私の中の黒い部分


おばさまに引き取られて、もう何年くらい経つんだろう。
時間の感覚を忘れてしまうくらい、ここは平和だった。
四季の移り変わりに、山や川が見せるちょっとした変化や、近所の人との挨拶や会話が、とても楽しかった。
…でも、あの牧場にやってきた人が、私の全てを変えてしまった。
季節ごとに移り変わる山の木々の色も、それを映して流れる川も、夜空の星でさえも色あせてしまった。
今の私に形があるのは、その人とお話をしているときだけ。
気付けばずいぶんと夜遅くまで、湖のほとりで二時間も三時間も、ぼんやりしてしまっていることだってある。
いけない、おばさまに叱られる、なんて思っても、帰りがけにはあの人がいる牧場のほうを、ついつい見てしまう。
そして、今日も私は、あの人のくれたムーンドロップを見て途方に暮れる。
そうすることで、胸に灯った赤い炎も、私の心を焼き尽くすのだけは待ってくれる。
それでも癒されない心の渇きは、静めることができない。
あの人じゃないと。

「おはようございます、アリクさん。」
朝、いつものように外に出ると、その人がいた。
「ああ、おはようルミナちゃん。どこかに出かけるの?」
昨日は会えなかったせいか、いつ会っても変わらない笑みが、今日は野犬の牙のように私に突き刺さる。
「ええ、ちょっと散歩に。アリクさんは?」
「君の家に行くところだったんだ。メロンがたくさんできたから、おすそ分けしようかと思って。」
「そうなんですか?おばさま喜びます。でしたら、うちまで一緒に行きません?」
「え、いいけど、ルミナちゃんは何か用事があるんじゃないの?」
「ただ、ふらっと外に出ただけですから。」
アリクさんは頷いて、私と並んで歩き始めた。
「寒くなってきましたね。」
「そうだね。畑仕事が辛いよ。」
「でも、アンバーの月って夜になると滝のあたりに綺麗な星が見えるんですよ。」
家にいるときは、あんなに胸が苦しくて苦しくてたまらないのに、こうやって接していると、他の人と同じように話しかけられる。
自分でも驚くくらい、自分を偽って喋ってる。


理由は簡単なんだ。同じ村の中で、顔を会わせてお話する関係を壊したくないから。
こうやって普通に会話できることは、それだけでちょっとした躍進。
それだけ…この人のことが、好きなんだ。
あんなに内気だった私が、こんなに自分から進んでいけるようになったんだから。
おばあさまにメロンを渡し、世間話をしているアリクさんを見ながらそんなことを考えて、自分を慰め、勇気づけようとする。
考えるのをやめてしまうと、私は私の中で、思い切りむごい手段でおばさまを葬ろうとしてしまうから。
…でも、それはおばさまに限った話じゃない。
アリクさんが、女性と話しているところを見るだけで、私の中の黒くて暗い、人には絶対に見せたくない夜叉が頭をもたげる。
それが人を嫌うということなら、今、私がこのわすれ谷で一番嫌いな人は、セピリアさんだ。
多分、アリクさんが、このわすれ谷で一番多く会話してる女性だから。
初めて会ったときは、あんなに優しく見えた笑顔が、今は残忍で酷薄な笑みにしか見えない。
そんなハズなんてないのに、私を揶揄しているような、そんな笑みに。

「お邪魔したね。」
「いいえ、どうせおばさまもヒマしてるんですから。」
「じゃあ、仕事に戻るから…」
…違和感を感じた。
いつもの笑顔に、ほんの一筋、何かの翳り(あるいは、誰かにとっての輝き)が見える。
連鎖してよぎる、セピリアさんの顔。
嫌な、とっても嫌な予感が私の胸にわだかまる。
問いただす勇気なんか沸かないまま、アリクさんの背は小さくなっていった。


「まさかね…」
独り言を言っても不安は消えない。
まさかね。大丈夫。セピリアさんにはこの間お見合いの話が持ち上がってた。
部屋に戻りながら何度も自分にそう言い聞かせ、ベッドに倒れこむ。
ぐちゃぐちゃになった頭の中を整理しようと必死になって、ふと我に返ると、もう夜の8時。
滝の上の星が、なぜか私を焦らせた。
ふらりと立ち上がり、屋敷を出て、足が勝手にいつもの道をなぞる。
いつもの散歩道が、綱渡りの綱のよう。
…アリクさんの牧場の前。尋ねていく勇気もなく、顔を伏せて通り過ぎる。
この先にすぐ、行き止まりの、女神の泉がある。帰りも、同じ気持ちでここを通らなければならないと思うと、ほとんど絶望を覚えた。
泉のそばにしゃがんで、物思いにふける。
所詮、予感は予感。私はそんなに鋭いほうじゃない。予感が当たったことなんて、ほとんどない。
そう自分に言い聞かせる一方、頭の片隅で最悪のシナリオも考えてしまう。
考えをまとめることなんてとっくにできなくなって、歯止めをなくした一番嫌な想像だけが膨らんでいく。
それと一緒に、私の中の悪魔は、セピリアさんの姿になる。
…こんな自分、嫌。
こんなに、こんなに人を嫌う自分なんか。
操り人形みたいに立ち上がって、服を脱いだ。
寒気が身を刺して、私の中のセピリアさんが少し小さくなったのを感じる。
これでいい。こんなに人を憎ませる悪魔なんて、もっと弱くなって、消えてしまえばいい。
躊躇いもなく、泉へと進んだ。
薄氷まで張った水の冷たさが、お庭のバラの棘みたいに足に刺さる。
悪魔がまた、小さくなった。
そのまま死んじゃえ、そのまま死んじゃえ…
水が腰のところまでくると、そのまま私は倒れこみ、息を吐いた。

目を開けると、見たことのない天井があった。
頭を横に向けると、ぼやけた視界に誰かの姿が映る。
その人は、私の視線に気づいて、こっちにやってきた。
「…アリクさん…?」
「大丈夫かい?ロマナさんには言ってあるから、今日はここで休んでいけばいいよ。」
目が覚めて、いろんなことがつながった。
いつものように散歩に出て、泉のほとりで服を脱いで…
そっと布団の中を見ると、ぶかぶかのパジャマを着てた。多分アリクさんのだ。
「あ…あ…あの…」
「ああ…」
アリクさんはちょっとばつの悪そうな顔をして視線を逸らした。
「み…見ました?」
「…ごめん。」
自分の顔が、耳の先まで赤くなるのを感じた。
「へ、ヘンなことはしてないよ?ただ、あの、びしょ濡れだったから、拭いただけ、拭いただけだから!」
慌てるアリクさんが可笑しくて、私は少し笑ってしまった。
そんな私を見て、アリクさんも照れくさそうな笑みを見せてくれる。
「服はテレビの横に置いてあるからね。そうだ、お腹空いてない?」
その言葉で、私は空腹に気付いた。そういえば、セバスチャンに呼ばれたのを無視してぼんやりしてたんだっけ。
「す、少し…空いちゃってます。」
わたしがそう言うと、アリクさんはにっこり笑って外に出て行った。
その姿を見送ると、私は布団を顔に当てて、思い切り息を吸い込んでうっとりとした。
初めて入るアリクさんの家。思ってたよりも殺風景だけど、今年の初めに来たばかりなんだからしょうがない。
そのうち、増築して、キッチンなんかも作ったりするんだろう。
そこで料理してるのは、私…
そんな想像をしたりして、気恥ずかしさに一人で笑う。
段々、今の自分がわかってきて、どんどん嬉しくなる。
アリクさんの家に泊まれる。こんなふうに導いてくれた、私の中のセピリアさんにちょっと感謝したりする。


そんなことをやっていると、玄関のドアが開いて、ちょっと沈んだ表情のアリクさんが入ってきた。
「ごめん、メロンやイチゴ、今日バァンに売ったの忘れてたよ…」
「それなら…それでも別にいいですよ。ちょっと空いてるだけですから。」
「そういうわけにも…あ、そうだ。」
何かを思い出したみたいに、アリクさんはリュックの中を探り始めた。
そして、見つけた箱を私に差し出す。
「ほら、お弁当。リュックに入れたまま仕事してたから、中身はちょっとぐちゃぐちゃかもしれないけど。」
受け取って、包みを解く。中身は野菜が中心の質素なもの。
でも、冷えているはずなのに、漂ってくる匂いはとてもおいしそうだった。
一緒についていた割り箸で、きのこの炒めものを口に運んでみる。
セバスチャンの料理ほどじゃないけど、あっさりしていて、とても食べやすかった。
お腹の虫が騒ぎだし、無心で口に運ぶ。
アリクさんは、ベッドで半身を起こしたままみっともないくらいの勢いでお弁当を食べる私を、優しく見てくれていた。
気付けば、お弁当箱は空になっていた。
「ごちそうさま。おいしかったです。」
「だろう?」
アリクさんはすごく満足げに答えてくれた。ノでも、その後続いた言葉。
「セピリアが作ってくれたんだ。」
世界が遠くなるのを感じた。夕方にもらったんだけどね、ちょうどお腹が空いてオジャガを食べたあとだったから…
アリクさんが喋っていることが、水のカーテンを通したみたいになって私の頭に届く。
あっさりした塩気の少ない味付けと、私がおいしいと言ったときのアリクさんの満足そうな顔が、私の中で不吉な警告になる。
気づいたら口が勝手に動き出していた。
「お弁当…作ってもらうくらい…セピリアさんとは仲がいいんですか?」
私がそう言うと、アリクさんは真剣な顔になった。
「まあ…ね。言っちゃっていいのかな、今年の終わりに結婚することになったんだ。」
戻りかけた世界が、今度は色を失った。
涙が一筋だけ流れ、頭が真っ白になる。


私の涙を見て、アリクさんは怪訝な顔をした。
なんて鈍い人。苦笑がこぼれた。
ベッドから降りて、アリクさんに近づく。
「…おめでとうございます。」
涙がもっとあふれ出す。それでも渾身の力を振り絞ってそう言う。
「そんなに話が進んでたんですね…」
「あ…う、うん。」
そのことを私に言う義理はないかもしれない。でも、言ってくれなかったのは、裏切り。
そう。裏切り。
私が秘めた想いと、私が私の中で殺してしまった人たちへの。
…償ってもらわないと。
着せてもらったパジャマを脱いで、足元に絡ませる。
「わかってもらえます?」
自分で言って支離滅裂。だけど、アリクさんには通じたみたい。
全部通じたかどうかはわからないけど、それでもいい。
償ってもらうという形で、私の中でけじめをつけたいだけ。
それだけなのに、アリクさんは私の肩を掴んで、突き放した。
「…だめだよ。」
なんて身勝手な人。私の心にすごく大きな焦げ痕を作ったくせに。
顔を見ると、聞き分けのない子供を言い含めようとする大人の表情に、ほんの少しだけ怯えが混じってる。
私が、怖いの?それとも、セピリアさんが、怖いの?
足を前に進めると、それに合わせてアリクさんは後ずさる。
その怖がってる顔を見て、お弁当が詰まったお腹の奥がじんわりあったかくなる。
私の唇が勝手に笑みの形を作る。まるで私の中のセピリアさんみたいな表情になってるんだろう。
すごく残忍で、酷薄な笑み。それを見て、アリクさんは怯えてる。

私が、怖いの?私の中の、セピリアさんが、怖いの?
アリクさんの背中が壁についた。
なあに?その顔。私がバドックさんを初めて見たときより怖がってるじゃない。
お腹の奥が、熱いくらいに火照ってる。足の付け根、女の人だけの場所が、なんだか湿ってきてる。
体重をかけてアリクさんのほうに倒れこむ。
受け止めてくれなかった。
そんなに?そんなに私が怖い?
顔を上げると、アリクさんは目を背けた。
なんだか、家で飼ってる猫を思い出す。
あの子達も、こうやってネズミを追い詰めるんだ。
この人、猫に狙われたネズミみたい。じゃあ、私は猫?
「にゃあん」
一声鳴いて、顔をアリクさんに埋めたまま膝をつく。
布地の向こうにあるのは、アリクさん。
ほおずりをして、なでて、かぷっと甘噛みして。
少し熱を感じて、ズボン越しに固くなってるのがわかって、金具をおろす。
…見るのは、ほとんど初めて。小さいころお父さんのを見たことがあるかもしれないけど、とっくに忘れちゃってる。
赤とピンクに、黒をちょっとだけ混ぜたような先っちょが、私の口の端に触れた。
そのまま唇の真ん中に滑らせるようにして、ご飯を食べさせてもらうときみたいにあーんって口をあけて、それを咥える。
なんだかほかの味も混じってるみたいだけど、おおむねしょっぱい味が口に満たされた。
舌をからめたり、先っちょをぺろぺろしたり、ちょっと歯を立ててみたり、思いつく限りの方法で味わう。
すごくいやらしいことをしてるのに、その自覚がない。これがホントの私?ホントの私って、こんなに…
いいのよ、今は。それでも。
なんだか開き直った気分で、ちょっと強めに、なんだかかわいく見えてきたそれの、くびれの部分に噛み付いた。
アリクさんがびくっと体をふるわせた。そのとたん、私の口の中になんだか粘っこいものが流し込まれる。
ほんのりしょっぱくて、苦い味と、青臭い匂いが口から鼻へ抜ける。
なんの抵抗もないまま、それを喉の奥に押し込む。
私のお腹で、それがセピリアさんのお弁当と混じった。


残りを手に出してみた。白くて、どろどろしてて、すごくいやらしい。
それを、胸やお腹に塗ってみた。
いつもの私なら気持ち悪いと思うはずなのに、すごく楽しくて、気持ちよくて、胸の先や足の付け根まで手が伸びる。
そこは、さっきよりずっと湿ってて、指を動かすと、猫がミルクを舐めてるときみたいな音がした。
手を見ると、もうびしょびしょ。それをちょっと舐めてみた。やっぱり少し苦くて、しょっぱかった。
お腹の下が、熱いくらい疼く。
ここに、雨の日のお庭のプランターみたいになってるここに、アリクさんがほしい。
衝動にかられて、私はアリクさんのひざを抱えて引っ張った。
腰が抜けたみたいに座り込むアリクさんにまたがる。
呆けたような、まだ怖がってるような顔を抱きかかえ、私はプランターにネズミをあてがう。
ちょっと腰を揺らすと、プランターに生えてる小さな芽をネズミが齧る。
熱い悪寒が私の頭を芯から揺さぶった。
なにも考えないで、欲するままに膝の力を抜く。
そのとたん、熱い悪寒が、杭に体をつきぬかれるみたいな痛みに変わった。
「あ…う…あ、あ…」
声が漏れる。アリクさんを受け入れた痛みと、悦びと、セピリアさんに対する背徳感で。でも、それと同じ位の優越感も。
ぐちゃぐちゃになった気持ちで、痛みだけに耐えてると、アリクさんがそっと私の背に手をあてがった。
そのまま、抱き寄せられる格好でアリクさんの胸に抱えられる。
「もっと、早く、気づいてあげらればね。」
こんなことにはならなかったのかもしれない。
アリクさんの顔は、もう怯えてなかった。目が、いつもより強く、優しく、私を見てくれてた。
ぐちゃぐちゃになった気持ちが、もっと激しくかき回される。
そして、最後に残ったのは、ムーンドロップを眺めながら途方に暮れていたころの私。
目から、私の、本当に本当に悲しいときの涙が溢れ出す。
小さいときに流したきりの涙。
お父さんと、お母さんはどこにいるのって、おばさまに問い詰めたときの涙。
次から次へあふれ出して、止まらない。


私は、思い切り泣いた。アリクさんの胸で。
その人が、私を抱きしめてくれてること。
その人が、こんなにひどいことをした私を許してくれたこと。
その人が、受け止めてくれたこと。
いろんな、いろんな、いろんな感情が私の胸の中を暴れまわる。
この痛み、お腹の下から湧き上がる痛みは、罰。
きっと、天国にいるお父さんとお母さんからの、私への。
泣きじゃくる私を、アリクさんはずっと抱きしめてくれてた。
ひとしきり泣いて、しゃっくりだけになったとき、アリクさんの唇が私の唇に重なった。
呆然とする私を軽々とお姫様だっこして、ベッドに寝かす。
今夜だけ。目が、そう言ってる。
アリクさんの優しさが胸の奥に沈む。
それでもいい。それで私は、きっと想いを断ち切れる。
上に覆いかぶさってきたアリクさんの胸に、私は顔を埋めた。

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