『キッチリー』
「ピンポーン」
ドアチャイムを鳴らす行為は、訪問者としてのごく一般的な礼儀作法と言える。
ただし、それは深夜二時という時間帯でなければの話。ましてや、その訪問場所が、夜間
は人の出入りがないはずの学校。正確にはその宿直室であれば尚更である。
宿直室の主の名は「糸色望」
この鈴木うどん商店高校の教師で、訳あってこの宿直室を生活拠点としている書生姿の青
年である。
通称「絶望先生」
彼はその名前の並びと、時に激しくネガティブとなる性格からそう呼ばれている。
深夜にもかかわらず、一回目のチャイムが鳴った時点で望の体は宿直室の玄関にあった。
もっとも、それはチャイムを鳴らした相手を迎えるためではなく、深夜に興じていたテレ
ビゲームに飽き、気分転換に外出する途中だったためである。
何せ今日からは教師にとっても夏休み。多少とはいえ、出勤しなくてもよい日が増える喜
びを否定できるほど、望は天邪鬼ではない。
「はい、どなたでしょう?」
深夜の訪問客を訝しく思いつつ、望はゆっくりと玄関の扉を開けた。
訪問客は、真ん中分けの長い黒髪が印象的な少女であった。白いワンピースとミュールが
黒髪の艶やかさを引き立てている。
望が担当する二年へ組の生徒で、出席番号二十番にして几帳面・粘着質少女「木津千里」
ちなみに、望に好意を寄せる女子生徒の一人でもある。
ここで話は半日ほど前に遡る。
夏休みを明日に控え、二年へ組では一学期最後のホームルームが行なわれていた。
登校日のこと、補習授業のこと、夏休み中の注意事項等々、事務的な連絡を終え、あと
は望がホームルームの終了を宣言するのみという段階となった時のことである。
「あー、そうそう」
望は追加の連絡事項があることを思い出した。
「一部の生徒さんから申請があった、学校での怪談大会ですが、却下することにします」
「えー!」「何でー?」
お約束通りの反応を受け、望は言葉を続ける。
「あなた方もいい加減、学習されてはどうですか?」
望はネガティブな却下理由を語り始めた。
「この手の企画のオチは、こうなるに決まっています!」
怪談大会、天才ストーリーテラーな生徒などにより盛況
↓
盛況のあまり、いつのまにか怪談の話数が禁忌の百話に到達
↓
本当に心霊現象が発生
↓
「やっかいさん」に悪霊が憑依
↓
スコップで大ひぐらしみたいな猟奇オチ
「それに‥」
「それに?」
望に聞き返してきたのは、さきほど「やっかいさん」と暗に名指しされた千里であった。
無論、本人は名指しされているのが自分だとは微塵も思ってはいない。
「この学校は怪談の会場としては、役者不足ならぬ役場不足なのです!」
「意味がわかりません!」
千里の反応を道理と思ったのか、はたまた他の生徒の反応の薄さに気が付いたのか、望は
解説を始めた。
「学校に付きものの七不思議ですが‥、残念ながら我が校には七ではなく二不思議しかない
のです!これを役場不足と言わずして何と言いましょう!」
「語呂悪っ!と言うか、なんですかその中途半端な数字。きっちりしてなくてイライラする!」
几帳面・粘着質少女としてのスイッチが入ったらしく、千里が教壇の望に詰め寄る。
千里のまっすぐな視線から逃れるが如く、明後日の方向に目を逸らせつつも望は解説を続
けた。
「この景気停滞気味のご時世。必要性の低いものが減らされるのは仕方ないことなのです。
例えば‥」
・某メーカーの駄菓子の分量
・中流家庭のお父さんのお小遣いの額
・内閣支持率
・某週刊漫画誌の発行部数
・マイナー競技の社会人チームの数
・マンションの鉄筋の数
・トゥギャザーしようぜ!とか言っていた人のテレビ登場回数
・ハロ●!プロジェクトのメンバーの数
・温水●一の頭髪の量
・放送が終了したアニメ作品のファンサイトの数
「いや、その内の半数は必要性あるからっ!」
「と言うわけで、連絡事項は以上です。みなさん、学校に迷惑をかけない夏休みを送ってく
ださい」
「無視かよっ!」
こうしてへ組の夏休みが始まった。若干一名、二不思議への不満を抱いた少女を残して。
そして話は今に至る。
「えーと、こんな時間にどうされたんですか、木津さん?」
望の疑問は当然至極であろう。几帳面なこの少女に関しては忘れ物などありえないし、そ
もそもこの時間帯に訪問してくること自体、常識的に考えてありえない行為である。
「先生、私気が付いたんです」
まるで難解な方程式の解き方を見つけたかの如く嬉しそうに目を輝かせ、千里が答える。
「二なんて中途半端な数で残すより、いっそ全部なくしてしまうのが正解だってことに!」
「へ?‥二って、まさか昼間に話した学校の二不思議のことですか!?」
「はいっ!」
昼間と異なり、望と潤滑な意思疎通を図れたことが嬉しかったのか、千里の声が弾む。そ
の手には、いつの間にか愛用のスコップが握られている。
「と言うわけで、怪奇現象が起きやすい丑三つ時きっちりにお邪魔してみました。さぁ、先
生。私と一緒に学校のすべての怪奇現象を除去しましょう!」
「ひっ!」
ここに至って望はようやく状況を理解した。
千里がこの時間帯に訪ねてきた理由とその目的。そして実際に存在するかどうか分からぬ
二不思議を、本気で除去しようとしていること。ついでに、千里への中途半端な抵抗は命に
かかわることも。
窮地に追い込まれた時、人間の脳は急速にその処理能力を高めるという。
今まさに望の脳はその状態にあった。
千里の求めに従う→No 千里が霊に憑依され、小ひぐらしオチ
適当な会話で日の出まで時間稼ぎ→No 時間稼ぎを勘付かれ、怒りの小ひぐらしオチ
怪奇現象など単なる噂だと諭す→No 噂である事を証明しろと(中略)小ひぐらしオチ
実はちゃんと七不思議があると伝える→No 実際に確認させろ(中略)小ひぐらしオチ
にげる→No モンスター、もとい千里に回り込まれ(中略)小ひぐらしオチ
たたかう→No 「ちりはのぞむのこうげきをかわした!」(中略)小ひぐらしオチ
ここまでのシミュレーションを終えるまで一秒。
解決策ゼロ!?
人生終った!
「諦めたらそこで試合終了だよ」
SLUM D●NKの安西先生!?
そうだ。安西先生といえば、人をおだてて説得する達人。
たしか、相手のアイデンティティをそれとなく称える話術だったような。
ここまでで二秒
千里のアイデンティティといえば、その几帳面な性格。そしてそれを表すように一糸の
乱れも無くきっちりと整えられた黒髪。
これを話の起点にして、千里が二不思議への執着をなくすような展開に持ち込もう。
急に整然とした髪型や艶の美しさを称えるのは不自然なので、千里にこちらの意図を勘
付かれる可能盛大。
とりあえず雑談などでこの緊張状態を緩和することから始めよう。そうしよう。
暫定的な結論を出した、ここまでで三秒
「そうでしたか。ご自宅から歩いてこられたんですか?」
「ええ。さすがにこの時間に交通機関は動いていませんから」
千里の家からこの学校までは徒歩で一時間前後はかかる。
昼間に比べれば涼しいとはいえ、今は真夏。目的達成のためにそれだけの距離、しかも人
通りの少ない深夜を平然と歩き抜く千里の執着心に、望は背筋へ冷たいものを感じた。
瞬間。高速回転を続ける望の脳裏に、一つのキーワードが引っ掛かった。
ん?深夜・・外出?
望は半日前のホームルームでの連絡事項の一つを思い出した。
『夏休み期間中、保護者同伴以外の夜間外出、外泊は禁止』
「それって、学校の夜間外出禁止令に反してませんか?」
望のその一言で事態は収束に向かった。
規則を遵守することに厳しい千里であるが、執着心が先に立ち過ぎ、連絡事項のことを失念
していたらしい。
いわゆる、目的と手段の順番が入れ替わりである。
自身の規則違反を認識した瞬間、アイデンティティと共に千里は膝から崩れ落ちた。
それから数分後。
「大丈夫ですか?」
労わりの声を掛けつつ、望は千里に冷たい麦茶を差し出した。
違反したことがよほどの衝撃だったのか、半ば放心状態にまで陥った千里をどうにか室内に
運び込んだ後のことである。
無言で麦茶を受け取る千里。
憂いのある横顔、清楚な印象を受ける白いワンピースと、それに映える艶やかな黒髪。
(大人しい時はお嬢様然として可愛らしいんですけどね)
などと今の千里に対する印象を頭の隅で処理しつつ、望はこれからの対応に思いを巡らせた。
千里を自宅まで徒歩で送り届ける→No 今の千里の状態で徒歩は困難、あと自分が疲れる
千里をこの宿直室に泊める→No 教育者の倫理的にアウト(場合によっては新聞沙汰に)
先程の高速回転の反動か、思考能力が低下しつつある望には、それ以上の対応方法が思い浮
かばなかった。
(とりあえず、木津さんの回復を待って決めましょうかね)
結論を先延ばしただけではあるが、今の望にはそれが最善手だと感じられた。
自分用の飲物でも用意しようかと立ち上がると、ふと千里の足が視界に入った。
白く細い足首の近く、くるぶしの下辺に一本の赤い筋。おそらく歩行中にミュールのベル
トがかすったことで生まれたものだろう。
それは、千里の足の白さと相まって、望の目にはとても淫靡なものに映った。
視線を少しずらすと、そこには白魚のような足指と桜貝のような爪。
白と赤のコントラスト。そこから産まれたような桜色。
ぐるぐるぐる
(脳が逆回転している‥)
実際に音が聞こえたわけではない。
ましてや、実際に脳が回転するわけもない。
しかし、望はそのように認識した。
眠気とも無意識とも異なる感覚。
そこから先の行動は、望には白昼夢のように感じられた。
高価な美術品を扱うかのように、千里の右足のつま先をそっと持ち上げる。
ためらうことなく、赤い筋に舌を添わせる。
紳士が淑女へ挨拶するがごとく、足の甲に唇を軽く押し付ける。
そこから舌先で「の」の字を描く。
足の小指を口に含み、舌を絡めた後、唇で軽く挟む。
薬指、中指、人差指、親指の順に同じ動作、いや愛撫を繰り返す。
舌や唇を動かすごとに聞こえる微かな喘ぎ声が耳に心地よい。
世間一般的に見れば変態的とも受け取れる行為であるが、今の望は何の抵抗感や背徳感も
覚えなかった。
右足親指の愛撫を堪能し終わると、目の前におずおずと左足が差し出された。
白魚と桜貝で飾り付けられた美しい足。
(‥何と美しい品だろう、この所有者の名前はたしか木津‥千)
くるくるくる
再び脳が回転する音が聞こえた。
今度は通常回転の音だと認識した途端、望の意識は収束を始めた。
目の前には愛撫の結果、全体が桜色に染まった右足と、白い左足。
その足の持ち主は教え子である木津千里。
その足を愛撫したのは教師である自分で、ここは学校の宿直室。
どう見ても宿直室に教え子を連れ込み、欲望の限りを尽くした淫行教師の図である。
急速に訪れる現実感。
元々強いとは言えない望の精神が瓦解し‥そうになった瞬間、千里の一言がその事態を防ぎ
止めた。
「消毒してくれたんですよね?先生‥」
事実確認の質問ではなく、事実を理解した上で同意を求めるというニュアンスの一言。
淫行ではなく互いに了承済みの治療行為である。そんな千里のフォローに思わず望はその顔
に視線を合わせた。
そこには右足以上に艶やかな桜色に染まった千里の顔があった。
その表情はホームルームの時、玄関先でのやり取りの時、放心状態の時とも異なる、まるで
別人かと思えるくらい蕩蕩としたものであった。
「先生、消毒の続きをお願いします」
ぐるぐるぐる
(‥何と美しい品だろう)
夜はまだ長い。次は左足にしようか、それとも‥
−終−