「羊コ殿・・・。」
ここ江東は他の地域と比べ温暖であるとはいえ、冬ともなれば相応に気温が低くなる。
外気の冷たさが、そのままに心を冷たくするような錯覚を陸坑は感じていた。
偉大なる長江の流れは、陸坑にとって彼の人との間を分つ壁のように思えた。
羊コ、字を叔子。
陸坑が属する呉と相対する晋の将である。
晋は敵と呼ぶには余りにも巨大であり、対する呉は国としての命運尽きようとしている。
羊コは晋の中にあって、比類なき将であり、その容姿美しく、才に溺れることなく、欲の意味を知る男である。
羊コに匹敵する将は呉には存在していなかった、陸坑を除いては。
将器、品格、他、あらゆる面に於いて羊コと陸坑は拮抗していた。
そのような二人である。 一度戦場で切り結べば、互いの強さを認め合うものだ。
そして、距離が離れればそれだけ想いは加速する。
羊コと敵として出会った日以来、何時も彼の事を思っていた。
二人とも国の守護を任された者であり、敵将と表立って語り合うわけにもいかず、
遠回しに外交と称し文や酒、薬などを使者を通じて送り合う事で、代償行為としていた。
陸坑は国を愛し、自らが父から受け継いだものの重みを知っていたため、私人となり晋へ走ることはできなかった。
国というものを極端に縮小すれば、一人の人間といえる。
隣人とみだりに争う者もいるだろう。 しかし、隣人と友になることもできるはずだ。
陸坑はそう考える。 羊コも同じ事を考えているに違いない、と。
国情を考えても、攻められれば突風の前の花よりも簡単に呉という国は地図の上から無くなる事は明らか。
誰も不幸にならないのならば、争いなどないほうが良い。
だが、国はそうとは思わなかった。
陸坑に出陣の下知が下る。
どのような意図があってのことか、陸坑は理解ができなかった。
呉と晋、例えどちらかが消えねばならぬ運命としても自ら進んで処刑場に立つ愚か者がいるだろうか。
それに、陸坑に私心あれば軍を私的に動かす好機である。 今の呉をなんとか支えているのは陸坑なのであるから。
どうせ勝てぬ戦ならば、戦う必要すらない。 陸坑がそう思えば、呉を守るものはない。
陸坑にしても、晋に身を預ければ彼の者と同じ国民になれるのだ。
そのような事すら、皇帝は読めなかったのか、それとも陸坑を信じきっての事か。
それにしても、死ねと命令してるものと同じであるが。
建前は、出陣するには時期が尚早であるとして陸坑は軍を動かすことはなかった。
主のため誠心誠意、体を動かすことは忠であるが、主のために諫言するのもまた忠であるはずだ、と。