晴れ渡る秋の日の空はどこまでも青く、高く広がって、辺りには涼やかな風が吹き抜けていた。  
その風を切って高校のグラウンドを生徒達が次々に駆け抜けていく。  
追いつ追われつ、抜きつ抜かれつ、コースを走る選手達の姿にそれを見守る保護者やクラスメイト達が歓声を上げる。  
2年へ組の担任教師、糸色望も教職員用のテントの片隅からぼんやりと見つめていた。  
今日はこの学校の運動会。  
途中、毎度お馴染みの2のへの面々による騒動が起こりはしたものの、その辺の事情には周囲の生徒や教師達もすっかり慣れっこで、  
速やかに騒ぎの後片付けが行われた後はプログラム通りに運動会が続行された。  
「うう、今日も疲れましたねえ」  
とはいえ、クラス担任として騒ぎを収めなければならなかった望の疲労は大きかった。  
ついさっきまでは選手用のゲートの手前で、各競技に出場する各クラス代表達の点呼や入場を取り仕切っていたのだがどうやら限界が来てしまったらしい。  
その様子を見かねた智恵先生に少しだけ休むように言われて、望はパイプ椅子に腰掛けて休憩していた。  
『運動会が終わったら今度はテントの撤収もありますし、今のうちに体力回復しといてください』  
それは彼女らしい気遣いではあったのだけれど  
「……ちょっと情けないですよね。……自分に絶望しちゃいますよ」  
自分の肉体の虚弱さを思うと流石に落ち込んでしまう望だった。  
ともあれ運動会の競技も既に残り僅か。  
次は2のへの生徒達も参加するリレーだった。  
自分の生徒たちの健闘ぶりをしっかりと見ておこうと望は姿勢を正す。  
そんな彼の背後から耳慣れた声が聞こえてきた。  
「先生、お疲れみたいですね」  
振り返れば、いつもの笑顔がそこにあった。  
「全く、誰のせいだと思ってるんですか。あなただって騒動に加担したクチでしょうに、風浦さん」  
「でも最初に話題を振ったのは先生でしたよね?」  
「う……むぐぐ……」  
投げかけられる言葉もひらりとかわし、いつもの調子で、可符香は望を黙らせてしまう。  
しかし、望はそこでハッと気がつく。  
「……って、風浦さん、あなたは確か……」  
「あ、ちゃんと覚えてくれてたんですね。はい。次のリレー、ついに私の出番です!」  
「いや、そんな悠長に構えてる場合じゃないでしょう。早く入場門前に集まらないと」  
「えへへ。すみません。始まる前にちょっと先生とお話ししたいなって思って」  
慌てる望の前で可符香はくるりとその場でターン。  
「ちゃんと応援してくださいね、先生!」  
「わかってますから!応援しますから!ほら、早く急いで!」  
望に背中を押され、入場門へと彼女は駆けて行く。  
相も変わらぬ可符香のマイペースぶりにため息をつきながらも、望は遠くなる可符香の背中を見送ったのだった。  
 
というわけで始まった2年生による組対抗リレー。  
2のへのリーサル・ウェポンたる晴美は最終競技の為に温存されているので、メンバーの運動能力はそこそこといった所。  
ちなみに可符香は六人チームのアンカーを務めていた。  
各クラスの実力もほぼ拮抗しており、選手達はほぼひとかたまりになってコースを走っていた。  
ただ、その中で2のへだけは若干遅れ気味に、集団の後ろについていくような形になっていた。  
それでもアンカー一つ手前の奈美の奮闘のおかげで順位は徐々に上がり、そしてアンカーの可符香にバトンが託された。  
「可符香ちゃん、後はお願い!」  
「わかったよ、奈美ちゃん!!」  
息も絶え絶えの全力疾走でスタートラインまで戻って来た奈美からスムーズにバトンを受け取り可符香は走りだした。  
小柄なぶん歩幅も小さく、運動部に所属している訳でもない可符香だったが、彼女には他人の一歩先を読む頭脳があった。  
ダンゴ状になった各組の選手達の動きを見ながら、隙間を縫うように前へ前へと進む可符香。  
いつしか彼女は先頭を走る2名の選手とトップを争うまでになっていた。  
「これは……ひょっとすると、ひょっとするかもしれませんね……」  
そんな可符香の健闘にいつしか望も手に汗を握り見入っていた。  
熾烈なトップ闘いが繰り広げられる中、選手達はやがてゴール間近、ちょうど望のいる教職員テントへと近づいてきた。  
と、その時、望は選手達の一人の妙な動きに気付いた。  
「あれは……」  
集団の後ろの方から追い上げてきた彼女は少しでも先頭に近づくために、他の選手達を押しのけるように走る。  
よほど必死なのだろうか、激突スレスレの走り方をしながらも、彼女自身はその危険に気づいている様子はない。  
やがて、彼女は可符香を含む先頭の三人の背後まで辿り着く。  
ゴールまでもう幾らも距離はなく、迂回している暇はない。  
彼女は可符香と隣の選手の間の僅かな隙間に、先程までと同じ要領で強引に体をねじ込む。  
しかし、それはあまりに無謀な行為だった。  
「危ないっ!!」  
思わず立ち上がり叫んだ望の声も届かなかった。  
「あっ…!?」  
背後から迫る不穏な気配に気付いた可符香にも、それに対処するだけの余裕は無かった。  
可符香はちょうど右足を引っ掛けられる形になり、そのまま派手に転倒する。  
「風浦さんっっっ!!!!」  
それを見て真っ先に飛び出したのは望だった。  
「可符香ちゃんっ!!」  
その後に続いて、2のへの面々や他の教師達も駆け寄る。  
一方の可符香は自分の方に向かって駆けて来る彼らの心配そうな表情を見て  
「いやだなあ、そんなに大げさに騒がなくても大丈夫ですよ…」  
そう呟きながら、自分で立ち上がろうとしたのだけれど  
「あ…っ!」  
そんな彼女の右足首に鋭い痛みが駆け抜ける。  
どうやら、先程の接触の際、転ばないように咄嗟に踏ん張ったのがまずかったようだ。  
「……まいったな、私、アンカーなのに……」  
それでも痛みをこらえて、一歩、二歩と前に進むが、傷付いた足は彼女の体を支え切れず……  
「風浦さん、大丈夫ですかっ!!」  
「せん…せい……?」  
しかし、そのまま前のめりに倒れようとした寸前に、可符香の体は望の腕に抱きとめられたのだった。  
 
「もうすぐ保健室ですから、我慢してくださいね」  
「はい、先生」  
運動会で人の出払った静かな廊下をゆっくりとした足取りで進む影が一つ。  
それは先程、リレー中に足首をねんざしてしまった可符香を背中に背負った望のものだった。  
「すみません。先生に迷惑かけちゃいましたね…わざわざ保健室まで送ってもらうなんて……」  
「気にしないでください。どうせさっきはテントの隅っこで休憩中だったんですから…」  
「でも、やっぱり虚弱で貧弱な先生に無理をさせるのは、ちょっと気が引けます」  
「うう、微妙に引っかかる言い方ですね……」  
望の背中の上の可符香は、相も変わらぬ口調で彼を茶化していたが、  
足首の痛みのせいだろうか、ときどき息をつまらせギュッと望の体にしがみついてくる。  
「風浦さん、足の痛みは……大丈夫なわけありませんよね」  
「いやだなあ、そんな事ないですよ。ちっちゃな子供じゃないんですから、これぐらい平気です」  
それでも可符香は自分から『痛い』とは決して言おうとはしなかった。  
右足首の腫れを見れば平気な筈がない事は一目瞭然だったが、それでも彼女は強情を張るつもりのようだ。  
望はそれ以上、可符香に怪我について問いかけるのを諦めて、保健室へと急いだ。  
 
「失礼します。競技中に怪我をした生徒を連れて来たんですが……」  
「…いませんね、保健の先生……」  
保健室の扉を開けた向こうには、そこにいる筈の保健の先生はいなかった。  
ちょうどタイミング悪く外に出払っているらしい。  
「仕方ないですね。風浦さんをこのままにはしておけませんし」  
そこで望は保健室の椅子に可符香を座らせて、薬棚を開けて湿布と包帯を取り出した。  
「うわ、何だか手馴れてますね、先生」  
「誰かさん達のおかげでここには大分お世話になってますからね」  
「なるほど……」  
毎度毎度の2のへの騒動の度に高確率で大ダメージを被ってきた望は保健室の常連だった。  
ついでに怪我のしすぎで応急手当についてもすっかり手馴れている様子である。  
「待っててください、今、湿布を貼りますから……」  
「はい………あっ……」  
可符香の前に膝を付き、湿布を貼ろうとする望。  
その指がそっと足首に触れたとき、彼女は思わず声を上げた。  
「だ、大丈夫ですか?」  
「さっきから、平気だって言ってるじゃないですか。やっぱり心配しすぎですよ、先生」  
可符香の声を聞いて心配そうな表情を浮かべた望に、彼女は微笑んでそう答える。  
その言葉に偽りはなかった。  
確かに先程までは痛みを無理に我慢している部分もあった。  
だけど、今のは違った。  
もちろん、ケガをしている場所に触れられれば、痛みを感じるのは当然のこと。  
しかし、今の可符香はそれ以上に望のいたわるような優しい指先に触れられる事に安心感を感じていた。  
そんな可符香の表情に少し安心したのか、望はおっかなびっくり手当を再開する。  
「……それじゃあ、貼りますよ」  
「はい」  
腫れ上がった踝に湿布が貼られる。  
熱と痛みが入り交じったその場所を包みこむその冷たさが心地良かった。  
それから望は今度は包帯を取り出して関節を固定するように足首に巻き始める。  
怪我の手当なのだから当然といえば当然なのかもしれないけれど、壊れ物でも扱うかのようなその手つきが可符香には嬉しかった。  
「包帯、きつすぎませんか?」  
「はい。これくらいで大丈夫だと思います」  
一通りの手当が終わると、もう湿布の効き目が現れ始めたのだろうか、先ほどより随分と楽になったように感じる。  
「ありがとうございました、先生。…痛みもちょっと引いてきたみたいです」  
「そうですか。それは何より」  
可符香の言葉を聞いた望はホッと息をついてから、彼女の隣に腰を降ろした。  
 
「ふう、一時はどうなる事かと思いましたが……」  
「だから、先生が心配しすぎなんですよ。でも……」  
「でも?」  
意味ありげな言葉に、望が何気なく可符香の方を見ると、可符香も同じように望の方を見つめていた。  
「私が転んだとき、先生、一番最初に気付いて駆けつけてくれましたよね?」  
嬉しそうに、愛しそうに、ポツリと呟いた可符香の言葉が何故だか気恥ずかしくて、望は僅かに頬を染めた。  
「い、いや、あれは……たまたま近くに座っていましたから……」  
「それでも、他の皆より随分早く私の方に飛び出したように見えましたけど」  
「あ…うぅ……」  
「約束通りちゃんと応援して、しっかり私のこと、見ててくれてたんですね」  
望自身はあまり意識していなかったようだったが、どうやら可符香の言葉はほぼ正解だったらしい。  
確かにあの時、望は可符香の走りをじっと見つめて、彼女の身に迫る危機にも誰よりも早く気づいていた。  
図星を突かれた望を横目に可符香はさらに話を続ける。  
「あの時、嬉しかったです」  
「嬉しかった?」  
「……はい。転んで、怪我して、みんなに心配かけて、そんな時にこんな事思っちゃいけなかったのかもしれないですけど  
……でも、やっぱり嬉しかった。先生が私の所に真っ先に来てくれた事が……」  
それから、可符香は望の手に自分の手の平を重ね、きゅっと握りしめて  
「先生は私のエネルギー源ですから!」  
そう言った。  
「エネルギー……」  
「先生の笑う顔、嬉しそうな顔、その他にも色んな表情、見てるだけで私は元気になれるんです」  
「風浦さん……」  
「それから、怯えた顔に困り顔、恐怖に青ざめた顔や泣きじゃくった顔なんかも……」  
途中まで半ば感動しながら聞いていた望の肩ががっくりと落ちる。  
「それじゃあ、アレですか?毎度毎度のいたずらや罠は……」  
「はい!もっともっと先生の色んな顔を見たくって!」  
何というか、これが風浦可符香という少女なのだろう。  
2のへ最大の危険人物の真骨頂といったところだ。  
それでも、望は目の前の少女を憎らしく思う事は出来なかった。  
それでこの笑顔が見られるのならば、なんて考えたりしていた。  
「でも、何といっても一番のとっておきはですね……」  
「はいはい。なんでしょうか、風浦さん?」  
半ば呆れ気味に、その一方で照れ隠しにぶっきらぼうな態度を装って、望は問い返す。  
可符香はその言葉に少し恥ずかしそうにこう答えた。  
「………先生が私をちゃんと見てくれてる事。それが一番嬉しいんです」  
「………風浦さ…うわあ!?」  
言い終えてから、望の顔が今度こそ真赤に染まったその瞬間、可符香は望にぎゅっと抱きついた。  
望と同じく真赤に染まった顔を隠すかのように、彼の胸元に顔を埋めた。  
「だから……改めて、ありがとうございます、先生。ちゃんと私を見てくれて、助けてくれて……本当に、ありがとう…」  
最後に、囁くように呟いた可符香のその言葉に、頭が真っ白になった望は返す言葉を思いつけなかった。  
だから、その返事の代わりに、可符香の小さな背中に腕を伸ばし、彼女をきゅっと抱きしめたのだった。  
 
 

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