孫皓の足が止まった。 特に目立った特長も無い扉がそこにあった。錠前を除いては。
孫皓は腕輪を外し、鍵穴に合わせ捻る。 どうやら鍵であるようだった。
「入れ。」
その声は硬く、何故か怯えを含ませた響きだった。
「・・・!?ここ・・は・・・!」
壁は赤黒く染め上げられ、拷問器具と思われるものは行為の後を隠さずに乱立している。
ここは、人が来てはならぬ所、生きながら地獄へ繋がる門。
「見ての通りさ。ここでゆっくり話そうじゃねぇか。」
最悪の事態を陸坑は想像して孫皓の顔を覗き見たが、孫皓の表情は悲しみを帯びていた。
*
孫皓は隅に置かれた、やはり薄汚れた布団に腰を落ち着けた。
陸坑もそれに習う。
「お前、晋に降るつもりだろう。」
ぽつりと、聞き逃してしまいそうな声で呟いた。
「まさか、つまらぬ噂などを本気になさっているので?」
「呉は、もう終わりだ。」
はっきりと、孫皓は言った。
「いや、すでに終わっていた。お前や、他の奴らが足掻いた所でどうにもならねぇ。」
「では、降りますか。」
陸坑の言葉に顔色も変えずに続ける。
「考えたさ。でもな・・。」
「皇帝の椅子、決して心地よいものと思えませぬが。」
皇帝に対しこれほどの不遜もない。
「お前は、何の臣だ?」
質問の真意は読めないが、陸坑は答えた。
「私は、皇帝、孫元宗の臣であるはずですが。」
「そう、皇帝・・だよな。 孫皓ではなく。」
「何をお考えで?」
陸坑が言うや、孫皓は陸坑を押し倒した。
突然の事に、陸坑は事態を理解できていなかった。
「俺が皇帝じゃなくなったら、お前は俺の所から羊コってやつの所にいっちまうだろう!?」
孫皓の手が陸坑の衣に掛けられる。
顔には血管が走り、尋常ではない。
「何を!? 嫌・・やめ、てぇ!!」
将として敵の命の代償に傷を負ってきた体ではあるが、直に男性に触れられたことはなく想い人もいる。
相手が主人である事を忘れ、陸坑は孫皓を突き飛ばしていた。
壁に叩きつけられ、喉を押さえ蹲る。
「う・・うげえぇぇェェェ!」
壁で背を打ったせいなのか、孫皓は血とも毒ともいえない吐瀉物を撒き散らした。
「おぁ・・はぁ・・・はぁ・・・。」
息遣いは荒いが、顔は青白さを越えて土色である。
「ひでぇじゃねえかよ幼節。 昔はあんなに優しかったのになぁ。」
孫皓は陸坑を字で呼んだ。
その姿は、言うなれば借金を断られた男の逆恨みにも似た様子であった。
陸坑は、今の孫皓を見て、どのような感情よりも悲しみが浮かんでいた。
昔は、二人は主従の関係ではなかった。 姉と弟、陸坑は孫皓を慈しみ、孫皓は陸坑を敬愛した。
少女の頃から闊達であった陸坑に、それを近くで見ていた孫皓もまた良く育っていた。
孫皓が叔母達に苛められても、陸坑はその度抱いてやった。
孫皓の父、孫和の悲報を聞かされたときは一緒に泣いた。
その時誓ったのだ。 孫皓は。
「強くなる。 そして、何時の日か父の無念を晴らす。」 と。
その時の空の色、風の匂い、月の形、未だに陸坑は覚えている。
「貴方は・・本当に変ってしまったの・・?」
「・・・くくく。 はは、ははは・・・。」
壁にもたれ掛け、汚れた顔を拭おうともせず、陸坑の言葉を嘲笑うかのように。
「変ったんだよ・・・。変っちまった・・。」
その声は、普段の傲慢さはなく昔の、泣いてばかりだった頃のものである。
陸坑は、孫皓の顔を自らの錦で拭ってやる。 両の手で優しく抱きしめる。