが優しげな手つきで可符香の頭を撫でる。  
すると、その感触に反応したのだろうか、可符香の寝顔に僅かに幸せそうな笑みが浮かんだ。  
いつもの彼女とは違う無防備な、それでいて心の底から安らいだ様子のその表情に望も気がつけば微笑を浮かべていた。  
明るく元気で、それでいて時折何かを企むダークな表情も見せる可符香。  
だけど今の彼女の表情はそのどれとも違っていた。  
「まったく……こうして寝てれば可愛いものなんですけどねえ……」  
望は可符香のひとつ前の席に座り、普段は見られない彼女の表情にじっと見入る。  
 
望は可符香と過ごす2のへでの時間を愛しく感じていた。  
おそらく、彼女がいなければこの学校での望の生活は今と大きく違ったものになっていただろう。  
さまざまな企みや悪戯で日常を引っ掻き回す可符香の存在は、いつのまにやら望にとっては無くてはならないものになっていた。  
それでも………  
「それでも、たまにはあなたとこんな風に、一緒に静かな時間を過ごしたい……。そう思うのは贅沢な事なんでしょうかね?」  
可符香の頭を撫でながら、しみじみと呟く望。  
その手のひらは今度は桃色に染まった可符香の頬にそっと触れる。  
その優しい指先の感触を感じ取ったのだろうか、可符香の表情はより穏やかな、幸せそうなものに変わる。  
このまま、時さえも止まってしまったようなこの教室で、ずっと可符香だけを見ていたい、望がそんな事を考えていたその時だった……  
「んん……せんせ……?」  
「あ、起こしちゃいましたか……?」  
薄く開けた目元をぐしぐしと擦りながら寝ぼけまなこで望を見上げる可符香。  
一方の望はせっかく眠っていた可符香を起こしてしまった事に、『しまった』という表情を浮かべる。  
そもそも最初は可符香を起こす為に彼女に近づいたのだということは、すっかり望の頭からは消えているようだ。  
「あれ?…私、いつの間にか眠ってたんですね……それに、先生、いつからここに…?」  
「忘れてた教科書を取りに来たんですよ。そしたら、あなたが机で寝てるものだから……」  
「ふふふ、それで私の寝顔に見とれたり、ほっぺに触ってくれたりしたんですね…?」  
「あう……うう……そういう事に…なりますね……」  
可符香の寝顔をだけを見ていた視線、頬に触れた手のひら、それだけあれば誰にだって分かる。  
自分の先ほどまでの行動を言い当てられて、望の顔は真っ赤になった。  
一方、当の可符香はそんな望をよそに、しみじみと嬉しそうな表情を浮かべて  
「そっか…一緒にいてくれたんですね、先生……」  
そんな事を呟いた。  
それから、おもむろに頬に触れたままの望の手のひらに、自分の手の平を重ねてきゅっと握り締める。  
「え?あ?…風浦さん?」  
振りほどこうと思えば簡単に振りほどけるほどの僅かな力。  
だけど、望の手の平はそっと触れた可符香の手の平の下から抜け出す事が出来ない。  
「それなら、また眠ったら、その間もきっと先生は側にいてくれるんですよね?」  
「あ………は、はい」  
そして、うっとりと呟くように可符香が発したその言葉に、望は気がつけばしっかりと肯いていた。  
「それじゃあ、もうちょっとだけ一緒にいてください、先生……もうちょっとだけ、私と一緒に……」  
それから、可符香はそのまま眼を閉じて、すやすやと再び穏やかな寝息を立て始めた。  
その手は望のぬくもりに縋りつくように、彼の手の平を愛しげに抱き寄せている。  
一方、再び取り残された望は可符香に手を握られたまま、身動きを取る事もできない。  
「参りましたね……」  
困り顔で呟く望。  
しかし、その視線は可符香の寝顔をじっと見つめたまま、口元には柔らかな微笑が浮かぶ。  
もう少しだけ、このままで……。  
元はと言えば、彼女の寝顔に惹かれたのは望の方だ。  
もう少しだけ、ほんの少しだけ、こうして可符香の傍らで彼女の安らかな眠りを見守っていたい。  
望は可符香の前の席にしっかりと腰を落ち着け、もうしばらくの間、この少女の傍らで過ごしていようと、そう決めたのだった。  
 
・  
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・  
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それから一時間ほどが経過しただろうか?  
可符香の側に座る望は、彼女の気持よさそうな寝顔に当てられたのか、何時の間にやら彼女と同じくすやすやと眠りに落ちていた。  
一方の可符香も同じように安らかな寝息を立てていたのだけれど……  
「あれ?……私、どうして……?」  
日が沈んで少し冷たくなり始めた空気に頬を撫でられたせいだろうか、ゆっくりと瞼を開き体を起こした。  
「…先生?……どうして、先生が私といっしょに?……って、ふあ!?」  
しかも、彼女は先程の望との会話を全く覚えていなかった。  
どうやら、寝ぼけたまま夢うつつの状態で望と話していたらしい。  
そんな彼女が自分の取った行動を覚えている筈もなく……  
「………どうして、私、先生の手の平を握って……?」  
頬に触れた望の手の平と、それをきゅっと握り締める自分の手の平に思わず赤面してしまう。  
しかし、細く繊細な望の指先から伝わる温もりは彼女には抗いがたく……  
「うぅ……せんせい……」  
可符香はそのまま、先程、眠りに落ちる前の望がそうであったように、彼の手の平からすっかり離れる事が出来なくなってしまったのだった。  
 

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