ラグナとロゼッタ初めての夜・前編
「汝ラグナは妻ロゼッタのことを、病める時も健やかなる時も、死が二人を分かつその日まで愛し続けていくことを誓いますか?」
身震いしてしまいそうなほどにシンと静まった空気の中、唯一声を発するホワイト神父の声はその場に居る誰の耳にもよく通って聞こえた。
ここはカルディアの町にある教会。今日はそこで一組の男女の結婚式が執り行われていた。
結婚式というその男女の晴れ晴れしい門出をお天道様も祝福してくれているのか、天気は雲一つない快晴。教会のステンドグラスを通して射し込む光はその場に居る人々の目に眩しくも色鮮やかに映っていた。
そしてその光の中心に居るのが、本日の主役たる男女――ラグナとロゼッタである。二人が身にまとった純白の衣装が光を反射して、二人の姿を一層に引き立てているようにも見えた。
しかし、その輝きにも負けない表情でラグナは口を開いた。
「……誓います」
ホワイト神父の言葉を自分の中で何度も反芻させながら、その言葉の一文字一文字に思いを込めて紡ぎ出す。
その言葉に深く頷いたホワイト神父は視線をラグナから隣に立つロゼッタへと向け直し、再び同じことを彼女にも訊ねた。
「汝ロゼッタは夫ラグナのことを、病める時も健やかなる時も、死が二人を分かつその日まで愛し続けていくことを誓いますか?」
純白のウェディングドレスに身を包んだロゼッタの表情はヴェール越しのせいか、ホワイト神父ですらはっきりとした表情は窺い知れない。しかしそれでも、ロゼッタの言葉にはラグナ同様に強い意志の内包が感じ取れた。
「誓います」
「よろしい。それでは、誓いの口付けを」
その言葉を合図に二人は同時に互いの顔を向き合わせる。
「ロゼッタさん……」
ラグナは目の前の愛しき人の名を口にしながら、ロゼッタの顔を覆うヴェールをゆっくりと捲り上げる。するとその下からは陶磁のように白く滑らかな肌、そして薄い金色の髪が現れ、ラグナの目を奪った。
綺麗だ……そんな言葉が意図することなく出てきそうなのに、上手く唇が動いてくれない。
「何故?」……そんな思いがラグナの心を錯綜する。その中にぼんやりと浮かび上がるのは自分の中の得体の知れない『不安』。
自分自身が誰なのか、過去の記憶が無い、何処の馬の骨ともしれない……自分のことすら何も分からない自分が、自分でない誰かを幸せにすることが果たして本当にできるのか……そんな『不安』。
それが今この瞬間になって自分の心の表層に現れてしまったのだ。そして、ヴェールを掴むその手を止めてしまっていた。
「……ラグナ?」
その姿を見たロゼッタの表情にも『不安』の陰がよぎる。
当然である。こんなときにこんなところで相手の男性に戸惑われて不安にならない女性はいない。普段から気の強いロゼッタとてそれは例外ではなかった。
いや、むしろ自分に正直である彼女だからこそ、それを余計に不安に思ってしまったのかもしれない。
「……ぁ」
ラグナはロゼッタのその今にも泣いてしまいそうな表情を目にして、ようやく自分の行為、強いては自分の心の愚かさに気づく。
自分は彼女のことを守ると……そう約束した。そして、ロゼッタもそう言うラグナのことを想い、信じてくれた。ならば、それで……それだけでいいではないか。自分が想い、自分を想ってくれるのならば、それで。
だからこそラグナはその言葉を『誓い』として、もう一度彼女に約束するのだった。
「キミは僕が守るから。これからずっと……」
「ラグナぁ……」
ロゼッタの瞳に浮かんだ涙をこぼさないようにと、ラグナは指で彼女の顎をクイと持ち上げる。そして頭一つ分ほど背丈の小さな彼女の顔に自分の顔を覆い被せるようにそっと……口付けをした。
「はぁ〜、疲れたぁ。皆、今日の主役が誰なのか忘れてたんじゃないかしら」
教会での結婚式の後は酒場を営むセバスチャンの店に場所を移して、披露宴。
とは言っても、町の皆での食っては飲んでのお祭り騒ぎで披露宴というのとは少しかけ離れていたような気がしないでもなく、ロゼッタがそんな愚痴をこぼしてしまうのも無理はなかった。
「まぁ、いいじゃないですか。皆が楽しかったなら。僕も楽しかったし……、ロゼッタさんは楽しくなかったですか?」
「そ、それは……まぁ、楽しくない……なんてことはなかったけど」
そんな肯定とも否定とも取りがたい言葉をこぼしながら、ロゼッタは疲れた身体をまるでベッドの引力に引かれるように横たえ、その表情を隠すように枕の上に顔を沈めた。
「大丈夫ですか?」
「ん〜? 平気……、ちょっとだけ疲れただけだから」
そう言いながらも、ロゼッタの頭はジリジリと枕に深く沈んでいき、今にも寝てしまいそうな様子がありありと見て取れた。そんな彼女の姿を見て、ラグナは得も言えぬため息をつく。
いくら記憶を失っているからとは言え、新婚の二人が……しかも初夜というのがどのようなものなのか、知らないわけでもない。
それに、先程の披露宴では海の家を営むサラや宿屋のアン、養鶏場のノイマンなどから嫌というほどに夜の手ほどきを聞かされたばかりなので余計に……。
しかしだからとて、ラグナは自分からソレを強いるようなことはしたくはなかった。
彼女のことを守ると再度決意したばかりだし、ロゼッタの父親であるジェフからも彼女のことを任されたばかりでもある。ロゼッタのことを大切に思うが故、自分勝手、自分本位なことは絶対にはしたくはなかった。
「それじゃあ、今日はもう……寝ましょうか? 明日からまた新しい一週間の始まりですし」
そう。結婚したと言っても、やるべきことに変わりはない。朝から牧場に出て畑を耕して、作物を収穫する。そしてそれを出荷したり、料理を作ったり……。その変わらない仕事こそが自分を支え、何よりもロゼッタのことを支えるのだから。
「ぅ……ん。それじゃあ、おやすみ……ラ……グ……」
言葉が今まさに消えうせようとした、その次の瞬間。ロゼッタはまるで寝耳に水のような勢いで潜り込もうとしたベッドから跳ね起きた。
「あ゛っ! あ、あの……えっと、今の嘘、冗談。ま、まだ全然疲れてないし、眠くもないのよ? ホントよ?」
何かに急かされているような、そんな慌てた様子で念を押してくるロゼッタ。手を目の前でパタパタと交差させながら真っ赤な表情の彼女はとても愛らしい。
「ちょ、ちょっとね……じらしてみただけよあんな風にしたらラグナはどんな反応するかなぁってそしたらラグナったらもう寝ようだもん驚くのを通り過ぎて呆れちゃったわよ町の皆もそうだけどラグナも今日がどういう日か分かってないんじゃないの」
「…………」
驚くのを通り過ぎて呆れた……という言葉は今まさに自分が言いたいことなんだけど、とラグナは心の中で呟いた。
そして、いつもしっかりしていて落ち着いているロゼッタでも息もつけないほどに取り乱すこともあるのだなぁ、と未だ知らない彼女の一面に感心すら覚えもした。
「な、なによ? 何かおかしい?」
「いえ、別に。ただロゼッタさんはやっぱり可愛いなって思って」
「〜〜〜〜っ!?」
すると、彼女の白い肌がまるでトマトのように真っ赤に染め上がる。それも耳や首筋まで。
「うぅ〜」
「どうしました?」
「ラグナだけなんか……ずるい」
「ずるい?」
ロゼッタからいきなり飛び出たその言葉にラグナは首を傾げる。
「だって、私が……その……こういうコト初めて……だからって、ラグナったらなんかすごく落ち着いてたりしてて……さ」
「――――」
その意見はあまりにも的外れなものだった。先程は何とか理性で抑えつけることができたが、その実、ラグナの心臓は幾度となく爆発しそうになっていた。
だって、そうだろう。新婚初夜に愛しい女性がベッドの上で少し着衣が乱れた格好で横たわっているのだから。健全な男性であれば落ち着いていられようはずがない。
それにロゼッタはこういうことが「初めて」と言ったが、ラグナにとってもそれは同様だった。まさかこのカルディアに来る前……つまり記憶を失くす前からそういう経験があったとはちょっと考えにくい。
「確かに落ち着こうとはしていますよ、懸命にね。ただ、それは自然なものではなく意図的なものです。それに僕だってこういうコトは初めてですよ」
「わ、わからないじゃない。もしかしたら……」
「信じられませんか?」
「うぅ……、それは、信じてるけど……さ。でも、なんか癪じゃない。ラグナだけ平然としてるのに、あたしだけこんな風にドキドキしてるのって」
「それは誤解です。なんなら、触ってみますか?」
ラグナはロゼッタの返事を聞くよりも早く彼女の手を取って自分の胸に当てる。
ドクン、ドクン、ドクン――そのかなりの早鐘は、ロゼッタにだけでなく、彼女の手を掴んだラグナ自身にも伝わってくるほど。加えて、彼女の手を掴むその手にはじわりと汗の滲む感覚すら覚えるほどだった。
「……硬い」
「はい?」
だというのに、ロゼッタの第一声はそんな突拍子で的外れなものだった。
「ラグナの胸ってすごく硬いね。体つきがいいのは服の上からでも見て分かってたけど、こんなに筋肉あったんだぁ」
「…………いえ、そうじゃなくて」
そしてロゼッタはまたハッと気付き、慌ててラグナの手を振り払うように胸から手を離した。
「……」
「ホントに緊張してるんですね」
ラグナはそんなロゼッタの様子がとても微笑ましく感じられた。普段ではほとんど見ることができないからこそ余計に。
「う、うるさいわね。しょうがないじゃない。あたしだって、こんな……」
「いえ、僕としても今はそっちの方がありがたかったりしますよ」
「どうして?」
「二人とも初心者ですからね。こういう場合はやはり、男である僕がリードしないとダメじゃないですか」
「…………」
ラグナの目の前でもう何度目か忘れてしまったほどにロゼッタの表情が赤面する。
「もう……、ばか」
そして、そんな風に言いはするものの、ロゼッタの表情はどこか嬉しそうだった。
ロゼッタにとって、『頼れる存在』がいることはこの上なく嬉しいことだったのである。自分を生んでくれたときに母親を失くし、父親であるジェフが一人で彼女の面倒をずっと看続けてきた。
その父親の存在は確かに『頼れる存在』ではあったのだが、ロゼッタにとって自分が生まれてきてしまったせいで母親を死なせ、父親に重荷をかけてきてしまったことを心の底ではずっと思い続けてきた。
当然それを周りに出すことはしない。それこそ父親にすらも。そうして彼女は父親にも迷惑をかけまいと、少しきついくらいのしっかり者であり続けてきたのである。
だからこそラグナの言葉には惹かれた。この際もうラグナに何もかも任せてみよう、甘えてみよう……そんな風に思えるほどに。
「じゃあ、どうしたら……いい」
「どうしたらって?」
「ムッ。だから、リードしてくれるんでしょ、ラグナが?」
「あ、あぁ。えっと、それじゃあ……そうだな」
意外と素直なロゼッタの反応に半ば戸惑いつつ、頭を捻るラグナ。そして酒場での話を必死に思い返した。
「ラグナ。女ってやつはここぞというときの「男らしさ」に惹かれるもんだ。乱暴にしてはいけないが、少し強引なくらいにいった方がいい。
「何言ってんだい。女は非常にデリケートなの。まずは優しく……、そうね。軽く抱きしめてあげたり、頭を撫でてあげたり……そういったスキンシップから入った方がいいの。そんなんだからアンタはダメなんだよ……ねぇ、アン?」
「うぅん、そうねぇ。まぁ、どっちもどっちじゃない? 二人とも自分の願望が入ってるみたいだしね。それよりもまずは……」
「…………」
こうやって思い返すと、単なる愚痴っぽいことを聞かされただけで実はあまり有益な情報は得られなかったのでは?という事実にため息をつきそうになりながらもそれを何とか押し隠し、ラグナはロゼッタの肩にそっと手をかけた。
「優しく……してね?」
「えぇ、分かっていますよ」
そう言われた以上はあまり強引にはできないな――そう思ったラグナは、今回はサラに言われたように軽く抱きしめることにした。
「んっ」
自分の胸に浅く頭を埋めるようにロゼッタを抱くと彼女の身体が微かな震えを帯びていることに気付く。ラグナが想像していたよりもずっと華奢だったその身体がそんな風に震えていると、まるで小動物を抱いているような錯覚にも陥る。
それ故に、次は特に意識することもなく、ラグナはロゼッタの頭に手を乗せて、優しく髪を撫でていた。
「ぁ……」
それでだいぶ安心したのか、ロゼッタは胸の中で安堵の息を漏らす。それが何故かものすごく艶かしく聞こえ、今度はラグナがその身を震わせた。そしてラグナのことを少しだけ積極的にさせた。
「キス……してもいいですか?」
「え? あ……ぅ、うん。いいよ」
ロゼッタの頭を少し起こし、キュッと目を瞑ったままの彼女の唇に自分の唇を重ねる。
「んっ、ぅ……ちゅ」
一度触れては少し離し、そして再び重ねる。互いの唇を味わい確かめるかのようにその行為を何度も繰り返していく二人。教会でのキスが二人にとってのファーストキスだったというのがまるで嘘だったかのように。
「ぅ、んぅ」
だがそのおかげか、少し強張っていたロゼッタの表情はどんどんと和らいでいき、いつしかロゼッタの方から唇を重ねようとするまでに至っていた。
「ふぁ……、ぁ」
どれくらいの間そうしていただろうか。どちらともなく離れると、互いの表情を間近に見て妙な気恥ずかしさを感じて、少しだけはにかんだ。
「どう……でしたか?」
「うん、なんかすごくふわふわした感じ。それと……」
「それと?」
そこで何故か不満そうな表情を浮かべるロゼッタ。
「やっぱりなんか……上手い」
「なっ!? そ、そんなことないですよ。だって、本当に初めてなんですから。それにさっきのはロゼッタさんも合わせてくれたから……」
「うん、分かってる。ちょっとからかったみただけ」
「う……」
まるで今までの反撃とばかりの意地悪にラグナは言葉を失ってしまう。が、すぐに笑みをこぼした。何故なら、さっきまでのしおらしいロゼッタも可愛かったが、今みたいな明るいロゼッタの方がずっとらしくて、ずっと可愛らしく見えたから。
「あの……次は、どうすればいい?」
それに調子付いたのか、それともまた戻ってしまったのか。どちらとも判断しにくくはあるものの、ロゼッタはすぐに次を要求してくる。
「次って……、そうですね。それじゃあ……」
「それじゃあ?」
そこでラグナの口が開いたまま固まる。そこで、さっきの話の続きはなんだったっけ……と記憶を掘り返してみるのだが、何か明確な像を結んではくれない。だが、リードすると言った以上はこんなところでつまるわけにもいかず、咄嗟にこんなことを口走ってしまっていた。
「む、胸に……触ってもいいかな?」
「胸っ!?」
「……ぇ?」
口にしてしまった後で、ラグナは自分の言ってしまったことの恐ろしさに気付く。そして、これはサラの話ではなく、ノイマンの話と混同していたことにも。
「…………」
案の定、ロゼッタは無言。またフルフルと身体が震えて見えるのは、怒っているからだろうか。しかし、それをフォローしようにもその術をラグナは知らない。故にその結末をただ天に祈るばかりだったのだが、意外なことにも……。
「い、いいわよ。ラグナが……その、そんなに触りたいって言うなら」
「いいんですか、ホントに?」
「だからそう言ってるじゃない。でも、男の人ってなんで胸なんかが好きなんだろ? そう言えば、リュードもどこか目つきがいやらしかった気がするし」
リュードという名前にラグナは少しだけ顔をしかめる。披露宴会場でも散々愚痴を聞かされたが、実はこのリュードもロゼッタのことが好きだったのである。
だから、そのリュードが今や自分の妻となったロゼッタの胸を見ていたということに不快感を隠しきれなかったのだが、でもリュードの気持ちも分からなくはなかった。
「それはまぁ、男であるが故……と言ってしまえばそれまでなんですが、やっぱりそれは相手が好きな女性だから、だと思いますよ」
「……はぁ。どうしてラグナってそういう歯が浮くような台詞を平然と言えるんだろ?」
「ミストさんにもよく言われました」
「むっ」
しかし苦笑しながら『その名前』を出した途端、ロゼッタの表情がこれまでにないほどのしかめ面に変わった。そして、両端からその忌々しい頬を引っ張った。
「このデリカシーなし。こんなときに他の女の子の……それもよりにもよって、ミストの名前を出すなんて」
「なっ!? 僕は別にそんなつもりは……。ただ事実を言っただけで」
「もう! そういうことを言うところがデリカシーなしって言うの。こうなったら……」
こうなったらどうしようと言うのか、ロゼッタはベッドから立ち上がってみせる。そしてラグナのことを見下ろすように立つ彼女は、突然自分の服に手をかけて、あろうことか脱ぎ始めたのである。
「ぁ……ぅ……」
あまりにも突飛すぎたせいか、それともその姿に魅了させてしまったせいか、ラグナの視線はロゼッタから全く外れようとはしない。
「ラグナはこれからはもうあたしの……あたしだけのものなんだから」
「ロゼッタ……さん」
何が彼女のことをそうまで掻き立てるのか……ラグナはそれを知る由もなければ、今特別にそれを知りたいとは思わなかった。脳裏に焼きつくのは唯一つ、初めて見るロゼッタのその美しくも可憐な肢体だけだった。