第一夜
こんな明晰夢を見た。
がらくたに囲まれた六畳間の真ん中に、一畳分の布団が敷かれている。神妙な表情を作り腕
組みをして枕元に座っていると、仰向けに寝た女が、静かな声でもう逝きますと言った。女は長
い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい
血の色が程良く差して、唇の色は椿の花の様に赤い。
到底死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう逝きますとはっきりと言った。二度も
口にするのであれば、自分も確かにこれは逝くのだろうと思った。
そこで、そうですか、もう逝かれるのですか、と上から覗き込む様にして聞いてみた。逝きます
とも、と言いながら、女はゆっくりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫毛に包まれた中
は、ただ一面の暗黒であった。その黒い瞳の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。
糸色先生、これって、夏目漱石の夢十夜のパクリ?仰向けに寝た女が、無邪気な調子で尋ね
てきた。‥いいえ、オマージュからのコラージュですと無邪気を装って答えを返した。
気を取り直し、自分の姿が透き通るほど深く見える瞳の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思
った。それで、懇ろに枕の傍へ口を付け‥ようとしたところで、女の手が伸びてきた。頭を抱え
込まれ、唇が唇で塞がれる。
これではコラージュの草稿が無意味になってしまう、と慌てて唇を引き離した。女は、うふふ、
と笑いながら体を反転させうつ伏せになった。
草稿では、枕元で仰向けのまま女は遺言を残して逝き、男はその遺言を果たす前に自ら命を
絶つことになっている。接吻もうつ伏せも草稿には一言も記してはいない。
絶望した!明晰夢の中ですら、自分の草稿通りに物事が進まないことに絶望した!
うふふ、と再び女が笑った。何が可笑しいのかと問い質そうとしたところで、初めて女が誰なの
か気が付いた。
木津多祢。自分の生徒の姉で、本人の意思にかかわらず塵芥などを引き寄せてしまう特異体
質の大学生。それほど親しい間柄でもない彼女が、登場人物二名のみの話の女役を務めてい
る。もっと他に、夢に登場させる程度には親しい女性がいるだろうと自問した。
うふふ、と三度女が笑った。頭の中にある草稿が、くしゃっ、と音を立てて押し潰された。
草稿通り、否、思い通りに物事が進まぬ明晰夢など、価値は無い。自分自身に痛みを与え、
どうにか目を覚ましてしまおうと思った。
図面通りに作られた物に人の心を動かす力は無いと思う、と女が言った。明晰夢とはいえ、
自分より夢の中の登場人物の方が文学的な意見を出したことに再び絶望した。
絶望のあまり、反射的に首括り用の縄に手を伸ばしたが、触れたのは縄ではなく女の手であ
った。ならば縄に替えて女の手で首を絞めてもらおうと思い付いた。すると、手や縄よりもっと良
い物があるよ、と女が囁いた。
女の指示通り、布団に仰向けに横たわる。馬乗りになった女が、その髪を首に巻きつけ、ゆっ
くりと絞め上げてくる。絞め方が緩くてなかなか苦しくならない、と言うと、唇を唇で塞いでくれた。
感謝の意を表すため、舌で女の唇をゆっくりと擦りつつ、腰骨を両手で撫でる。女が体を軽く
震わせ、その反動で髪の一部が顔に覆い被さってくる。髪から鼻孔へ、椿油を連想させる香り
が流れ込んできた。
あぁ、この女は唇だけではなく、香りも椿なのだなと感じた。椿の花言葉が「理想の愛」である
ことに納得しながら、もう少しこの状態を味わっていたいと思った。
第一夜 ―終―