──もう月がだいぶ高い。
ラグナは家で調理台に向かっていた。
この頃は、毎日、一通りの仕事が済んだ後に料理の練習をしている。
料理は楽しい。
食べてもらいたい人がいると、やっぱり心の込もり具合が違う。
一つ一つの作業を、彼女に告げる言葉のように、心を込めて、丹念に。
彼女に、おいしい、と言ってもらえたら、こんなに嬉しいことは無い。
だから毎日料理の練習をしている。
こうしていると、時間の感覚がちょっと無くなってくる。
それでときたま窓の外を、
──月を見る。

今夜は満月だ。いつにもまして、白くて、ちょっと冷たい感じがする。
星から離れて、物静かで、頑な感じ。

ガタン、と窓が鳴った。
その音で我に帰った。
いつもと感じが違うものだから、だいぶ長いこと眺めてしまっていたのか。
月は一層高く昇っている。
もう一度窓が鳴った。
「ラグナさーん」
ミストが窓の外からこちらを覗いていた。
さっきから呼んでいたらしい。気付かなかった。
あ、変なとこ見られた。
ラグナが気付いたのを確認すると、にっこりと、いつもの笑顔を送ってくれた。
窓の外のミストは、光を浴びて、白く、眩しかった。
ラグナが頷き返すと、ミストは窓から離れ、ドアを開けた。
「こんばんは、ラグナさん」
「ええ、こんばんは」
「……ああ、ここはあったかいですね」
「外は、まだ寒いですか?」
「ええ、ちょっと」
そう言ってミストは、ラグナに笑いかける。
「もう少しで片付きますから、待っててくださいね」

ラグナは、ここに来てから何度もミストの世話になっている。
随分気に掛けてもらったし、町のことも教わった。
「寂しくしてませんか?」なんて言って遊びに来てくれたりもする。


本当にお世話になりっぱなしで申し訳ない。
これからは、何とか恩返しもしたいと思っている。
ミストも、自分の料理で、喜んでくれるだろうか。
……そういえば、今日は彼女が大人しいような。
いつもは「何作ってるんですか?」なんて言って肩の辺りまで近付いて来るのに、今日はどうしたのだろう。
元気が無いのだろうか。
振り返ると彼女は、ベッドに腰掛けて、月を見ている。
冬はとっくに終わったが、空気は未だ済んでいて、薄まらずに、本当の光に近い光が降りている。
急いで片付けを済ませる。


「ミストさん?どうしたんですか?」
ラグナはミストに歩み寄る。
ミストはラグナを見つめている。
「ラグナさん……」
「はい?」
「こっちにきてください」
やっぱり、どこかおかしい……。
言われるまま、ラグナはミストの隣に腰掛ける。
ミストは腰を上げ、ラグナの方に向き直る。
その顔は、見たこともない程真剣だった。
そう、今までこんな顔は見たことが無かった。
彼女はいつだって笑っていたから。いつもの優しい笑顔で。
それが今日は、一体何があったのか。
彼女の真意を測りかねながら、こうして自分は彼女と見つめ合っている。
アクアマリンを清流で磨いたような、その、深い、青い瞳を、これほどじっくりと見たことは無かった。
笑顔に隠され、見えなかったんだ。
「ラグナさん……、あたし、もうここには来ません」
「え?」
え……それって……
「どうして……?」
彼女はなかなか話そうとしてくれない。やがてゆっくりと、
「ラグナさんは……、迷惑じゃ、ないですか?」
迷惑?そんなことないのに。「そんなことありませんよ。ミストさんと話すのも本当に楽しいですし……」
ラグナの言葉を遮るように、ミストが、今度はしっかりした口調で言った。
「好きな人がいるんですよね?」
あ……。
そのことを、知って、気にしていたのか。
自分は、どのくらい困った顔をしていただろうか。
ミストの声が、どんどん小さくなっていく。どんどん俯いていく。
「あたしは……、やっぱり、できない……です……ね。好な人が……いる、なんて……知ったら」
少しずつ、分かってきた。
「楽しく、ないです……」
そして、ミストは、絞り出すように、
「苦しい……」


まさか。あのミストが、苦しいなんて。自分のせいで、こんなに辛そうにしているなんて。苦しいなんて。
うなだれた彼女をみながら、ラグナは、どうすればいいのか分からず、口を開きかけ、慰めようとしたが、一体どんな言葉をかけてあげればいいのか、分からなかった。
その時、ミストが顔を上げた。
再び真剣なまなざしで見つめられ、ラグナは何もできなかった。
「だから……お願いが……あるんです」
ミストは、両手をゆっくりと伸ばし、ラグナの首に腕を回す。
その手は、ラグナの首の後ろで、そっと結ばれる。
顔が近付く。
深い、青い瞳の奥は、光が届いていないかのように、暗い。
「ね……きっと……最後の……」
唇が触れる。
そして、ミストは、抱き締める力を強め、ラグナを引き倒した。








──今何時だろう……。
少し寒くなってきた。布団は……足下だ。
ミストを起こさないようにベッドから降り、電気を消す。
月は、窓から逃げていた。
布団を引き上げ、再び横になる。
二人で寝るには、ベッドも、布団も、ちょっと狭い。
布団は、ミストにあげる。
そっと掛けてやる。
「ありがとうございます」
「起きてたんですか?」
「優しいですね」
二人は、背中合せでくっついている。
「そんな……」
「ラグナさんはすごく優しいですよ」
ミストが笑っているのが背中から分かる。
「そんなことありませんよ、僕は。だから、こんなに、ミストさんを……」
「それは仕方ないです。それでも、あたしを気にかけてくれるラグナさんは、やっぱり優しいんです」
そう言いながらミストは、もぞもぞと体を動かしている。
そうして、ラグナの方を向いた。
額を、ラグナの背中にあて、目をつむった。
「あたしは、幸せです。……こう、……こうして、ラグナさんと、こういう風に……っ」
そこで、言葉に詰まった。
それから、かすれるような、囁くような声で、
「眠く、なってきました。もう寝ましょう」
「……ええ、分かりました。おやすみなさい、ミストさん」
そうして、ラグナは眠りについた。
「……っ、う……」
ミストは泣いていた。
声が出ないように、必死に我慢しながら。
すっかり、話を終わらせられたことに安心したら、どんどん涙が出てきた。
零れる声も、涙も、必死に両手で押さえた。
ラグナに気付かれないように。
あの人は優しいから、知ったらきっとまた悩むだろう。


両手はぐしょぐしょに濡れたけど、それでも押さえ続けた。
「ラグナさん、今夜はいい夢を見て……。そしてこれから、きっと幸せになって……。
あたしには、今まであなたからもらった幸せがあるから……」
芽吹きを、二人で、感じたり。
暑いねって、本当にって、笑ったり。
紅葉の進むのを、毎日眺めたり。
痛いくらい寒いのに、延々、寄り添って、流れ星を待ったり……。







──窓から入ってきた朝日が眩しくて、目が覚めた。
まだ陽は現れたばかりだ。
……布団が掛かっている。
ミストはいなくなっていた。
一体どこに……。
不安になって探しに出た。
ミルクのように濃い霧が牧場に溜まっていた。
陽の光は、それを貫いてオレンジの線を何本も伸ばしていた。
始めは光にたじろいだが、天国のような牧場を、霧を掻き分けながら、ラグナはミストの家に走った。
ミストは、家の前で柵に腰掛けて、ぼーっと、深い霧の向こうに視線を送っていた。
「ミストさん!」
ラグナの声に気付いたミストは、あの、いつもの笑顔で応えた。
霧に囲まれた彼女の笑顔は、美しく輝いていた。
「ミストさん!」
霧の中の彼女に、もう一度呼び掛ける。
「見てー!すごい!綺麗!」
そう言って、彼女は、笑顔で、両手を広げた。
その拍子に、バランスを崩して柵から落っこちそうになったのを、ラグナが抱き止めた。
「もう……、探しましたよ」
「ラグナさん、よく眠れました?」
「はい、お陰様で。」
「あ、なんかエッチですね」ミストが茶化す。
ラグナは赤くなる。ミストは笑っている。
「心配したんですよ」
「散歩してただけです。あたしもぐっすり眠れましたよ」
「僕はてっきり、どこかにいなくなってしまったかと……」
「いなくなるわけないじゃないですか。あたし、大家ですから。それに、ここ以外に行きたい所なんてありません」
「……そうでしたね。ですからミストさんの家でもあるんです。いつでも遊びに来ていいんですよ」
ミストは困ったような顔をしたが、
「いえ、いいんです。決めたん、ですから……もう……」
ラグナは、その声に、いつもと違う震えが混じった気がした。
そのとき、だれかのお腹が鳴った。
ミストが俯く。


「あ、お腹空いたんですか?僕、何か作りますよ!じゃあ、サンドイッチにしましょう!それで、ここで食べるんです。それならいいでしょう?」
ミストは黙って頷く。
「じゃあ、すぐにつくりますね!」
そう言って、ラグナは嬉しそうに走って行った。
俯いたミストの頬から、朝露のように透き通るしずくが一粒零れた。
「え……また?もう……っ」そう呟いて、ミストは両手で顔を覆った。
昨晩あれだけ泣いたのに……。
あの人が優し過ぎるから……。
涙はいくらでも出てきた。
あんまり泣いたからか、喉が渇いてきた。
一度家に入って、お茶を飲もう。
そして、いつものあたしに戻ったら、あの人を待とう。
そして、サンドイッチだけいただこう。そのくらいは、いいよね。
そう思って、ミストは家へと歩いた。
昇り始めた太陽から、泣き顔を隠すように俯きながら。


おわり

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