私  
恋するとだめなんです  
  
ひとたびその御方を愛せば、何が何でもその人を振り向かせたい  
会いたい 話したい 愛されたい  
そのためなら例えどんなことだって……  
  
  
  
ある日曜日のことだった。  
「ま、まといちゃん。なにそれ?」  
奈美が思わず声をかけたのは、望の背後をつきまといつつ、うっとりした表情で右手に握る小瓶を見つめているまとい。  
まといは、なにを浮かれているのか嬉しそうな表情を崩さないままで小瓶を振って見せた。ラベルの遮りがない半透明な瓶の中で、無色の液体が見る者を誘うように揺れる。  
「これ、某所で手に入れた惚れ薬」  
「あぁ……またそれ? そのセリフ137話くらいで一回聞いた気が……」  
こんなことは以前にもあったことを奈美は記憶していたが、どうやら今回はまた、違うもののようである。  
前回はただのアメだったが、今回は騙しものではない。  
「これはプラシーボ効果じゃないの、本当に効果がある、惚れ薬」  
「ほ、惚れ薬……」  
「先生が私だけを見て愛してくださるようにと、先生の元を10分も離れてまでして手に入れたの」  
「は、はぁ」  
「これを一滴飲ませれば、たちまち気分が高揚して、恋愛感情が爆発し、恋の絶頂の心地になれる……そこですかさずお誘いをかければ、先生は私にますます惚れること間違いなし……!」  
「そ、それってヤバい薬なんじゃ……ないの?」  
「でも! これを使えば他の泥棒女たちに差をつけられる……そんな奴らには目もくれずに私だけを見てくれるように……」  
すっかり自分(と望)の世界に入り浸っているまといに、これ以上関わるのは危険と判断した奈美は  
「が、がんばって……」  
と、足早に去っていく。  
一方まといは、奈美と話している間に少し離れてしまった望との距離を再び戻すために、電柱の陰から陰へと移りながら、望の後を追いかけていった。  
  
 じー……  
なんとしても望にこの薬を飲ませ、そして一番に自分が望にアプローチをかける。必ず成功させてみせる、そのために、わざわざ望が泥棒猫たちと触れ合う機会のない日曜日を狙ったのだ。  
しかし、まといはその機会を陰から狙い続けたが、どうにもそのタイミングが掴めない。  
望は一向に、飲食をする気配を見せないのだ。  
この薬は一滴でもすさまじい効果が得られる。常に気配を消して望の背後にいるまといにとっては、望が何かを口にするタイミングを見計らって混入させてしまえば飲ませるのは簡単なのだが、肝心の飲食を行わないのでは話にならない。  
この間のアメのように背後から「かぽ」と口に運んでしまいたいところだが、いま手持ちにそういった菓子の類はないし、この場面でも望の恐るべき危機回避能力が発揮されたのか、休日だというのに飲食物の売っている店に寄ろうともしない。  
昼食の時間さえも霧や交が邪魔で、惚れ薬の混入はうまく決まらなかった。  
やがてまといは、チャンスを待つのをやめた。  
そうだ、待っているだけでは駄目だ。やはり、こちらから飲ませるように仕掛けなければならない……そうすれば先生は、必ず振り向いてくれるのだから……!  
  
  
  
望たちが生活拠点としている当直室の中は、まといにとっても使い慣れたスペースだった。  
ここで、望に惚れ薬を飲ませよう。そして望を振り向かせるのだ。  
  
望は隣の部屋で、いつものように新聞を読みながら社会に絶望している。  
季節は夏、冷たい飲み物が恋しい季節。ここですかさず自分が「麦茶でもどうぞ」と勧めれば、喜んで口にするだろう。  
  
まといは冷蔵庫から麦茶の入ったポットを取出し、氷を浮かべた。そして、懐から取り出した小瓶の中の液体を、何滴かポットに垂らす。  
お盆にポットとコップを乗せ、これを望のところへ運んで、勧めれば……彼は麦茶と一緒に惚れ薬を飲み、そして、そんな気の利いた自分に好意を……  
まるで自分が惚れ薬を飲んで酔いしれたかのように興奮が抑えられないまとい。  
それはそうだ、今まで邪魔な女たちのせいでちゃんと自分と向かい合ってくれなかった望が、今日、ついに、振り向いてくれるのだ……!  
も、もう一滴……いや、入れすぎだろうか? しかしこれで望が自分に惚れるならば……  
  
しかし、そんなまといのもとに、別の機会が訪れることとなった。  
  
「先生、麦茶でもいかがですか?」  
まといがなんということもない表情をつくり、望がいる部屋に麦茶のお盆を持って入る。  
そして望の姿を捉えて、驚いて思わずお盆を落としそうになってしまった。  
  
望が転寝を始めたのだ。畳の上で大の字に、無防備に……  
  
まといに焦りが生じた。今は霧と交は台所での食器洗いに気を取られている、これはチャンスかもしれない。  
麦茶を勧めるという回りくどい方法よりも、今、望の口元にこの惚れ薬を垂らし、目を開いたときに初めて目にするのは他ならぬ自分……  
興奮がまといの判断力を鈍らせた、まといは周到な計画よりも、興奮からくるストレートな方法を選択した。  
  
近くのテーブルに麦茶のポットを置くと、望を起こさないようにそっと忍び寄る。その右手には、小瓶がしっかりと握られている。  
望は仰向けに寝ている。こ、この口元に惚れ薬を……  
  
まといの手が震えた。  
さぁ、飲んで、この薬を……一滴……!  
小瓶を望の真上まで持ってきて、ゆっくりと傾ける。  
先生、飲んで、私のために、そして私に……!  
  
  
  
まといが目前のユートピアを前に油断しきったそのときだった。  
「 常 月 さ ん 」  
聞き覚えのある、地獄の底から響き渡ってくるような凄みのある声が背後から聞こえ、思わず振り返った瞬間に、手に持っていた薬瓶は消えていた。  
  
まといから薬瓶を取り上げた相手は、誰あろう。  
「こんなもので先生を我がものにしようっていうのは、どうかと思いますけど……」  
千里だ。  
「!」  
千里の全身から発される強烈な負のオーラ。近くにいるだけで肌にぴりぴりするほどの殺意を察し、まといは思わず身構えた。千里が鈍器をその頭上に振り上げたのはそれと全く同時のことだった。  
「許せ ぬ!」  
まといはとっさに、左方から迫りくるスコップをかわして窓からひょいと飛び出し、スコップを振るう千里を前に電柱を小脇に抱えて  
  
  
  
  
------ このシーンは都合によりオンエアを控えさせていただきます ------  
  
  
  
  
気が付けば、路地裏に追い詰められたまといは千里に胸倉を掴まれていた。千里はまといを掴み、もう片方の手に取り上げた薬瓶を握っている。  
「常月さん、先生をこんなもので誑かそうとしていたなんて言わないでしょう?」  
「…………」  
まといは目を反らした。  
彼女も、内心は分かっている。確かに今回の手は姑息で邪道だろう。恋敵の千里としては、きっちりと制裁を加える気に違いない。  
しかし、先ほど電柱と相打ちになって弾かれたスコップは千里の手元にはない。  
その代わりに……と、千里がにやりと笑った。まといの背筋に寒気が走る。千里が片手で、器用に小瓶の栓を開けてみせた。  
「自分のやろうとしていたことをきっちりと省みて、こんな気を起こさないようにしてもらわなきゃいけないわね」  
まといがどんなに逃げようとしても、千里の右手はまといをがっちりつかんで離さない。そして、左手に握る薬瓶も……一滴だけで相手を催淫状態にしてしまうこの薬の強力さは、手に入れたまといが一番よく知っていた。  
「ま、待って! それは本当に洒落にならな……!」  
「うなぁぁぁぁぁぁ!!!」  
「ぐわむふっ!!」  
薬瓶を無理やり口に押し込まれ、そのまま薬液を一気に口に注ぎ込まれた。  
抵抗しようとしても、瓶の先端を口に差し込まれている以上どうにもできず、大量の薬液が喉に流れ込んでくる。  
水で薄めたような僅かに苦い味、舌が痺れ、飲み込むたびに喉が焼けるように熱い。やっと千里の手がまといの口から離れたときには、もう瓶はほとんど空っぽになっていた。  
どんな薬でも多量に飲めば毒と同じ。危険な薬ならばなおさらだ。  
まといはその場に膝をついた。風景がぐらりと歪む。立っていられなくなり、そのまま地面に倒れ込んで、動けなくなる。  
  
「あっ……エホッ……」  
まといが気が付いたとき、千里の姿は既になかった。どうやら命だけは奪われなかったようだ。  
しかし、強烈な惚れ薬を大量に飲まされてしまった。意識するまでもない、身体が火照り、全身がむずむずとする。激しい頭痛とめまいで立ち上がることすらできなかった。  
まといは、ふらふらしながら膝で立ち、喉の奥に指を押し込んだ。吐き出さなければ、強烈な薬をあれほど大量に飲んでしまっては、命がないかもしれない。  
しかし、無駄だった。飲まされてから結構な時間が経っているのか、いくら吐き出そうとしても吐き出せない。  
まといの身体からふたたび力が抜け、再び地面に倒れ込んだ。  
「はぁ……はぁ……」  
一滴で相手を惚れさせる薬。一瓶飲み干せば、凄まじい媚薬効果に身を焼かれることになる……  
顔が熱くなり、息が荒くなり、まるで全身が性感帯になったかのようにむず痒さを感じ、心臓が破裂しそうなほどに心拍が高まる。  
  
――あぁ、胸が熱い。気分が異様に高揚してくる。  
  息が苦しい、誰か、誰か助けて……  
  誰か、この体の火照りを癒してくれる人は……  
  
  
「おや、常月さん、こんなところでどうしたんですか?」  
まといが顔をあげたとき、そこにいたのは望だった。  
どうやら夕涼みの外出にと学校の周りをぶらついているうちに、まといが倒れていた路地裏に来たらしい。  
  
心臓を矢で射ぬかれたかのような衝撃が、まといの全身に走った。  
「せ……先生……」  
まといの目には、いつにもまして望が魅力的に見えた。望の姿を見て、声を聞くだけで、顔が火照り、着物の下の局部がひとりでにじっとりと濡れてくるほどに。  
「先生……」  
「ど、どうしたんですか? 具合が悪いのですか?」  
「は、はい……」  
とろんとした表情で応えるまとい。  
――あぁ、この心の寂しさを埋めてくれる人物が目の前に……。  
「せんせ……」  
「汗びっしょりですね……学校で休んでいくといいですよ」  
望がまといの手を取る。ただそれだけなのに、まといはまるで性器に触れられたかのように感じてしまい、びくんと身を捩らせる。  
「あぅっ……!」  
「し、失礼。立てないんですか?」  
「はい……ち、ちょっと……」  
まといは自力で立ち上がろうと壁に手をついたが、また膝をついた。  
「せ……せんせ……助けて……」  
火照った顔で望を見上げ、零れるような言葉で助けを求めるまといの姿は、誰が見ようとも艶めかしく見えただろう。  
しかし望にとってはまといは一人の生徒。チキンな彼も根は生真面目で優しかった。純粋にまといの心配をし、まといの額に手を触れる。望の手は少し冷たく、まといの火照った顔をひんやりと冷やした。  
……心地いい。先生の手……  
「かなり熱がありますね、保健室を開けてもらいましょう、そこでゆっくり休むといいですよ」  
望がふいに、立ち上がれないまといの背と膝に手を回した。  
「えっ……」  
――うそ、まさかこれは……!  
望が、ためらいもなくまといの身体を持ち上げる。  
これは、俗にいう  
 御姫様だっこ!!  
望は、まといの身体を運ぼうと、まといを担ぎ上げた。  
幸い、地面が湿っていたために、まといの着物の局部辺りが湿っていることには、違和感を覚えなかったらしい。  
まといは、戸惑った表情で望を見上げるばかりだった。  
「せ、先生……」  
「なんですか?」  
「……あ、ありが……」  
舌が痺れてもつれ、最後までは言えなかったが、望にはちゃんと伝わったようだ。  
  
――先生が心配してくれている  
  あぁ、なんて優しい先生  
  先生 先生……先生に愛されたい  
  
ただでさえ愛しい先生の優しい行為。そして惚れ薬の効果も相まって、まといは完全に理性を失いかけていた。  
まといはもう、愛されたいという願望で頭がいっぱいだった。望を自分だけのものにしたい、という普段からの望みが倍増し、唯一のブレーキだった常識的思考も薬のせいで完全になくした。まといは子供のように甘えた様子で、幸せいっぱいの顔で望に身を任せた。  
  
「今日は他の先生は誰もいらっしゃらないので、保健室の鍵、あけときますね。ゆっくり休んでください。なにかあったら、私は当直室にいますんで。後でまた様子を見に来ますね」  
まといは保健室まで運ばれて、ベッドに寝かされた。  
もっとも、まといはそんな処遇では気が済まない。なにより望の傍を1分1秒でも離れるのが我慢ならなかった。  
かといってこの身体ではまともに追跡はできない。そこでまといは、無理に望にたかって甘えついた。  
「せ、先生、行ってしまうんですか?」  
「えっ? あぁ、何か薬の類が必要ですか?」  
「ぐ、具合が悪くて……」  
「えっ、こ、困りましたね……日曜ですけど、命兄さんに言って病院あけてもらいましょうかね……?」  
「い、いえ、違うんです、寝てれば治ります……けど……」  
「そ、そうなんですか?」  
「先生、近くにいていただけませんか……」  
まといの、声が震えていた。  
望と近くにいたい。いなければ我慢できない。それは普段と変わらないことだった。  
しかし、やっていることは普段とは真逆だ。まといはどんな時でも勝手に望の近くにいるが、今は望に、自分から近くにいてくれるように頼んでいる。  
身体が言うことをきかずに尾行ができない、引き留めることしかできない、どうしよう、どうしようと、薬の効果で朦朧とする頭の中で必死に考えるまとい。  
しかし、心配には及ばなかった。  
「あぁ、そうですか。いいですよ。具合がよくなるまでは安静にしていたほうがいいですからね」  
「えっ……ほ、本当ですか?」  
「えぇ」  
望はこういうときはきちんと面倒を見てくれる。  
普段のように追跡しなくても、傍にいてくれる、と彼がその口から言ったのだ。まといはいつにも増して心を焦がしていった。  
  
――あぁ、幸せ……先生とふたりっきりでお話しできることが……  
いや、同じ部屋に二人でいられるだけでもこんなに幸せなことは……  
先生、もっと私のそばにいて……  
  
「常月さん」  
「はっ、はい!」  
ベッドで横になったまま、まといが火照りの収まらない顔を上げた。望は相変わらず、心配そうな顔をしてまといを覗き込んでいる。  
「だいぶ汗をかいていたようですが、風邪をひかないように着替えたほうがいいですね。それに着物では寝にくいでしょう。なにか着替えるものを持ってきましょうか」  
「えっ?」  
「そうですね、私の寝巻を一着お貸ししましょう。いや、小森さんが当直室にいるので、彼女が持っている寝巻を一着貸してもらったほうがいいでしょうか」  
「あっ、いえ、せ、先生ので大丈夫です」  
とっさに欲望のままに言ってしまった。本当は望の寝巻では大きすぎて丈が合わないが、望の着ていたものを着たいという思いが、ついつい口に出てしまったのだ。  
「分かりました、すぐに持ってきますから、少し待っててください」  
望が立ち上がった。  
望はまといのほうを見ていなかったが、その時まといはおもわず望に手を伸ばしていた。  
  
……先生が行ってしまう!  
待って、行かないで……あぁ、もう視界から消えてしまった。  
……あぁ、先生、今頃廊下を歩いている頃かしら、いまあなたは何をなさっているんでしょう?  
気になる……気になる……  
  
何を考えても望が愛おしく思えるばかり。望は寝巻を取りに行ってしまったが、身体の火照りはますます強くなるばかりだった。  
薬の副作用で呼吸が荒くなっているが、望と離れると違う意味で息が苦しくなってくる。望が保健室を出てからもう1分は経っただろうか。禁断症状のごとく彼のことが気になりだし、いてもたってもいられなくなってきた。  
まといは身体を起こし、ベッドから降りようと床に足をついた。  
だめだ、まだふらつく。しかし望と離れているのは嫌だ、追いかけたい……  
ベッドから腰を上げて、ついたてを掴んで立ち上がる。もはやチェイサーの意地である。毒のような薬を飲んでふらふらでも彼を追いかけたい、いや追いかけなければならない。  
先生、いま逢いにいきます……!  
ガタンと音を立てて、掴んで寄りかかっていたついたてが倒れそうになる。  
「あっ!」  
やはり立ち上がれる状態ではなかった。バランスを崩してしまい、まるでマリオネットの糸が切れたように、身体が制御を失う。  
――あぁ……愛しい先生を追いかけることができない……そんな……  
床に倒れ込みそうになる際に、まといの頬に涙が伝った。  
  
「危ない!」  
地面に激突する寸でのところで、抱きとめられたまとい。  
抱きとめてくれたのは望だった。  
「せ、先生……!」  
「どうしたんですか、常月さん」  
まといの目が潤んだ。先生が自ら、自分を助けに来てくれるなんて……  
「も、申し訳ありません、立ち上がろうとしたら、身体がふらついて……」  
「体調が優れないのでしたら、あまり無理をしてはいけませんよ」  
まといは望に抱き着く形で抱えてもらい、再びベッドに腰を掛けた。  
「具合がよくなるまでは静かに寝ていた方がいいですよ。寝巻を持ってきたので、着替えて休んでください」  
「先生は、あの、まだいてくださいますか?」  
「えぇ、かまいませんよ。あぁ、着替えが終わるまでは、カーテンは閉めますね」  
「はっ、はい」  
望がベッドのカーテンをすっと引き、二人の間を遮った。  
  
「先生」  
「なんですか?」  
「いま、いらっしゃいますか?」  
「えぇ、ここにいますよ」  
まといはカーテンの中で、何度もこの問答を繰り返してくる。そのたびに望は、部屋に持ち込んだ新聞から顔を上げて応えた。  
普段から望を追跡していなければ落ち着かない彼女にとって、この状況はもどかしいものであろう。  
まといはまだ痺れが取れない腕をぎこちなく動かしながら、寝巻へと着替えつつ、ちらちらとカーテンの向こう側を気にした。望がそこにいるのは気配から分かる。しかし、姿が見えないというだけで気になって気になって仕方がなかった。  
「先生……」  
「どうしましたか?」  
「……申し訳ありません」  
「なんですか、藪から棒に」  
「ご迷惑をおかけして……」  
「何を言っているんですか、当然のことです」  
「先生……」  
望らしくない頼もしい言葉。胸がますます熱くなり、まといは手を止めて、カーテンの隙間を覗き込んだ。  
  
じー……  
  
望と目があった。  
「あっ!」  
「常月さん、ずいぶん寂しそうですね」  
「えっ?」  
望は一度、カーテンの隙間から覗くまといと見つめ合ったが、その視線を再び新聞に戻し、まといの心を見透かしたような口ぶりで言った。  
「心配はいりませんよ、あなたが私の傍にいられないときは傍にいてあげましょう」  
「えっ……え、先生……」  
まといは混乱した。望の口からそんな言葉が出るとは思わなかったからだ。そして望の口がさらにこう続けたから驚いた。  
「私も、ふと背後を振り返って、あなたがいなかったらさびしかったですからねぇ」  
「……え……」  
  
望の口からそんな言葉が聞けるのは嬉しいことだが、なにか変な違和感を覚えた。望はいったいどうしてしまったのだろう。おかしい、まといは常日頃から望を観察しているが、奥手な望がこれほどまでに積極的だったことなどなかった。  
  
まといには心当たりがあった。望が、こんなにも自分を愛してくれる、その理由の心当たりが。  
「先生」  
「はい?」  
「もしかして」  
「なんですか?」  
「さっき麦茶を飲みませんでした?」  
「えっ、えぇ、昼ごろに飲みましたけど、それが何か?」  
「…………」  
  
そうか……やはりそういうことか……  
惚れ薬のせいか……本当の望はやはり……  
  
まといはベッドにがくっと腰を下ろした。  
「? 常月さん、どうしたんですか」  
「…………」  
望に応えようともせず、そのままベッドにばったり倒れ込むまとい。  
  
「常月さん?」  
望が不思議に思って、カーテンを引いた。  
裾が長すぎるぶかぶかの寝巻を着たまといが、望に背を向けて眠っている。  
「常月さん? ……な、泣いているんですか?」  
「…………」  
まといは望から背を向けたままだった。目にうっすらと涙をうかべて……  
  
……あぁ、なんて馬鹿なことをしてしまったんだろう、私は。  
……惚れ薬を盛るなんて、虚しいことを……  
……先生、ごめんなさい……  
  
まといは自分の行いを、酷く後悔していた。こんなにも優しくしてもらえたのに、それは所詮薬のせいだったのか……  
惚れ薬を飲ませる、こんなことをしなければ愛してもらえない、そう思えてしかたがなかった。虚しい。悲しい。そして、望に申し訳が立たなくて仕方がない。  
まといはさらに小さくうずくまって、思わずすすり泣いた。  
  
「常月さん、また具合が悪くなったのですか?」  
「…………」  
まといは死んだようにうずくまったまま動こうとせず、返事もしない。  
それを望は、まといの具合が悪くなったのだと勘違いして、酷く慌てた。  
「だ、大丈夫ですか? しっかりしなさい」  
「…………」  
困り果てた望は、ぱっと何かを思いついたようで、ちょっとだけまといの傍を離れ、それから室内の教卓の上にあったペットボトルを取って戻ってきた。  
「飲みますか?」  
「えっ?」  
「何か飲んだら、気分がすっきりするかもしれません、よかったら、どうぞ」  
そう言われて差し出されたのは、中身が半分ほど減っている麦茶のペットボトルだった。  
「……えっ? これは……」  
「すみません、飲みかけの、これしかないのですが……」  
「え……先生が、飲んでいたのって……」  
「はい? あぁ、さっきまで私が飲んでいたものです。あぁ、他のがよかったら、何か別なのを買ってきますか?」  
まといが、また混乱した。  
「あの、冷蔵庫にあった麦茶は?」  
「へっ? あぁ、冷蔵庫に備えてあった麦茶ですか? 悪いんですが、あれは小森さんと交が全部飲んでしまったのでいま新しいのを作ってる最中なんですよ」  
「え、せ、先生は?」  
「? なんの話ですか?」  
「…………」  
……まといの頬に、また涙が伝った。  
「えっ、常月さん、だ、大丈夫ですか? やっぱりまだ具合が悪いのでは?」  
まといは顔を上げ、黙って首を横に振った。  
  
望は惚れ薬を盛られた麦茶を飲んでいなかった。ちょうど望が麦茶を飲もうとしたところ、冷蔵庫の麦茶を霧と交が全て飲んでしまったので、やむをえず外の自販機まで買いに行き、その帰りに倒れているまといを見つけたのだとか。  
  
「先生、私のことを愛してます?」  
「ははは、また何を言っているんですかこの子は……」  
まといはベッドに横になったまま、何度も何度も望に話しかけた。  
そのたび望は冷や汗を垂らしている様子だが、それでもまといのことは教師としての責任をもって見守っている。  
「先生」  
「なんですか」  
「私、今、幸せです……」  
「は、は……そうですか。常月さん、本当にゆっくり休んだ方がいいですよ」  
「先生、ご存知ですか? 『お医者さまでも 草津の湯でも 恋の病は 』……」  
「わ、分かりました、分かりましたんでゆっくりお休みください、身体に障りますよ」  
「まぁ、先生なんてお優しい」  
「ははは……」  
  
まといは今度こそ、心を幸せに満たしていた。  
望はやはり、自分のことを気にかけてくれていた……  
心は何度もぐらついたが、まといの、望を一途に思う気持ちだけは変わらない。  
先生、どんなことがあっても、なにがあっても、どんな失敗をしてしまっても、私はあなたを……  
  
  
まといはそれから、急に疲れてそのままベッドで眠りだした。  
まだ惚れ薬の毒がまわっているのか、心拍は安定していない。うとうとし、ぼんやり眼を覚まし、また眠る。それの繰り返しだった。  
何度も寝て醒めて、いろいろな夢を見た。  
望のそばにぴったりくっついていろいろなところを歩き回る夢。望から無理やり引き離されて、一人で泣いている夢。望との挙式で、薬指に指輪をはめてもらう夢……  
どんな夢にも、彼の姿があり、彼のことがひと時でも頭から離れることはなかった。  
  
  
まといはふっと眼を覚ました。  
部屋の中が少し暗い。もうだいぶ日が落ちたようだ。  
目に映ったのは天井。そのまま首を90度傾けてみると、椅子に座ったまま寝ている望が目に入った。  
……自分が寝ている間、本当に、ずっと傍にいてくれたのか……  
  
まといはベッドから降りた。薬の効果が抜けたのか、身体の痺れや火照りはだいぶおさまって、もう大丈夫だ。  
しかし、胸に燃える想いは尽きるどころかより激しさを増している。  
  
まといはゆっくり望に歩み寄る。  
望はぐっすり眠っており、真ん前まで歩み寄っても、まだ眠ったままだ。  
「先生……」  
小さな声で呟いた。望はまだ起きる気配を見せない。  
顔を近づけても起きない。頬に手を添えても、まだ起きない。  
「先生……いいですよね?」  
  
まといは、そのままそっと顔を近づけ……唇を重ね合わせた。  
ずっとずっと、願い続けていた瞬間。気が抜け、魂を吸われるような思いだった。  
力が抜け、ついつい望に寄りかかってしまわないように必死だった。  
魂を吸いきられる前に唇を離す。本当は、もっと激しくしたいのだが、これ以上激しく続ければ、望が起きてしまうかもしれないからだ、幸い望は目を覚ましていない。……彼を接吻で目覚めさせてはならない。  
だから  
  
「先生……これからも、愛し続けます……先生……」  
  
  
  
  
望は眼を覚ました。  
うっかり寝てしまっていたが、気が付くと、今まで面倒を見ていたまといの姿がベッドの上にはない。  
「おや、常月さん……」  
もう時刻は夜。辺りを見回しても、まといがうろついた形跡はない。その代わりに、保健室の入り口の戸は開いたままになっていた。  
すでに具合が良くなって、出て行ってしまったのだろうか? 彼女の具合が治ったのであれば、それはそれでよかった。  
  
と、安心して腰を上げた時だった。  
  
「先生、ありがとうございました」  
「……いたんですか」  
「…………えぇ、ずっと」  
  
  
  
  
Fin  
 
 
 

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