『リビング』
どうすることも出来なかった。
ただ、泣いているだけ。
あの時、他に自分が出来ることがあっただろうか。
自問。
幾度も繰り返した自問。
その後続くのは、沈黙。
それが、自分にとって一番適した回答だった。
もし、他に良い方法があったなら……
きっと、自分は後悔しているだろうから。
きっと、自分を責め続けているだろうから。
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――― 待って! 待ってよお母さん!!
母親の服にすがりつく少女。
涙を浮かべて。それでも必死に。
だけど、母親は無言で首を横に振る。
――― お父さん! お母さんが行っちゃう!!
あふれる涙を拭うことなく、少女は父親をみつめる。
ぼやけた瞳で。それでも懸命に。
だけど、父親は背を向けたまま何も言わなかった。
――― イヤだよ!? こんなの…私、絶対にイヤ!!
悲痛な叫びが、リビング全体に響きわたる。
その後巡ってくる静寂。
聴こえる音は、時計の針と少女の泣き声。
「ごめんね…ごめんね秋子……」
搾り出すように発せられた声は母のもの。
震える声で。
でも意志のこもった別れの言葉。
そして母親は家を出て行く。
自分に背を向ける夫と、床にへたり込んで涙を流す娘を残して。
――― お母さん!! お母さん!!
リビングに置かれた食卓。
今まで温かく家族を見守ってきた食卓が、その時はひどく寂しげで。
窓から部屋に入り込んだ風が一枚の紙をとばす。
別れを証拠付ける、夫婦の名前と印鑑が押された一枚の紙を。
――― お母さん! お母さん! お母さん……
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「………お母さん」
目覚め。
鳥のさえずり。
窓から差し込む太陽の陽射し。
身体をおこし、秋子は寝起きのぼんやり顔でしばらく待つ。
次第に意識ははっきりしてきた。
少し、頭が重い。
寝たのに疲れがとれてないのは、何か損をした気分になる。
寝巻きから着替え、部屋着に袖を通す。
時刻は6時少し過ぎ。
いつもの朝。
自室をでて、秋子は静かに廊下を歩く。
仕事で疲れている父親を起こさないように、そっと。
秋子はある部屋へと向かっていた。
大好きな人がいつもいた、あの部屋へ。
ドアノブに手をかけて、ゆっくりと回す。
金具の乾いた音がカチャっとなった。
台所。
秋子はドアを静かにあけた。
大切な人の言葉を期待して。
――― あら、秋子。おはよう。
沈黙。
それが返ってきた返事だった。
あらためて今の我が家の現状を再確認する。
母が出て行ったのは紛れも無い事実だったことに。
昨日のことは夢でも幻でもなかったことに。
台所で調理をする母の姿はなかった。
フライパンで炒める音も、包丁が奏でるまな板の音も。
何もかもが、昨日とは違ったことだった。
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少し早起きして朝ごはんの準備を手伝う自分。
働く人にとって朝は忙しいのに、私に少しずつ料理を教えてくれる母。
共働きで育った私にとって、唯一の母との交流時間だった。
今までずっと変わらなかった日々。
これからもずっと変わらないと思っていた日々。
そう、ずっと……
「秋子ー、あんたも明日から中学生だねぇ。ホント、成長って早いものね」
「明日の体育祭、頑張りなさいよ。部活やってて転んだりしたら恥ずかしいわよ」
「ちゃんと受験票持った? 今までやってきたことを全部ぶつけちゃいなさいな」
それでも忙しい朝。
思ったよりも話したいことが話せなかった。
だけど、秋子は楽しくて。幸せで。
手をせわしく動かしながらも笑顔で話を聞いてくれる母が、秋子はとても嬉しくて。
短い時間だけど、大切な時間。
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心から大切に思える人。
そんな母親は今、この場にいなかった。
手際よく調理する姿も。優しかったあの微笑みも。
床に落ちた離婚届。
昨日と変わらない場所に落ちている。
そっと拾い上げてみる。
何度見ても同じ文章。
互いに同意の上で押された印鑑。
悔しさが込み上げた。
こんな紙切れ一枚で引き裂かれてしまう家族の絆というものに。
こんなにも脆く、儚いものだったのだろうか。
紙を握る手に力がこもる。
許されるのなら、破り捨ててしまいたかった。
だけど……
わかっている。
自分にはそんな資格がないことに。
理性ではわかっていても、心がそれを認めようとしてくれない。
何も出来ない自分が情けなくて……
秋子は涙を流した。
どうしようもならなくなった時、自分ができることは泣くことしかないのだろうか。
これでもう何度目の自問だろう。
そして何度、沈黙という答えを聞けば自分は納得するのだろうか。
しばらくイスに腰を下ろして涙がおさまるのを待っていた。
昨日から泣きっぱなし。
顔はちょっとひどいことになっている。
いつまでもこうしてられないと思い、イスにかけられていたエプロンを手にとる。
沈んでばかりもいられない。
秋子は学校が、父親は会社がそれぞれあるのだから。
変化があったのは我が家だけ。
一歩外に出れば、いつもと変わらない日常が動いている。
「………秋子?」
不意に背後から名前を呼ばれた。
ひどく疲れた、弱々しい声。
振り返ると、そこには父が立っていた。
昨日と同じ服装で。
でも表情は少しやつれていて。
「お父さん……」
秋子はふと気づく。
いつまでも落ち込んでばかりじゃいけない。
母のことで精神が疲れている父に、これ以上心身がつのるのは辛いから。
「…お、おはよう! お父さん。待ってね、すぐに朝御飯の準備するから」
自分でも驚くぐらいの大きな声で。
私は平気だからね、と示すような笑顔で。
母がいない朝を笑って過ごすのは辛いけど、父はもっと辛いはずだから。
だから…
「秋子……すまない……」
突然の謝罪。
秋子に対しての謝罪。
秋子は感情が高ぶる瞬間を感じた。
父はさらに続ける。
「俺があいつのことを理解してやれなくて……悪いのは全部父さんなんだ…」
身体が熱くなる。
これは、きっと怒りなんだろう。
「っ……!」
父の謝罪。
私に向かって頭を下げる。
声を震わせて、心からすまなく思っている。
……相手が違う。
その態度を、その言葉をかける相手は私じゃない。
悔しくて。悔しくて。
また、涙があふれてきた。
怒鳴ってやりたかった。
大きな声で、怒鳴ってやりたかった。
お父さんが悪いんだよ! って。
だけど……
「くっ……」
それは私には出来なかった。
涙を流して謝る父をみて、私は気が付いているから。
父も母も……
お互い本気で相手を嫌いになったわけじゃないことに。
「何で…何であの時……」
父に向かってつぶやく。
涙でかすれて声が上手くとどかないかもしれないけど。
「お母さんにそう言って…止めてくれなかったの……!」
最後はなりふり構わず大きな声で叫んだ。
そして、父の胸に飛び込む。
「うっ……ひっく……うっ…うぁぁぁぁん!!」
今日、一番大きな泣き声を、父の胸の中であげた。
母のエプロンを持った手を、父の背中に回して。
強く、ぎゅっと力をこめる。
リビングの食卓は今日もやっぱり寂しげで。
涙の跡が残る離婚届。
秋子の涙ではない。これはきっと、母のもの。
手書きの文字が震えていた父の署名。
名を記す時、きっと動揺していたのだろう。
父も母も……
昔を思い出し、懐かしみ、そしてそれを了承の上、離婚届に書き記した。
父と母の関係は、私が今まで生きてきた間よりも絶対に長くて。
母と過ごした時間は、父の方がはるかに多くて。
それゆえに、離婚を決めた二人の心情ははかりしれなくて……
私はただ……泣くしかなかった。
父と母の間で交わされた言葉がどんなものだったのか。
私には想像がつかないから。
Fin.
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