(だめ、だめ、だめ…!)

迫りくる焦燥感に身悶えしながら、動かない身体に鞭打って周姫は地面を這い続けた。
蜀と群雄の連合軍との合戦の最中、相手の不可思議な計略に掛ってしまったのである。速度低下系の計略を持つ
武将がいるのは知っていたが、ここまでの威力があるとは思っていなかった。

(何なの、これ…いや、それよりも早く…っ!)

敵方の白髪の男がその計略を使った途端、突然身体が重くなり機動力も格段に落ちた。
幸い戦場の中程にある森林で掛けられた為、相手に見つかり攻撃される事は無かったが悪地形ゆえに全く動く事が出来ない。
それで先程から計略の効果が切れるのを待っていたがこれが又不思議なことに延々と続いて、一向に切れる気配が無い。いっそ泣きたくなる程に。

―――いや、泣きたいのには別の理由もある。気を抜くとまたその感覚が下半身から込み上げてきて、周姫はふるふると身を震わせた。

(お願い、早く切れて…じゃないと、も………漏れちゃう…!)

こんな時に限って突然の尿意が襲ってきたのである。
本当は戦が始まったあたりから少しばかり我慢していたのが、計略に掛って動けなくなったと分かった途端ひどく込み上げるようになった。
無論こんな戦場の真ん中に厠などある筈も無い。
だが、そうした危機的状況を意識すればするほど切迫感は増していき腰もろくに立たなくなってしまった。

それで仕方なく地面に身を伏せてずるずると這いながら、ひたすら鈍足の効果が切れるのを待つ。
戦場なのだからいつ何時兵がここを通りかかってもおかしくないが、その極度の不安と緊張も尿意に拍車を掛けた。ここで敵に捕らわれるのは
何としても避けねばならないが、それと同じくらい味方にだって見つかりたくない。こんな無様な姿を誰にも晒したくなかった。

(こ、ここで、するしかないの…?)

仮にも姫君である自分にとって、野外での『お漏らし』など許される筈が無い。
しかしぐずぐずしていて万一漏らしてしまえばそんな恰好のまま自陣に帰る事も出来ないし、何よりその間誰かが来てしまえば放尿の痴態を見られてしまう。
混乱した頭の中で姫としての矜持と排泄の本能がせめぎ合って周姫ははぁはぁと息を荒くした。
股間に手を這わせ、上からぎゅっと押さえ付ける。
そのままぎりぎりの我慢を続けながらまだ迷い続けていたから、背後から近付いてきたその気配を感じ取ることが出来なかった。

ガサ、と地面を踏み締める音と共に聞き慣れない声が頭上から響く。

「…何だあ、どこの馬鹿共が引っ掛かったのかと思いきや…一人かよ」

その言葉に周姫はひっと息を呑むと、慌てて身を起こし精一杯の速さで後ずさる。振り向いたそこには知らない男が立っていた。

「だ、だ、誰…!?」
「…はあ?俺がんな事教えてやるとでも思ったのか?馬鹿が」

ニヤニヤと笑いながら男が周姫の方に一歩踏み出す。
周姫はびくりと震え、男から逃れようと更にずるずると後ずさったが、二三歩下がったところでその背にトン、と堅い木の幹が触れた。

「たまには俺の策に嵌った馬鹿共の面を拝んでやろうと思ったらこれだ。…大した獲物でも無えし、折角戦場くんだりまで出てきた意味が無いな」
「え、獲物…私をどうする気なの!?」
「獲物だろ?お前しかいねえんだし、お前をとっ捕まえて帰るしかねえな。たったの一匹、しかも小娘だけたぁとんだ骨折り損だぜ」

どうやら男は敵方の軍師らしい。
派手な化粧にだらしなくはだけた衣、それに病的な程の肌の白さ、と見れば見るほど珍妙な風体の男である。
しかし今の周姫にはそんな事を考えている余裕は無かった。よりにもよって敵に見つかってしまった、という
極度の恐怖にがくがくと震えながらなす術も無く目の前の男を見詰める。
急激に込み上げてくる尿意を必死に堪えるうち、気付けば無意識の内に下腹をぎゅっと押さえていた。

(だ、駄目…っ!!)

「…あ?何やってんだ、お前」

己の身体を押さえ込むように抱き締め、顔を真っ赤にしながら震える周姫の様子に男が訝しげな表情を浮かべる。
逃げる間もなくずかずかと周姫に近寄ると、腰の剣を抜いて周姫の首にぐっと突き付けた。

「動くな、死にたくなけりゃあ動くんじゃねえぞ!…よし、まずは得物をこっちに渡して、それから両手を上に挙げろ」

男が首筋に剣を押し当てたまま命じてくる。が、漏れるか否かの瀬戸際に立たされている周姫はそれどころでは無かった。
いやいやと首を振りながら、男に刃向う事もせずただ自分の脚の間を押さえてその場に蹲る。
矜持も体裁も何もかもかなぐり捨て、最後の気力を振り絞ってあっち行ってぇ…、と蚊の鳴くような声で懇願した。しかし男には
聞き取れなかったらしく―――聞き取っても聞き入れてはくれなかっただろうが―――早くしろ、と若干いらついた表情で周姫に命じた。

「も、だめ、だめなのっ…!」
「…オイ、動くな!勝手な真似すんじゃねえ」
「ひゃぁん、やっ、触らないでぇ…!!」

一人で勝手に身悶えする周姫を不審に思ったのか、男がぐいと周姫の腕を掴んだ。
蹲っていたのを無理矢理起こして、何やってんだ、などと呟きながら顔を覗き込んでくる。

「あ、あ、もう駄目ぇ…っ!!」

朱色で縁取られたその目にぎらりと見つめられて、周姫の中でとうとう恐怖と羞恥が爆発してしまった。
大きな瞳からぼろぼろと涙が零れ落ちるのと同時に、下半身の方もついに我慢が決壊し勢いよく小水が溢れだす。

(…ああ、私…なんて事を…)

体温と同じ温かさの水がちょろちょろと太股を伝っていくのを感じ、周姫は呆然としていた。
まるで子供の頃に戻ったかのように、男に掴まれたままただ泣いていた。



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