―――私のお墓の前で 泣かないでください  
 
   そこに 私はいません  
 
   死んでなんか いません―――  
 
 
 
 
 
 
ここ数日で、季節はすっかり秋から冬に移ったようだ。  
私は、コートの襟を立てると、白い息を吐きながら仕事場へと向かった。  
 
「糸色医院」  
そう書かれたすりガラスの扉の下には「当分の間休診します」との張り紙。  
その張り紙は、風雨にさらされて黄色に変色していた。  
 
私は、張り紙を見てため息をつくと、鍵を取り出して医院の扉を開けた。  
 
糸色医院は、医師である糸色命先生と、看護師兼受付の私の2名しかいない、  
とても小さな所帯の、いわゆる「町のお医者さん」だった。  
 
それでも、糸色先生の人柄のせいか、開院当初はずいぶん患者が多かった。  
子供達の泣き声とそれを叱咤する先生の声、それに混じるお年寄りの笑い声など、  
本当にここは病院なのかと思うほど、いつも明るい声に満ち溢れていた。  
 
 
―――しかし、この夏からずっと、この医院の扉は閉じられたままだった。  
 
 
私は、扉を開けて中に入ると、無人の医院の掃除を始めた。  
それは、ここ数ヶ月の私の日課だった。  
 
戸棚の埃払いからはじめ、受付のカウンターや先生の机を丁寧に雑巾掛けする。  
診察台や診療器具はアルコールで消毒する。  
 
いつ、先生が医院に帰ってきてもいいように―――。  
 
仕上げに掃除機をかけると、やることがなくなった。  
ほっと息をついて、何気なくカレンダーを見て気が付いた。  
 
 
―――昨日が、四十九日だったんだ―――。  
 
 
先生の弟さんに、生まれつき心臓に持病があるという話を聞いたのは、  
この医院に就職して間もなくの頃だった。  
 
先生の実家は裕福らしく、先生のご両親は、持てる限りの財力を注いで、  
あちこちの高名なお医者様達に見立てをしてもらったらしい。  
 
しかし、どの医師からも、弟さんの病に治癒の見込みはないとの回答を得たとき、  
自ら医師になることを決意したのだと、先生は真剣な面持ちで言った。  
 
その言葉通り、先生は心臓病の研究に非常に熱心だった。  
この医院で患者さんたちの面倒を見ながらも、  
大学の研究室に通っては、様々な治療法の開発を試みていた。  
 
私は、ぼんやりと診察室の先生の椅子に座って思い出していた。  
 
弟さんの病気が進行するにつれ、先生の研究には熱が入っていった  
そして、それにつれて、この医院の患者さんの数も減っていった。  
 
―――いいかげんに休んで下さい!そんなんじゃ、先に先生の方が倒れちゃいますよ!  
―――いや、もう少しで、この変異DNAの解析ができそうなんだ、そうすれば…。  
 
寝不足で青白い顔をした先生と、何度そういう会話を交わしたことだろう。  
 
そんな状態でも、先生は、弟さんの前では明るく快活な態度を崩さなかった。  
楽しそうに笑い合う2人の会話を傍で聞いていると、この兄弟の間に  
「不治の病」という重い事実が横たわっていることが信じられなかったくらいだ。  
 
しかし、先生の努力にもかかわらず、弟さんの病状は確実に悪化していった。  
そして、もはやどんな治療もかなわないということがはっきりしたとき、  
先生は、迷うことなく、この医院を一時的に閉鎖することを決意した。  
 
もちろん、残っていた数少ない患者さんには、丁寧に説明をした上で、  
信頼できる病院を紹介し、充分な手当てを施した。  
 
その上で、先生は、弟さんが入所したターミナルケア施設へと赴き、  
彼の残り少ない人生を少しでも楽なものにすることに、全ての力を注いだのだった。  
 
その弟さんが、先生や他のご家族に見守られ、眠るように息を引き取ってから49日。  
 
そう、もう2ヶ月近く、経つのに―――。  
 
私は、もう一度ため息をつくと立ち上がり、医院を後にして近所のスーパーに向かった。  
―――これも、あのとき以来、私の日課となっていた。  
 
 
弟さんの葬儀が終わって1週間程経った頃のこと。  
いつまでも医院に顔を出さない先生を心配して、私は先生の住むマンションを訪れた。  
 
何度もチャイムを押した後、やっとドアを開けた先生の姿に、私は愕然とした。  
 
いつもおしゃれで清潔好きだった先生が、ひげもそらず、  
何日も着替えていないような薄汚れた格好で、うつろな目でこちらを見ていた。  
無理やり上がり込んだ部屋の中は、カーテンを閉め切っており、乱雑に散らかっていた。  
 
私が話しかけても、先生は、ああ、とか、うん、とか上の空の返事しかしない。  
 
仕方なく、私は、子供の患者にするように、先生にまず風呂に入るように命じた。  
そして、その間、押し付けがましいと思いつつも部屋を片付けた。  
 
台所をのぞくと、そこに、食事をしたような跡は全く見られなかった。  
先生の頬のこけた姿から判断するに、多分、弟さんの葬儀のあと、  
まともな食事をしていなかったのだろう。  
私は、手術後の患者さんに出すような薄めのおかゆを作ると、  
風呂から上がって少しさっぱりした先生に食べるようすすめた。  
 
風呂も、食事も、先生は、意外にも素直に私の言葉に従った。  
…ただ、先生が私の言うことを本当に理解しているかは謎だった。  
 
先生は、私がインタフォンの呼び出しを押せばドアを開けてくれるし、  
食事を作れば、それを食べてくれる。  
話しかければ、口の中で返事をする程度の反応はある。  
 
でも、それだけだった。  
先生は、私の行動に機械的に反応しているたけだった。  
自分自身の意思、というものが全然見られない。  
何もかも、どうでもよくなってしまっているかのようだった…。  
 
それでも、私は、先生のマンションに食事を作りに通うようになった。  
 
だって、先生は、私の上司で雇い主で、早く医院に復帰してくれないと困るから。  
先生が倒れたりしたら、私は、とたんに路頭に迷ってしまうから。  
 
自分にそう言い聞かせては、  
私は先生のマンションのエントランスの呼び出しを押すのだった。  
 
 
 
―――今日は、寒いから鍋にしよう…。  
スーパーで買い物を終え、木枯らしの中、先生のマンションへと続く道を  
早足で歩いていると、後ろから、ぽんと肩を叩かれた。  
振り向くと、何度か医院にも来たことがある、弟さんのクラスの生徒が立っていた。  
 
「あなたは…。」  
「風浦です。風浦可符香。」  
 
少女は、にっこり笑うと、私が持つスーパーの袋に目をやった。  
「命先生のお夕飯ですか?」  
「え…?」  
私は、慌てた。  
 
彼女はくすりと笑うといった。  
「倫ちゃんから聞いたんです。  
 彼女、『うちの兄は、患者以上に世話をかけてる』って恐縮してましたよ。」  
 
ああ、先生の妹さんから…私は、少しほっとした。  
と、少女が表情を改めた。  
 
「それで…最近の命先生のご様子は、いかがですか?」  
 
私は、彼女の質問に、とっさに答えることができなかった。  
それで、彼女にも状況が分かったらしい、眉根を寄せてため息をついた。  
 
私は、彼女のそのしぐさに、なぜだか先生が非難されているような気がして、  
思わず反論口調で尋ねていた。  
「あなた達の方こそ…クラスの方は、もう、大丈夫なの?」  
 
私の質問に、少女は、ふ、と目を伏せた。  
「大丈夫、と言えば嘘になるけど…。でも、先生は、いなくなったわけじゃないから。」  
「え…?」  
彼女の言葉の意味が分かりかねて私は尋ね返した。  
 
「先生は、ただ、生きる姿を変えただけなんです。」  
私の訝しげな表情を見て、彼女は続けた。  
 
「先生の肉体は、失われてしまったかもしれないけれど…  
でも、先生の魂は、私の…私たちの身の回りにいつもいてくれる。  
それこそ、千の風になって、私たち全員を見守ってくれているんです。」  
少女は微笑んだ。  
 
「だから、うちのクラス、霧ちゃんも授業に出てくるようになったし、  
 まといちゃんなんか、今までが嘘みたいにいろんな活動に参加するようになって。  
 みんな、先生に、今の自分を見せようって頑張ってるんですよ。」  
「…。」  
 
私は、彼女の話を聞いているうちに、なんとなくイライラしてくるのを感じた。  
魂が見守っている?そんなのは、単なるおとぎ話だ。  
 
私は、少し意地悪な気持ちになって尋ねた。  
「じゃあ、あなたたちは、糸色先生に会えなくても寂しくはないのね。」  
 
私の言葉を聞いて、少女の目が揺らいだ。  
 
私は、はっとした。  
私ったら、何を…こんな子供に八つ当たりするなんて…。  
 
彼女は、震える声でゆっくりと、押し出すように言った。  
「それは、いつだって……、もう一度、先生の姿を見たい、声を聞きたい…  
 …って……、そう、思わないときなんか、ないけど…。」  
 
私は、そう言ったときの彼女の表情に、思わずどきりとした。  
この娘は、いつの間に、こんな大人びた表情をするようになったのだろう。  
 
彼女が医院に出入りしていた頃は、ちょっと変わってはいたけど、  
明るく物怖じしない、いかにも女子高生、といった感じの娘だった。  
それが今では、こんな、憂いを含んだ大人の女の顔をするようになっている。  
 
「………。」  
少女は、唇を噛み締めると、何かを思い切るように頭を振った。  
「でも、いつも先生は私のそばにいてくれてるって、分かるから。  
 ―――だから、寂しくなんかありません。」  
 
彼女がそう言い終わると同時に、今まで吹いていた木枯らしが突然やんだ。  
 
そして、木枯らしとは明らかに違う、暖かい風が私たちの間をすり抜けると、  
ふわりと、彼女の髪を優しく揺らした。  
 
「あ…?」  
私は、思わず目を見張った。  
 
 
 
少女の後ろに、彼女に向かって微笑む  
        書生服を着た青年の姿が、見えたような気がした―――。  
 
 
 
少女と別れてから、私は、ずっと考えていた。  
 
大人になっていく少女。  
自分達の新しい生活を築き上げている彼女のクラスメート達。  
 
弟さんの教え子達は、さまざまな想いを抱えながらも、  
着実に、未来に向かって歩み始めている。  
 
―――なのに。  
 
死者は、そこで歩みを止めてしまう。  
生きている者が、ともに、とどまることは許されない。  
それが、この世の定めであり、理だ。  
 
―――なのに。  
 
私は、さっきのイライラの原因に思い当たった。  
 
―――なのに、先生だけは、いつまでも前に進もうとしない…。  
 
 
 
 
永遠に、時間(とき)を止めてしまった先生の弟―――。  
 
先生は、弟さんの止まってしまった時間に、  
ともにとどまろうと、あがいているかのように見えた…。  
 
 
 
 
鬱々と考えているうちに、先生のマンションに着いた。  
 
ドアを開ける先生に、いつものように、こんにちは、と声をかけるが返事はない。  
そんな対応にも慣れてしまった。  
 
私は、スーパーの袋の中から野菜を取り出しながら先生に話しかけた。  
これも、私が先生のマンションに来たときの習慣だった。  
「今日ね、道で弟さんの生徒さんに会ったんですよ…可符香ちゃん、覚えてます?」  
 
いつもなら、先生は私が何を話しても特に反応はない。  
必要があるときだけ、口の中で返事をする。  
 
でも、そのときは、違った。  
 
先生は、すごい勢いで私を振り向くと、私をにらみつけた。  
私は、びっくりして手にしていた野菜を取り落としてしまった。  
 
そして、気づいた。  
私が、ここで、弟さんの話をしたのは、今日が初めてだったのだ…。  
 
先生は、冷たい目をしたまま私に話しかけた。  
先生の方から話しかけられるのも、ここに来るようになってから、初めてのこと。  
 
「悪いが…その話は、それ以上聞きたくない。」  
 
そういうと、先生は私から目をそらし、再びいつもの殻の中に帰っていった。  
 
 
―――どうして…?  
 
私は、テーブルの上に散らばった野菜の前で、呆然と佇んでいた。  
 
―――どうして、先生は、前に進んでくれないんですか…?  
 
頑なな先生の背中を見ながら、私は、さっき会った少女との会話を思い出していた。  
 
―――先生は、いつまで、そこに、とどまっているつもりなんですか…?  
 
胸の中でいろいろな感情が渦巻いて、私は、思わず、テーブルの上の野菜を  
手でなぎ払った。  
 
野菜が床に散らばり、さすがに、先生がこちらを振り向いた。  
 
私は、その先生に向かって大声で叫んだ。  
「―――どうしてなんですか!?」  
 
先生が、驚いた顔で私を見た。  
「皆、辛くても、それぞれの人生を歩き始めてるんです!  
 どうして先生だけが、いつまでも立ち止まったままなんですか!」  
 
先生の顔色が変わった。  
「君に、そんなことを言われる筋合いは…。」  
「先生のいるところに、弟さんは、いやしません!」  
私は、先生の言葉を遮った。  
 
「!?」  
先生が、訳が判らないという顔をして私を見返した。  
 
涙が出てきて、声が詰まった。  
 
「…可符香、ちゃんは、言ってました。  
 弟さんは、千の風になって、皆を、見守っているんだって。  
 なのに、先生は、一人きりで、自分の殻に閉じこもって…。  
 そんなんじゃ、弟さんだって、先生に会いにいけないじゃないですか!」  
 
次から次へと、言いたいことが喉元にこみ上げてくる。  
涙が止まらない。  
 
―――どうして、先生は、後ろを振り向いてばかりいるんですか。  
―――どうして、「今」を見ようとしてくれないんですか。  
 
―――先生の周りの人は皆、先生を待っているのに。  
―――私が、先生のことを、こんなにも、想っているのに…!  
 
私は、悔しい気持ちが溢れて止まらなくなって、先生に近づくと、  
先生の胸倉をつかんで、思い切り口付けた。  
先生の目が大きく見開かれる。  
 
しばらくして、私が唇を離したときには、  
先生の顔も、私の涙でぐしょぐしょになっていた。  
 
私は、もう一度先生を睨みつけると、息を切らしながら叫んだ。  
「そんな先生なんて―――大嫌いです!」  
 
そして、マンションを飛び出した。  
 
 
 
 
翌朝、私は重い気持ちで医院に向かった。  
 
ああ、本当になんてことをしてしまったんだろう…。  
もう、先生のマンションに行くことなんてできない…。  
 
のろのろと鍵を開けようとして、はっとした。  
 
―――鍵が、開いてる!?  
 
扉をあけると、靴を脱ぐのももどかしく診察室に向かい、そのドアを開けた。  
 
 
 
「…やあ、おはよう。」  
 
朝日が一杯に差し込む診察室の中、いつもの椅子に先生が座っていた。  
 
「せん、せ、い…。」  
つぶやく私に、先生が、照れくさそうに下を向いた。  
「本当に…世話をかけてしまったね…申し訳ない。」  
 
いいえ、私の方こそ、と言いたかったが、涙が出そうで言葉にならない。  
 
先生は、そんな私を見て、再び照れくさそうに小さく笑った。  
「昨日のあれは、すごいショック療法だったよ。一気に目が覚めた。」  
私は、思わず赤くなった。  
 
「次のときは、もう少しお手柔らかに、お願いしたいもんだね…。」  
「…!!」  
 
と、先生が、立ち上がり、窓を見上げた。  
「昨日君が言っていた、可符香君の話…。」  
 
先生の言葉に、私も顔を上げた。  
 
朝日の眩しさに目を細めながら、先生は呟いた。  
「…望は、私のそばにも、いてくれているんだろうか…。」  
 
私は、咳き込むように返事をした。  
「あ、当たり前じゃないですか!あんなに大好きだったお兄さんのそばから、  
 弟さんが離れるわけがありませんよ!」  
 
先生が、私を見て小さく微笑んだ、そのとき。  
 
窓も開けていないのに、カーテンがふわりとゆれた。  
 
そして、昨日と同じ暖かな風が、そっと優しく私たちを包むと、  
柔らかく頬をなで、通り過ぎて行った。  
 
「―――!!」  
先生は、風が通っていった空間を見上げ、目を見開いた。  
 
その瞳から、ゆっくりと、一筋の涙が伝い落ちる。  
「の、ぞ、…む?」  
 
私は、思わず両手で口を押さえた。  
 
―――ああ。  
 
もう、大丈夫だ。  
もう、この人は大丈夫。  
 
朝の光の中、涙を流す先生を見ながら、私は何度も胸のうちで繰り返した。  
 
…先生は、もう、二度と立ち止まりはしない…。  
 
 
―――やがて、この医院にも、以前のような活気が戻ってくるだろう。  
―――子供の泣き声やお年寄りの笑い声が響く、明るく楽しい場所になるだろう。  
 
 
そして、そこには、いつも優しい風が、先生とともにあるだろう―――。  
 
 
 
 
 
 
―――私のお墓の前で泣かないでください  
 
    そこに私はいません  
 
    死んでなんかいません  
 
 
    千の風に 千の風になって  
 
    あの大きな空を吹きわたっています―――  
 
 
 

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