暑い日の午後の授業というのはただでさえタルいのに、それが現国とくればなおさらだ。  
 
「…漱石が『こころ』を執筆したこの時代は、明治から大正へと…。」  
担任教師の単調な声だけが響く教室で、生徒達は皆、眠そうにあくびをかみ殺している。  
以前は僕も、この時間はずっと教科書の下で読書をしてやり過ごしていた。  
 
しかし、最近、何かがおかしかった。  
 
どうも、先生の授業のときには読書に集中できなくなっている。  
その代わり、いつの間にか先生を目で追っている自分に気が付く。  
今も、黒板に文字を書きつけていく先生の後姿をぼんやりと眺めていた。  
 
と、いきなり先生が僕の名前を呼んだ。  
「はい、では、久藤君。」  
心臓が跳ね上がり、  
「は、はい!」  
返事をする声が上ずった。  
「…今の質問に、答えていただけますか?」  
先生は、どこか意地悪げな笑みを浮かべると、こちらを見た。  
 
―――ああ、まただ。  
先日の、杏ちゃんを巡る一件があって以来、先生はときどきこういうことをする。  
僕が話を聞いていないときを狙って、当ててくるんだ。  
まったく、大人気ないったらありゃしない。  
 
まさか、僕のこと、ライバルだとか思ってるんじゃないだろうな。  
…この人ときたら、ホント杏ちゃんしか見えてないみたいだから…。  
 
考えているうちに何となく腹が立ってきて、僕はむすーっと黙り込んだ。  
先生の声がちょっと厳しくなった。  
「久藤君、私の言ったことが聞こえましたか?」  
 
―――あ、あのときと、同じ…。  
先生の言葉に、突然、先日の図書室での先生の姿が脳裏によみがえった。  
 
―――久藤君…申し訳ありませんが、席を外してもらえませんか―――  
あのとき、静かに怒っていた先生は、ものすごく冷ややかで近寄り難くて、  
でも、なんていうか、とっても………。  
 
あのときの先生の姿を思い出しながら、黒板をふと見ると、  
そこには、「私」「先生」「K」「お嬢さん」といった『こころ』の人間関係が、  
先生のきれいな字で書かれている。  
僕は、気が付くと口に出していた。  
 
「…『先生』は、『K』のことを、どう想っていたんでしょうか…。」  
「…は?」  
先生の目が点になった。  
 
僕は、かまわず続けた。  
「『先生』が『お嬢さん』を『K』から奪った理由…その背後には、多少なりとも、  
 『先生』の『K』への想いがあった、と考えることは可能なんでしょうか…。」  
 
横で、ほとんど眠っていた藤吉さんが、がばりと起き上がるのが見えた。  
 
先生が、困惑した顔で僕を見た。  
「あの、久藤君、私が質問したのは…。」  
僕は、先生の言葉を遮ると大声で叫んだ。  
「僕は、先生のこころが知りたいんです!!」  
 
―――しん。  
 
教室が静まり返った。  
藤吉さんが、教科書を宙に放り投げて万歳をしている。なぜだ。  
 
こほん、と、先生が困ったように咳払いをした。  
「えー、私が質問したのは、この作品が書かれた時代背景についてなんですが…。」  
 
と、先生は、僕を見てにっこりと微笑んだ。  
さっきとは全く違う、暖かい笑み。  
「しかし、なかなか、いい視点ですね。確かに、『先生』のこころを知ることは、  
 この作品の理解のためには非常に重要です。  
 実を言うと、『こころ』は、先生も大好きな作品なので、  
 そうやって真剣に読み込んでくれているのは嬉しいですよ。」  
 
―――実を言うと…先生も大好き…なので…  
―――先生も大好きなので…  
―――大好きなので…嬉しいです…  
 
先生の笑顔を見ながらぼーっと突っ立っていると、授業終了のチャイムが鳴った。  
 
 
 
 
 
授業の後、激しい自己嫌悪に陥って机に突っ伏している僕の背中を、  
藤吉さんがバシバシと叩いた。  
「見直したよ〜、久藤君!  
 私、リアルBLは無理だと思ってたけど、久藤君と先生なら大丈夫かも!」  
 
いや、リアルBLってなんですか。大丈夫って何の話ですか。  
手元のメモ帳の「『失望先公』 准望本 18p」とか、怖くて聞けないんですけど。  
 
勘弁してください、僕は、僕は、女性が好きなんです。  
ごつごつしたむさい男なんて及びじゃないんです。  
…。  
……。  
 
…でも、先生は、ごつごつしてないよな…指とかホント白くて細いし…。  
むさくもないよな…近くに寄ると、なんかすごくいい香りがするし…。  
 
……先生って、なんだか、女の人よりきれいに見えるときがある……。  
 
「ん?」  
はたと我に返る。  
 
―――いやいやいやいや!!!  
僕は、自分の思考回路に気づき、頭を抱えた。  
藤吉さんは、そんな僕を楽しそうにスケッチし始めた。やめてお願い。  
 
と、後ろから肩を叩かれた。  
「く、ど、う、く、ん。ちょっと、来てくれないかな。」  
 
振り向くと、そこには笑みを浮かべ、愛らしく首をかしげた杏ちゃんがいた。  
しかし、その目は笑っていなかった。  
…コロスコロスコロスコロス…  
杏ちゃんの目の奥に、はっきりと殺意が読める。  
 
―――ああ。  
 
僕は空を仰いでため息をついた。  
あの日、図書室なんかに行かなければ良かった。  
 
僕の苦悩と受難の日々は、しばらく続きそうだ…。  
 
 

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