第六夜
こんな明晰夢を見た。
女流学士が天満神社の舞殿で計算複雑性理論の公開解読をおこなっているという評判だから、
散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに個々の所見を言い合っていた。
舞殿の隣五間の所には、大きな赤松があって、その幹が斜めに舞殿の甍を隠して、遠い青空
まで伸びている。松の緑と朱塗りの柱が互いに照り合って見事に見える。その上、松の位置が
好い。舞殿の左の端を目障りにならないように、斜に切って行って、上になるほど幅を広く屋根
まで突き出しているのが何となく古風である。鹿苑寺庭園の流れと思われた。
集まった見物人の中でも男子の学徒が一番多い。学問所へ行くのが億劫だから立ち寄ってい
るに相違ない。ましてや、解読しているのは学士には見えぬほどに可愛らしい乙女である。
女流学士は見物人の評判には委細頓着なく筆を動かしている。一向に振り向きもしない。ぴん
と張られた画布の前に立って、丸文字の数式を書き綴って行く。
仰向いてこの態度を眺めていた一人の若者が、自分の方を振り向いて、さすがは学士の大浦
可奈子様だな。眼中に我々なしだ。真理の追求者はこうあるべしという態度だ。天晴れだ、と言
って褒め出した。
自分はこの言葉を面白いと思った。それでちょっと若者の方を見ると、若者はすかさず、 あの
迷いのない筆の使い方を見たまえ。大自在の妙境に達している、と言った。
可奈子は数十行の数式を一気に書き込んで、筆先を縦に返すや否や、その数式の横に持論
の証明式を書き込み始めた。その筆の入れ方がいかにも無遠慮であった。そうして少しも疑念
を差し挟んでいない様に見えた。
日が暮れかかっても可奈子の筆は止まるところを知らず、そのうち見物人もひとりまたひとりと
家路につき、やがて自分ひとりだけになった。
そろそろ休憩に入ってはどうか、と声をかけると漸く筆が止まった。
可奈子が自分の方へ振り向いた。口元は三日月を形作っていたが、瞳は新月の様に空虚しか
映していなかった。
仏造って魂入れず、否、眼入れず。これではいかに妙域に達しようとも、解読の歓びは得られ
ないだろうと思った。急に可奈子が不憫に思え、家へ連れて帰った。
筆に替え、白湯を湛えた湯呑を持たせると、可奈子の瞳が新月から満月に変わり始めた。心
なしか口元の三日月も半月に近づいた気がした。急に可奈子が愛おしく思え、我知らずのうちに
抱き寄せていた。
自分の舌を筆に見立て、可奈子の全身へ生の歓びを描き込んだ。
半月は満月に変わっていた。
枕言葉にでも、と理論の要点について尋ねると、計算量理論におけるクラスPとクラスNPが等
しくないという予想、即ちP≠NP予想です、と返ってきた。
自分は数学には疎いので解読の役には立てないだろう、と言うと、私たちに置き換えると、自
ら糸色先生に告白して恋愛を成就させるのと、他者の手を借りて成就させるのとではどちらが易
しいか、それを予想する様なものだと返ってきた。
数学は奥が深いとつくづく思った。
第六夜 ―終―