故郷を思ふ・前編
「ととさま! かかさま!」
轟轟と叫ぶのは煉獄の炎。
辺り一面は狂ってしまいそうなほどの赤、朱、紅……。それに加え、木の焼ける臭い、肉の焦げる臭い、血の蒸発する臭い。その全てが吐き気をもよおし、一人の幼い少女は口元を覆いながらも、必死に叫び声をあげていた。
そんな中、その少女に向けられる優しく穏やかな言葉と視線。
「――――。無事だったのですね、良かった」
「か、かかさま!?」
ゆらりと、まるで幽鬼のごとく現れた女性を見て、少女はそう呼んだ。
かかさま――つまり、その女性は少女の母親だった。真っ白な肌と真っ黒な髪。そのコントラストは本来ならば見る者を例外なく魅了するほどの美しさなのだが、それら含めた全身が汚れと埃……そして所々が血にまみれていた。
「かかさま、かかさまぁ!」
だが、そんなことや微塵も気にすることもなく、少女は母親の胸に飛び込んだ。
母親はその軽い衝撃に少しだけ驚き、少しだけよろめきつつも、優しく抱きとめてその頭を撫でた。
「あ……、そうだ。ととさま。ととさまはどちらに!?」
その言葉に、今度は少しだけ悲しそうな表情を浮かべてみせた。
「ととさまは……ととさまはこの国の主様。最後の最後まで国の民を守らねばなりません。私たちを逃がすために懸命に戦っておられます」
「やだ! 我も戦う! 我もととさまと一緒に戦う!」
小さい身体で必死に訴え、きつく握り締められた着物に皺がよる。だが、そんな少女の真剣な姿を見ると、母親はただただ首を横に振った。
「なりません。ととさまは民……そして何よりも貴女のことを守るために戦っておられるのです。そんな貴女が戦いに赴いて、もし傷つくようなことがあれば……ととさまはとても悲しみます」
「あ……ぅ……」
少女にとって初めて見る母親の怖い顔。いつも優しいはずの母親がそんな顔を見せたことに、緊張以上に怯え、すぐに押し黙ってしまった。だが、そんな顔をしたのも一瞬のことで、すぐにいつもの母親に戻った。
「だからね。ととさまのためにも、今はお逃げなさい。そして、生きて……皆で会いましょう」
「かかさま。分かり……」
着物を掴む手の力を緩め、少女がふと母親から離れたそのときだった。
まるで地震が起きたかのように思えるほどに建物が大きく揺れた。
舞い上がる火の粉とは対照的に降ってくるのは炎を纏った瓦礫。
「――――っ!」
母親が少女に向かって何かを叫ぶ。だが、周囲の音に邪魔されて、その声は少女にまるで届かない。
「か、か、さま?」
届かない声に不安と焦りを覚え、少女は再び母親の懐に飛び込もうとする。
だが、母親は先程と同じような怖い顔をして、でもそれでいてすごく悲しそうな顔をして、近寄る少女のことを突き飛ばした。
「あう!?」
女性の細腕の力とは言え、少女の身体はまだまだ本当に小さく、それだけで吹き飛ぶように転がっていった。
しかし、それでも少女はすかさず体勢を立て直し、また母親の下に駆け寄ろうとする。だが、起き上がった瞬間、少女はただただ絶望した。
母親の周りに、まるで蚊帳のような炎の壁が立ちはだかっていたからだ。
「かかさま!? かかさま――っ!!」
少女はひたすらに母親のことを呼びながら、懸命に足を踏み出そうとする。するのだが、少女の足は震えるだけで彼女の意思通りには一向に動いてはくれなかった。
「何故? 何故動いてくれぬ!」
そう自身に叱咤するものの、やはり少女は前に進めない。それどころか、瓦礫の雨と灼熱の壁に圧され、後ずさりしてしまっていた。
「かかさま。我は、我はぁ……」
そのやるせない感情で満ちた少女の顔を見て、母親は再度表情を和らげた。そして、宥めるような、また諭すようにこう告げた。
「さぁ、早くお逃げなさい。そして、生きるのです。たとえ私たちと離れることになっても、一人きりになっても、それでも生きるのです」
「や、やだぁ。かかさまも、ははさまも一緒に。ととさまとかかさまと、我と……」
そしてようやく少女が一歩を踏み出せたとき、
「……え?」
少女の視界を全て覆い隠すほどに大きな瓦礫が目の前の母親の身体を…………飲み込んだ。
その瞬間、最期の瞬間……この騒がしい轟音の中にただ一言、よく通る愛しい人の声を少女は聞いたような気がした。
「生きて……………………、冥」
「あああぁぁ――――っ!!」
まるで夜を切り裂くかのような絶叫をあげて、『少女』は床の間から上半身を起こした。
季節はもう秋の月を半ばも過ぎたというのに、額にはじわりと嫌な汗が浮かぶ。それに異様なまでに喉が渇く上に……。
「……う」
少女は『あのとき』のように口元を押さえる。
あのときの熱を身体が覚えているかのように熱い。ただひたすらに熱い。その熱さが不快。気持ち悪い。
そんな風に身悶えていた少女の背にふと誰かの手が触れた。
「え?」
そこにいたのは……一人の少年。この暗がりでもその少年の表情が分かるほどに彼は彼女の傍にいた。
「……ラグナ、殿?」
「どうしたんです、めい? 何か悪い夢でも?」
少年の名前はラグナ。そして少女の名前が冥。
もしこの町、カルディアに住む者以外が見たら、とてもじゃないが、二人が『夫婦』などとは思わないだろう。
何故か? それは彼女……冥の外見によるところが大きい。彼女曰く「自分はラグナよりもずっと年上」だそうだが、身長のみならず、あらゆる箇所に幼さを残すその外見では、『夫婦』ではなく『兄妹』と言われても仕方のないところもあった。
今だって、ラグナが背中から彼女の身体を抱きしめると、すっぽりとその腕の中に収まってしまうほどに小さく……そして、華奢だった。
「く、くっつくではない。今の我は……その、汗臭い……やもしれぬから、な」
などということを冥はいささか不満げに呟くのだが、それを聞いてラグナは離れるどころか、余計にその身を寄り添わせた。
「汗臭くなんかありませんよ。それどころか、すごくいい匂いがします」
「う、うう、うつけがっ! くっつくでない、寄るでない、近づくでない、匂いを嗅ぐでない!」
それを一息で言ってしまうほどに焦りながら、冥はラグナの身体を懸命に引き離そうとする。
が、ラグナは呆気ないほどに……と言うよりもむしろ、ラグナ自身から身体を離したのだった。
「……落ち着きましたか?」
「えっ、あ……」
そしてラグナから出た言葉は、そんな穏やかで優しい言葉。冥にとっては……そう。まるで『かかさま』に言われたような感じだった。
「馬鹿者。そういうのは普通、年長者である我が言うものだ」
「じゃあ、たまに……ならいいんですよね?」
「そ、それは……」
冥は言い淀んでしまう。
自分の方が大人、大人……と言い聞かせながらも、ラグナは時折こちらをドキリとさせるくらいの本当に大人びた仕草を見せる。それこそ、この町に住む男連中すらも及ばないほどの。
頼り甲斐があると言えば、まさにその通りなのかもしれないが、それでもラグナには名状しがたい何かがあるのもまた事実だった。
カルディアの住人がこれほどの短期間で彼のことを信頼するようになったのもそれが大きな要因の一つかもしれない。そして何より、冥がラグナのことを慕うのも……。
「な、ならん!」
だが、冥はすかさずかぶりを振った。
「どうしてです? 僕たちは夫婦なんですから、お互いに助け合うのは当然のことだと思いますが?」
「それでも、じゃ! 我が年上であることは変わりはないのだから、お主は我の言うコトを聞いておればいいのじゃ」
冥はその言った後に自分の失言に気付き、ハッと口元を押さえた。勢いとは言え、自分自身のあまりの身勝手な言い分に恥じた。
年上だからとか、偉いからとか、力が強いからとか……その他諸々で、他者を抑え、強いることがどれほどのものか、彼女自身は『よく』知っているはずなのに。
「す、すまぬ。今の言いす……」
と言おうしたのだが、その言葉は最後まで発することもなく途中で遮られてしまった。目の前の……彼女の目の前に佇む彼の唇によって。
「……んっ!?」
冥は驚きで目をこれでもかというくらいに見開く。とは言っても、その目が目の前の男の姿を見ているわけではない。焦点もずれていれば、意識もどこかずれている。
突然の行為、感触、味、匂いに冥の心境はもはや動揺などという言葉では言い表せないほどに『動揺』していた。
しかし、先程の夢で見た出来事、感触、臭い……それら不快な感覚が全てどこかへ吹き飛んでいた。
幾ばくかして、お互いにその身を離す。冥はラグナのことをただボウとした表情で、ラグナは冥のことを苦笑いを浮かべながら、また暫くの間互いのことを見つめあっていた。
が、とうとう堪えきれず、冥は笑いをこぼしてしまった。
「……ふふ。お主は本当に、本当に勝手な男じゃな。本当に、呆れるくらいに」
そんな愚痴をこぼしながらも、どこか嬉しそうだった。
その夜は二人、手を繋ぎながら再び眠りについた。
翌日のこと。ラグナが目を覚ますと、手を繋いで眠ったはずの人がそこにいないことに気付く。
さらには、窓の外が今やもう物凄く明るくなっていたことに気付く。時計を手に取って見るも、その針は午前十時などという「完全に寝坊してしまった」と呆気に取らせる時刻を指していた。
昨日はなんだかんだで寝るのが遅くなってしまったせいだろうか……などと考えるよりも先に、ラグナは床から抜け出していつもの服に着替える。
その途中でも家中を歩き回って彼女の姿を捜し求めたのだが、彼女はベッドどころか、この家の中にはいなかった。
「何処かへ出かけた?」と考えるのが至極当然のことではあったし、自分を起こさなかったのも多分彼女なりの配慮なのだろうと思った。でも、言伝の一つもなかったことは少しだけラグナを悲しくさせた。
そして、それ以上に何か……昨日の彼女の様子を鑑みると、ラグナは言い様もない不安に駆られた。
あの出来事さえなければ、こんな不安に思うこともなかっただろう。あの冥が……、あんな悲鳴をあげるなんてことは、今まで一度もなかったから。
「…………いや、悩んでいても仕方がない。遅くなっちゃったけど、まずは畑の作業をして、それから捜しに行ってみよう」
本当ならば今すぐにでも捜しに行きたいところだが、やはりそういうわけにもいかない。彼女と畑を天秤にかけるつもりもないが、やるべきことはきちんとやっておかねばならない。
特に冥はそういうところにはうるさかった。
ラグナはそう決心すると、ほんの少しの時間すら惜しむようにすぐさまに外へ出た。
寝坊していつもと生活のリズムが狂ったせいか、作業に精彩を欠き、いつもよりもだいぶ時間と体力を浪費してしまったようだ。
とは言え、なんとかお昼を少し過ぎたくらいまでには農作業を終えることができたラグナは、片付けも半ばにカルディアの街中へと足を運ぶ。
当然のことながら、この近辺で行く所と言えばココしかないし、その上、誰かがめいの姿を見ていれば、それを頼りに捜す手間も省けるというもの。
「……何処に行ったんだ、一体?」
なのだが、意外と言えば意外。町中を一通り見て回ったが、冥の姿を見たという人が誰もいないという。
落胆と疲れの色を少しだけ浮かばせながらトボトボと歩いていると、突然背中を思いきり叩かれて、ラグナは前へつんのめりそうになった。
「なーに、そんなに景気の悪そうな顔して歩いてるのよ?」
「えっ!?」
振り返った先、そこに立っていたのは海の家を営んでいるサラという女性だった。
そのサラがどんな女性なのか……、それは語るよりは見た方が早い。ラグナが振り返っても尚、バンバンと叩くのをやめないし、ニコニコと笑うのもやめない。
海の女……とはこういう人のことを言うのか、ものすごく『豪快』な人だった。
「サ、サラさん。そんなに叩かないでください。痛いですって。それに僕ももう子供じゃないんですから、そんな宥める風にしないでくださいよ」
「なーに、言ってんだい。アタシからすれば、アンタもまだまだ子供だよ。結婚しても、この町を救った英雄でも、そのへんはまだまだだね」
「……」
ラグナは少しだけ膨れっ面になる。
だが、それと対照的にサラはそんなラグナの表情を見て、太陽のような笑顔を浮かべてみせた。
「そういうところが子供だって言うんだよ。ホントにアンタたち夫婦は大人っぽいんだか子供っぽいんだかよく分からないねぇ。特に今日は二人とも……」
「二人……とも? もしかして、サラさん。めいに会ったんですか?」
ラグナの表情が急変する。それはサラの言うとおり、大人っぽくもあり子供っぽくもあった。
「え、えぇ」
「何処で!?」
肩をきつく掴んで激しくその身体を揺らす。
「いつもの桟橋の所よ。あっ、でも言っておくけど、今はもういないわよ」
「何処へ行くとか言ってませんでしたか!?」
「いや、それは……。ただ『一人になりたいから』としか」
「一人に……ですか。なるほど」
ラグナには心当たりがあった。
結婚してからはそうでもなくなったが、冥は総じて『一人』で居たがる。人と接することを避けたがるのである。
確かに冥はこのカルディアの住人ではない。もしかしたら、それ故の引け目などを感じているのかもしれない。それとも他の何か、か……。
そういう時に彼女が何処に居るか……ラグナにはおおよそ見当がついていた。
「ありがとうございました、サラさん。捜しに行ってみます」
「えっ、あ、あぁ。そうかい。頑張んな」
「はいっ」
別れの挨拶も早々に、ラグナはその場に背を向けて走り出していた。真っ直ぐ一直線に、迷うこともなくその場所へ向かった。
その場所……というのが、ギガント山。
天気は清々しいまでの秋晴れ、かつまだお天道様もほぼ真上に位置している。だというのに、高所のせいか風が涼しくて、走ったせいで流れ出た汗がやけに冷たく感じられた。
そう……冷たいのだ、ココは。
そういう外的要因だけじゃない。町中とは明らかに違う空気が、冷たく感じられた。
そんな所に、予想通りに彼女は居た。ギガント山の山頂、その絶壁の上に、一人きりの少女が佇んでいた。
「…………」
何か近寄りがたい空気をまとっている。むしろ、「誰も近づくな」オーラを放っているような気がした。
がしかし、だからと言って放っておくことはできるはずがないのは当たり前のこと。ラグナはその物悲しそうな冥の背中にそっと声をかけた。
「……めい。捜しました」
「…………」
声が届かなかった……ということはないだろう。でも、冥は突然のその呼びかけにもまるで驚いた様子を見せることはなかった。
そもそも、冥がラグナの接近に気づいていないはずもなかった。気配の察知とでも言おうか。冥はそういうことには非常に敏感だったから。
「めい。どうしたんですか、こんな所で。心配しました」
「そう、か。すまぬ……な」
ただそれだけ。酷くか細いその声はまるで風に乗るようにして、消えた。
しかしそれでもラグナは、言葉を紡ぎ会話が消えてしまわないよう何とか繋ごうとする。
「めいはよくココに来るね。好きなんですか?」
少々わざとらしい質問ゆえに「答えてくれないかな?」などとも少しは思ったが、意外にもそれはすぐに返ってきた。
「あぁ。ココから見る風景は……我の故郷によく似ていて、の」
「めいの……故郷?」
ラグナもその視線につられてその風景に目をやる。
水色よりもほんの僅かに灰色がかった空とまるで火事でもあったかのような鮮烈な赤で彩る木々たちの森。そして、藍よりも青い海原。
どれもこれもが圧倒的に感じてしまう広大な自然。空と海と……大地と。そんな中にぽつりと存在するのが、自分たちの住むカルディアだった。
ここから見ると、それは本当に小さく、ちっぽけに見える。自然の中の人の存在がどれほどちっぽけなものか……そんな風に思えてしまうほどに。
それで、冥はこの風景を見て「故郷に似ている」と言った。つまり、冥の故郷もここと同じように自然に溢れた素晴らしい場所だったのだな……と、ラグナは少しだけ感慨深げにその風景を見続けた。
しかし、今こうして思い返してみると、ラグナは冥のことをほとんど何も知らないことに気づく。結婚した今でも……である。
それは冥が自分のことを多く語ろうとしないから。まるで何かを隠しているかのように。
だからこそ、今だからこそ、ラグナは聞きたいと思った。単なる好奇心からではない。冥の夫として、冥を支えられる者として。
「もしよかったら、めいの故郷の話……もう少し聞かせてくれませんか?」
「…………」
しかし、冥はそれには答えてはくれなかった。
やはり、言いたくはないことなのかもしれない。
ラグナ自身、それを聞けないことは少し残念ではあるし、もし万が一それがとても辛いものであるならば、ラグナもそれを共有してあげたいとも思った。
けれど、当然無理強いはできないし、するつもりもなかった。
「すみません。今のは……」
「いや、そうだな。ラグナ殿には……話しておかねばなるまいな」
だからこそラグナは前言を撤回しようとするのだが、その言葉はあえなく冥の『肯定』の言葉によって上書きされてしまっていた。
「えっ? 僕がこう言うのもなんですが、本当に……いいんですか?」
「フフッ。本当におかしなことを言うのだな。お主が聞きたいと言ったのだろう? だが、とてもつまらない話だ。単なる我の愚痴だと思って聞き流してもらっても構わんから」
「いえ。ちゃんと……聞かせてください」
「ふむ、そうか。少しだけ長い話になるが、付き合ってくれ」
「……はい」
それは今から……何年前になるだろうか。もうだいぶ前、だいぶ昔、とだけ言っておくことにしよう。
場所はこのカルディアから東の海を隔ててずっとずっと、そのまたずっと東に行った小さな島国。冥はそこで生まれ育った。
ギガント山から眺める光景と同じように、その地は空と海と、小さな島国ながらも広大な大地に囲まれた自然の満ち溢れた所だった。
そんな中には村もあれば町もあり、そして国もあった。つまりは人もとても多かったということである。
「我はその島国を治めるいくつかの国の一つ、『火の国』の主の長女として生まれたのじゃ」
「国の主の……長女? それってつまり、お姫様ってことですか?」
「確かにそういうことにはなるがの、だが我が姫など……似合うまい?」
「そんなことは全然。むしろ、すごく納得と言うか……」
「ま、まあ、それはよい。しかし、本当に我は姫などではなかったのじゃ」
「どうし……て?」
「それはな、ラグナ殿。我が姫などと認識する前、そして民が我を姫と認識する前に我が国は滅びてしまったからぞ」
「なっ……!?」
国があれば人がいる。人があればそれだけの心が存在する。
たとえ国が一つであったとしても、そこに暮らす人々はそれぞれ別の考えを持っている。時には協調しあうこともあるが、時には対立してしまうこともある。他人を傷つけてしまうこともある。
それは悲しくも、当然の摂理……と言ってもいいかもしれないことだった。
仮にそういう対立が個人、あるいは村レベルであったとしたら、抑えることはできないことではなかった。
だが、それが町、国……と規模が大きくなっていったら?
最終的には抑えることができたとしても、多大な被害がでてしまう可能性は非常に大きいと言えよう。
「そんな対立が……争いが、我が国をも巻き込んで行われてしまったのじゃ」
「…………」
「とは言っても、正直な話、我々には対立しようなどという意志は全くなかった。そう考えれば、アレは『対立』と言うよりもむしろ『侵略』と言った方が正しいのかもしれん」
「原因、とかは?」
「うむ。隣国の突然の侵略。それは考えるまでもなく……『力』だった。大いなる『力』」
「力? それは、一体……?」
「それはのぅ……」
冥の国が『火の国』と呼ばれるのにはとある由縁があった。
火の国――そこは大いなる火の力の宿った神聖なる土地だったという。地脈、霊脈とでも言おうか……火の国にはその東方国全土を支える源の存在する土地だったのである。
火の国の民はその源たるモノを『火の神』と崇めてきた。
「そして我々はその火の神のことを『ぐりもあ』と呼んだのじゃ」
「何……だって? グリモアって……まさか!?」
「そう。お主ならよく存じているであろう。あの『グリモア』じゃ。だが、我々は知らなかった。グリモアというモノの存在を。
先ほども言ったように、グリモアは火の神。そして、この地を司る力の源……そういう概念的なモノだと思っていたのじゃ」
「なるほど……いや、待ってください。そういうモノだという認識があったのであれば、その隣国は何故『火の神』を求めようなどとして侵略したのですか? そんな概念的なモノなのであれば、手に入れられようはずも……」
「そうじゃの。だから、我々も彼奴らの狙いは『火の神』と言うよりも『火の国』。つまり、この土地を略奪しようということだったかとも思った。だが……」
「だが……?」
「今のお主であれば分かるであろう。『グリモア』とはそういう概念的な力ではないということを。彼奴らは文字通り『グリモア』を……『火の神』の存在を求めて攻め入ってきたのじゃ」
「――――」
冥のその言葉を聞いて、ラグナは顔を歪めた。
そのときのことはラグナの脳裏に今も酷く鮮明に焼きついている。
今から幾月か前のこと。ラグナはこのカルディアの地で『グリモア』の力を求めて攻め入ってきたモノと戦った。
それが、ゼークス帝国。『機械』という強大な力を操り、全世界に支配の手を伸ばしている大帝国である。
そしてその戦いの中でラグナは知ったのである。『グリモア』という存在が本当は『何』であるかを。
「でも、グリモアの力を手に入れる……そもそも『呼び出す』にしても、どうやって? 今回ゼークスが持ち出してきたようなあの機械なんて。それも今からかなり前なら尚更ゼークス以外には……」
その問いかけに、冥は苦笑した。
「ゼークス、じゃ」
「えっ!?」
「隣国を裏から焚きつけたのはゼークスだったのじゃ」
「そんな、馬鹿な……」
唖然とするラグナに対し、冥は冷ややかな……冷ややか過ぎる口調で続ける。
「ゼークス以外にはあり得ない。お主もそう思うのじゃろう? その通りじゃった。
あのときは我もまだ幼かった。それ故に、ただ逃げることしかできなかった。ととさまもかかさまも見捨てて……」
「めい……」
言葉は冷たいのに、冥の拳はきつく、そして熱く握り締められていた。
「逃げたのじゃ、我は。ととさまもかかさまも、国の民も全て見捨てて……ただ一人、自分が助かるために逃げたのじゃ。皆が傷つき戦っているというのに、我は、我は……」
言葉が、身体が震え出す。見ているだけでも本当に痛々しく思えてしまうほどに。
だからか、ラグナは特に意識することもなく、自然と身体が動き出し、冥のその震える身体を背中から抱きしめていた。
「逃げることの、何がいけないんですか? 戦うことを、傷つくことを、血を流すことを怖がってしまうことの、何がいけないんですか?」
「だって、我は、我は火の国の……姫なのじゃから」
「姫だから逃げるなと、姫だから戦えと、誰かがそう言ったんですか? 冥のお父さんが、お母さんが、そして国の民が皆そう言ったんですか?」
言葉が徐々に荒くなっていくのをラグナは認識していた。でも、抱きしめるその腕は優しく、ただひたすらに優しく……。
「皆……我のことを、逃がそうとして……くれた。ととさまも、かかさまも、民も皆、我に逃げろと。そして……生きろと。生き……ろ……と……っ」
ポタリ――冥の胸の前に回した腕に数滴の雫がこぼれ落ちる。
「…………」
それは紛れもなく、涙だった。冥が人前で流す、初めての涙だった。
「めい……」
「う、うぅ。こちらを見るでないぞ、ラグナ殿。今は駄目じゃ。絶対に……駄目……じゃからな」
「……はい」
そして暫くの間、ラグナはそこから一歩も動くこともなく、冥のその涙がおさまるまでずっと、その身体を抱きしめ続けていた。
「落ち着きましたか?」
「…………」
冥の瞳にはもう涙は残っていなかったけれど、それが流れた跡は頬にはっきりと残っていた。
が、それには冥も気づいていないだろう。いや、気づいていないからこそ、そんな顔をしててもラグナとようやく向き合えることができたのだろう。
もし今ここに鏡があったならば、ラグナは冥にこの絶壁から突き落とされていても不思議ではなかったかもしれない。
しかし、そんなことには全く触れることもなく、ラグナはそんな言葉をかけていた。
「む、むぅ……」
冥はなにやら随分とご機嫌斜めのようだった。顔のことはともかく、人前で涙したことを彼女なりに恥じているのかもしれない……ラグナはそんな風に思っていた。
だが、そんな予想はまるで外れていたことを、直後彼女の口から聞かされていた。
「だ、だから、そういうことは我が言うものだと昨日も言ったはずであろう?」
「……はい?」
「だ、だからじゃの。そういう……じゃの」
「……」
恥ずかしそうに戸惑う冥の様子を見て、ラグナは冥が言ったことをようやく理解し、昨日のことも思い出した。
確かに昨日の夜、ベッドの中で冥にまるっきり同じ言葉をかけていたことに。
「そうでした。こういうのは『たまに』でしたね」
「そ、そうじゃ。たまに…………いや、すまぬ」
「え?」
「本当はすごく……助かった。ラグナ殿にはいつも甘えてばかりじゃな、我は」
「あ……」
少し冗談交じりに返答したのだが、思いのほか、冥はひどく真剣に、そしてひどく素直に応え返してきた。
それがラグナには『冥に頼りにしてもらった』と思えて、なんだかすごく嬉しい感情でいっぱいになった。
「僕でよければ、いっぱい甘えてください」
「……馬鹿者」
「えっ?」
「お主でいいのではなく、お主でなくては駄目なのじゃ。だから……その……、すまぬが、もう少しだけ話を聞いてはくれまいか?」
「でも、辛いなら無理に今じゃなくてもいいですから。話せるときに話してもらえれば、僕はそれで……」
「いや。今、お願いしたいのじゃ。正直、単なる我の自己満足でしかないということは重々承知しているのだが」
自己満足? 確かに客観的に見れば、言いたいことを吐き出してしまう。愚痴をこぼす……それは自己満足でしかないのかもしれない。
だがラグナからすれば、先程も感じたようにそれは『信頼』、そして『共有』と思える。
だからこそ、ラグナはしっかりと首を縦に振っていた。
「聞かせてください」
「すまぬな」
そしてまた、冥はぽつりぽつりと先程の続きを語り始めた。
隣国から攻め入ってきた兵たちは、所々に巨大な鉄の塊を設置して回ったらしい。
冥が後々調べたことによると、それは今回ゼークスが洞窟の中に持ち込んできた物体よりも一回り大きく、もっとゴチャゴチャしていたと言う。それに何よりも、その『機械』にはゼークスの紋章が描かれていたらしい。
「なるほど。でもゼークスの関与はその機械だけなんですか? 兵たちを加勢させたりとかは?」
「いや、攻め入ってくる者たちは皆、隣国の者だけだったそうじゃ。あくまでゼークスはその機械を与えただけ……ということじゃろう」
「何故、そんなことを?」
「恐らくは……『実験』だったのじゃ」
「実験? 一体、何の?」
「それをお主が言うのか? 当然、今回の事件のための実験……」
「つまり、それって……」
「そうじゃ。『グリモア』を召還できるかどうか、そのための実験じゃ」
ラグナはその今回の事件を思い返した。
ラグナのことを記憶喪失にし、洞窟に機械を設置して、ラグナのアースマイトとしての力を高めさせ、その地のルーンパワーを向上させることによって、グリモア召還させてしまったという、今回の事件である。
「で、でも、グリモアの召還にはアースマイトが、ルーンの力が必要なはず。そんな戦争の最中にそんなこと……」
「確かに。我も最初は疑問に思った。我が国のときとだいぶ方法が違っていたことに。
だが、それも当然じゃったのだ。何故なら、呼び出すグリモア自体が今回のとはまるで異なっていたのだからの」
「異なる……グリモア? 一体それはどういう?」
「分からぬか? 我の国は『火の国』。崇めていたの『火の神』。つまり、我が国で召還された『グリモア』は……」
「まさか……?」
ラグナはカルディアの図書館で読んだ書物のことを思い出した。四種のグリモア……もとい、四種の『ネイティブドラゴン』の存在が記されたあの書物を。
「そう。我が国が崇めていた『火の神』はまさしく『火の神』。
火幻竜、フレクザィード」
神竜ネイティブドラゴンは四匹いる、とされている。
地幻竜プロテグリード。水幻竜アクナビード。火幻竜フレクザィード。風幻竜セルザウィード。
伝説の存在とされてはいるものの、その姿を見たと言う人も少なくはないらしい。実際に書物にはそれらの姿が描かれていたりもするのである。
ラグナもその絵を見ていたからこそ、今回の事件で現れたグリモアが……と言うか、グリモアという存在が伝説のネイティブドラゴンであることに気づいたのだ。
今回この地で召還されたグリモアはネイティブドラゴンの一つ、地幻竜プロテグリード。その幼竜だった。
「フレクザィードがどうして召還されたか。調べたとは言え、当時のゼークスの者でなければ詳細を掴むことはできん。
だが、我は思うのじゃ。火の力は言うなれば『破壊』の象徴。それから鑑みるに、あの戦争が……あの絶対なる『破壊』をもたらした戦争が召還の礎になってしまったのではないか、とな」
「…………」
冥の言うことはあながち間違ってもいなかった。
地の力が『生命』の象徴。育まれた生命――その結晶たるルーンが今回の事件の礎になったことと比較すれば。
「まぁ、その真偽は分からぬ。だが、我が国に火幻竜フレクザィードは確かに召還されてしまったのだ。
それからの惨劇は恐ろしいものじゃった。我が走っても走っても、目の前に広がるの火と血の骸の広がる大地。同じように赤く染まった空には人々を震撼させる恐ろしく巨大な黒い影。
彼奴が吐き出す炎はただただ『破壊』を生んだ。そしてその地に残されたものは『絶望』以外何物もなかった。
恐らく無事に逃げられた者もいない。ととさまが命を賭して守ろうとした民も皆、全てが滅びた」
ラグナは明らかに言葉を失っていた。
今回召還されてしまったグリモアはまだ幼竜だった故に、事前に何とか抑えきることもできた。
だが、冥の国で召還されてしまったのは正真正銘のネイティブドラゴン。まさに神。人が神に抗う術などどこにもなかったのだ。
「で、でも、めいはこうして生きてるじゃないですか? だったら、他の人もきっと……」
そんな微かな希望、どちらかと言えば、冥のことを思っての詭弁なのかもしれないが、それでもラグナはそう口にせざるをえなかった。
だが、冥は首を横に振った。少しも考えることもなく。
「お主は多分信じられないだろうが、我もまた……死んだのじゃ」
「なっ!? そんな馬鹿なこと……」
あるわけがない。死者が生きているなど。死者が蘇るなど。
「そう思うのも仕方がない。我とて何故今こうして生きながらえているのか……正直自分でもよく分かっておらん。でもこうして生きている。ラグナ殿の肌の温もりをこうして感じ取ることもできる」
「分かってます。僕だってこうやってめいの肌の温もりを感じられる。だからそれは生きているっていうこと。死んでないってことじゃないですか!」
声を大きく荒げるラグナに対し、冥はひどく落ち着き払っていた。そして今度は冥がラグナのことを落ち着かせるように優しく言葉をかける。
「そうじゃな。我は死ななかったのかもしれぬ。もしかしたら、かかさまの願いが我を救ってくれたのかもしれぬな」
「めいの……おかあさんの、願い?」
「そうじゃ。かかさまは火の国の巫女。火の神に唯一通ずることのできる存在。それ故に、かかさまの願いが火の神に通じたのかもしれぬ」
それは半ば本心であり、半ばラグナのことを納得させる嘘だった。勿論、冥の母が巫女であり、火の神と通じることのできる者であることは本当である。
だが、その願いを果たして火の神が受け入れてくれたかどうかは……不明である。
「そ、そうですよ! きっとそうに違いありませんよ! めいのお母さんが、そしてお父さんも皆、めいに生きてほしかったのでしょう?
だから、きっとそうです。国の皆の願いだったからこそ、火の神は受け入れてくれたんですよ」
「……そう、じゃな」
ラグナは慰めでもなんでもなく、心の底からそう思っていた。彼自身もそう願っていた。そしてその思いを冥も感じ取っていた。だからこそ、冥もそう応えた。
ラグナ殿がそう思ってくれるのであれば、我もそう思うことに、そう信じることにしよう……冥はそう心に誓った。
たとえ事実がどうであれ。こんな身でありながら、ラグナより、またカルディアの住人の誰よりも長い年月生きてきたという事実があったとしても。
「火の力。『破壊』……そして『再生』の象徴、か」
隣のラグナにすら聞こえないような小さな声でそう呟くと、冥は再び目の前の風景を見やり、懐かしき故郷に想いを馳せた。