まだ朝だというのに、コオロギがあちらこちらで鳴いている。
上空は青空だが、遠くに灰色の雲が迫っている。
雲はすごい勢いで飛ばされていく。
朱のカーテンは開かれており、窓から弱々しい陽が差している。
ビアンカは、布団を頭まで被り、うずくまる様な格好で横になっていた。
タバサが開けていったのだろう、窓からコオロギの鳴き声が入ってくる。
好き放題にわめくコオロギの声に包まれ、耐えかねたビアンカが辛そうに起き上がった。
下ろされた長い髪を乱暴に背にまとめる。
窓に立つと、辺りの草むらを蔑む様に睨みつけ、窓を閉め、カーテンを引いた。
──こんな朝早くから、そうしてバカみたいに雌を呼ぶのね。恥ずかしいと思わないの?
体が重い。
ベッドに腰掛け、頭を抱える。
誰かがドアをノックした。
「お嬢様」
タバサだ。
ビアンカは口を開けるのもだるかったが、タバサに部屋に入って来て欲しくなかったので、ドア越しに話して済ますことにした。
「何?」
「ああ、起きていましたか。おはようございます」
「何?」
具合が良くないせいで、語調が乱暴になってしまう。
タバサは何も悪くない。
「朝食にしませんか?」
「いらないわ」
言ってから、こんなひどい言い方ってない、と思った。
タバサがせっかく作ってくれたのに。
「ごめんね、いらない。二人で食べて」
「でもお嬢様、嫌でも朝食は食べなければ持ちませんよ」
それきり返事も返さなかった。
タバサが帰っていく足音が聞こえる。
大きなため息をつき、ベッドに倒れ込む。
生理がきていた。
考えはまとまらないし、だるい。
ああしてタバサに邪険にしてしまったのに、大して悪いと思えていなかった。
けれど、それより何より思うのは、自分の体が恨めしい。
658 名前:ビアンカ 2/5 メェル:sage 投稿日:2006/10/29(日) 23:41:19 ID:/n0ZOGjR
きちんと生理がくる。
生物として当たり前のことだ。
子供を産める様に。
──バカな虫と何も変わらないわ。私はそんなことしたくて生きてるんじゃないのに。この体は。
ベッドに沈み込んでいくような体を、それでも律し、ゆっくりと起き上がった。
簡単な身支度を済ませて、本を読むことにした。
本棚から手近な小説を数冊取り、椅子に掛けた。
──あんたたちとは違うのよ。私には、できることも、しなきゃいけないことも、いくらでもあるの。
読むのはサスペンスだったり、紀行文だったり。
トルテの様に下らない恋愛物を読みふけったりはしない。
けれど全く頭に入らず、ほとんど文面を睨み付けるだけになり、そうやって午前中を消費してしまった。
本を読む格好をしてはいるが、思考はそこら中に行ったり来たりし、イライラや、由来の分からないフラストレーションだけがたまっていった。
たまらず本を閉じ、背もたれに寄り掛かり、首を曲げて天井を見上げた。
「もう嫌だ。どうして私がこんなものに悩まされなきゃならないのよ」
口を尖らせて、天井に文句を言った。
そう言ったところで、部屋のドアがノックされた。
ビアンカは慌てて姿勢を正した。
さすがに声は聞かれてないだろうが、返事せず、黙って耳をそばだてた。
「お嬢様?」
それでも応対せず、次の言葉を待つ。
「ラグナ様が見えてますよ」
その言葉にはちょっと反応した。
僅かに身じろぎする。
髪も微かに揺れた。
ドアの方に向き直り、タバサの声に集中する。
ラグナは、最近度々家に訪れ、ビアンカに自分の作った料理を振る舞っていた。
料理ならもちろんタバサが毎日作ってくれる。
それでも彼はパンだったり、お菓子だったり、色々な物をもってきてくれる。
味はタバサのにはだいぶ負けるけど。
自分に何を求めているのか訝ったが、男の話し友達というのは新鮮で、忙しいタバサに代わってお茶の相手をしてくれるのもありがたかった。
しかし、今日は間が悪かった。
さっきと同じ様に、無視を通した。
「お昼を一緒に頂きたいそうですよ」
「お腹空いてるでしょう?」
「頂いてらしたらいいのに……」
なかなかねばる。
それだって親切で言ってくれるのは分かっている。
ここまで懇意にしてくれる話し相手は彼の他にいないのも分かっている。
そんな彼を、あまり遠ざけないように気を遣ってもいるのだろう。
でも、反射的に言ってしまった。
「いい」
しばらく黙った後、残念そうなため息が聞こえた。
「分かりました。私から謝っておきますから、お嬢様は心配なさらないで下さいね」
タバサの階段を降りてていく足音が聞こえた。
また迷惑を掛けてしまった。
ラグナにも、タバサにも。
自分の具合が悪いのは仕方無い。
気分が不安定なのも分かっている。
だからといって、いつもタバサには迷惑を掛けてしまっていた。
それでも気に掛けてくれる優しいタバサを、本当は、大切にしたかった。
ラグナだってそうだ。
やっぱり気分は重かったけれど、すぐにでも謝りたかった。
それは、体が重くて辛い気持ちより強かった。
意を決して、クローゼットを開く。
短めの、薄手の外套を羽織り、ボタンを留めた。
「よし!」
ドアを開けて飛び出した。
タバサは、玄関で吹き込んだ落ち葉を集めていた。
「タバサ!」
二階の手すりから身を乗り出して、叫んだ。
屋敷の中だというのに、そんなにしなくてもいい、というくらいの大声で叫んだ。
タバサは驚いてビアンカの方を見上げた。
「ごめん!」
それを聞いて、タバサの表情がほころんだ。
ビアンカは階段を勢い良く駆け降り、玄関の扉に、ぶつかる様にして手を掛けた。
「謝ってくる!」
振り向いてそう言ったビアンカを、タバサは笑顔で見送った。
「ええ。風が強くなってきていますから、雨が降る前に帰ってらして下さいね」
通りに走り出ると、風によろめいた。
風が微かに音を立てていた。
それでも走って、ラグナの家へ向かった。
ビアンカ自身、私がこんなに走るなんて、と驚くほど、手を振り、力一杯走った。
途中、草むらでコオロギが鳴いていた。
その声は、力なく風に切れ切れになりながら、ビアンカの耳にも届いた。
足下の草さえも風にバタバタとたなびいていた。
「あんたも大変ね」
走りながら、そう呟いた。
ラグナは、一人家で料理をしていた。
ビアンカにはフられてしまったが、風が強くなってきていたので、結果的にはこのほうがよかっただろう、と思っていた。
だから、ふと見た窓にビアンカが現れた時には心底驚いた。
取り落とした包丁が床に突き刺さった。
ラグナは急いでドアに走り、ビアンカを招き入れた。
「ビアンカさん!大丈夫ですか?」
ビアンカは、風に押されるように家に飛び込み、ラグナの肩に掴み掛かった。
「ラグナ、ごめんなさい」
ビアンカは、ラグナを見上げて言った。風で髪は乱れ、本当に疲れた顔をしていただろう。
でも、そこまで弱っていたから、タバサに言うのと同じように本心を言葉にできたのかもしれない。
「お昼のことですか?いいですよ、そんな」
「ううん、ごめんなさい」
ラグナは、ほとんどラグナにしがみつくようになっていたビアンカの手を取って、もう一度言った。
「僕は、本当に気にしてませんよ」
ビアンカは、ラグナの顔を見上げた。
「うん……ごめんなさい」
そして、俯いてラグナの胸にもたれかかった。
それでラグナは、ビアンカの頭に手を添えようとしたが、ビアンカが突然、「あっ!」と言って顔を上げたので、慌てて手を引っ込めた。
「帰らないと……」
そう言うとビアンカはラグナから離れ、ドアに手を掛けた。
「え、もう帰っちゃうんですか?」
「ごめんなさい、タバサにすぐ帰るように言われたの……それじゃあね、また来るから」
そう言って、ドアを開けると、ものすごい強風が家の中に入ってきた。
そして、一緒に、大量の雨がどっと入ってきた。
二人は驚いて、慌てて二人掛かりでドアを閉めた。
外は雨が降り、風は勢いを増し、まるで季節外れの台風のようだった。
──遣らずの雨?
二人は顔を見合わせた。
──どうしよう……
と、ビアンカは思った。