雨は静かにその勢いを増し、地面を覆うようにしぶきが立つ。
雨音は街を包み、街の住民達はそれぞれに雨音を聞きながら、あるいは窓から雨の様子を窺いながら、静かに物思いにふけっていた。
ラグナの家に閉じ込められたビアンカもまた、椅子を勝手に窓際まで運び、窓にもたれるようにして、窓の外、雨に煙る街の門の向うをじっと眺めていた。
外套も脱がないで、雨足の弱まるのを待っている。
しかし、その気配はない。
「はあー、タル……」
調理台に向かうラグナに聞こえないよう、小声で愚痴った。
ラグナは、何を作るのか、野菜を並べたり、オーブンを温めたり、いそいそと作業している。
作業しながら、床に空いた穴を足で探ってみたり、合間合間にこちらを気にしたりしている。
「そこ、寒くないですか?」「ええ」
ラグナはひたすら気を遣っているが、ビアンカの方は、ついさっきラグナに抱き付いたのが嘘のように、全く意に介さないといった風だった。
ビアンカは、とにかく帰ることを考えていた。
さっきまでの感情の波は過ぎ去って、平静を取り戻していた。
そして、自分があそこまで行動的になっていたのに、今になって驚いていた。
それは確かにラグナには申し訳ないことをしたとは思っていた。
けれど、だからといって、後を追いかけてそのまま彼の家に飛び込むだなんて。
いや、結果的にそういう事になってしまったのだけれど。
しかし、これでは、よほど一途か、でなければヒステリックな女のよう……。
違う。断じて。
そんなものではないし、大体ラグナとはそんな関係ではない。
……いや、違う。男だとか、女だとか、付き合うとかが。
ほとんど勢いのまま、そこに陥ろうとしていたのか。
そんなことを考えながら、腕をさすりながら、ビアンカは不安な面持ちで窓にもたれていた。
思えば、心の内の、色々な所が揺いでいた。
ずっと忘れていただるさも再び僅かに現れていたし、なのにここが他人の家だというのもビアンカを不安にさせていた。
──雨、止むかしら……。タバサきっと心配してるわ……
「ビアンカさん」
「えっ?」
「ご飯にしましょう」
振り向くと、ビアンカの後ろにラグナが立っていた。
気付けば、料理が出来上がっていて、家の中はシチューの香りで満ちていた。
「え?私は別に……」
「たっぷり作りましたから、食べて下さい」
雨は相変わらず激しい。
ビアンカは食欲は無かったが、体が栄養を欲しがっているのは感じていた。
「……じゃあ、分かった」
「そうだ、イス」
「あ、いい」
ラグナが椅子を運ぼうとしたが、ビアンカが自分で椅子を抱え、引きずらないよう難儀しながらよたよたと運んだ。
テーブルにはシチューが二皿。
ビアンカはコートを椅子に掛け、座ったが、ラグナはまたキッチンに向かった。
オーブンが開けられ、湯気が立った。
ビアンカは、手を膝に置いたまま、大人しく待っている。
シチューは、ふわふわと湯気と香りを放っている。
──冷めちゃう……
オーブンから出てきたのは、グラタン。
皿に載って、一つずつテーブルに運ばれた。
「どうですか?見た目は結構いいと思うんですけど……」
二つ目を運びながらラグナが言った。
自慢げに、皿をそっと置いた。
それで小さなテーブルはほとんど埋まってしまった。
「見た目って、シチューとグラタンじゃない」
まあ、シチューは丁寧に注がれているようだけれど。
困りながらも、ビアンカは料理を眺めた。
しかしまあ、この、シチューとグラタンの香りの、暖かいこと。
「んー……、シチューとグラタンなのに、何だか見た目慎ましいわね」
「あれ、そうですか?何でだろ……」
「白いのよ、両方」
「あ」
確かに、テーブルの上はだいぶ大人しい感じではあった。
そうは言っても、ビアンカはあまり気にしていなかった。
シチューもグラタンも結構好きだったし、二つを一緒に食べたことなんて無かった。
何というか、嬉しい気分になっていた事は認める。
多分、それで、気が緩んだのだろう。
勢いがついてしまって、ちょっと失礼な感じに、口数が増えてしまった。
「どうせちょっと手の込んだもの作ろうとか、そういえば小麦粉沢山買っちゃったんだとか、そんな事でしょ」
「あはは……」
残念そうに笑うラグナを見て、そこでビアンカははっとした。
言い過ぎた、と思った。
言わなくていい事まで言ってしまった。
……まるで、タバサにじゃれるみたいに?
いや、そんな事はないだろう。
とにかく、ビアンカは、場を繕うことにした。
「い、いいわよ、食べましょ」
「あ、そうですね」
いただきますを言って、食べ始めた。
ラグナがシチューを一口食べたのを見て、ビアンカもシチューを食べ始めた。
体が、喉の辺りからじんわりと温まる。
そして、グラタンを一口。
それを見て、こっそりとビアンカの様子を窺っていたラグナは、恐る恐る声を掛けた。
「どうですか」
「一口じゃわからないわ」
「あ、すいません」
そうして、もう一口、丁寧に口に運んだ。
顔をしかめるようなことはないが、ビアンカの食べるのを、ラグナは不安そうに見ている。
「うーん……」
「ど、どうですか?」
「そうね、やっぱりどちらも、タバサのには遠く及ばないわ」
「ああ……、そうですか……」
「当たり前でしょ。タバサのより美味しかったら困るわ。そこで落ち込まないの」
「は、はい……」
「でもね」
「え?」
「何ていうかね、タバサの料理とおんなじような……、うーん、暖かみ?みたいなものがあった、かな」
「本当ですか!?」
「うん」
そう言って、無意識に笑顔を向けた。
「あ……、いや、ありがとうございます」
「何よ、本当にそう思ってるわよ、私」
さっきから照れくさそうにしていたラグナが、視線を下に逸らした。
それで、ビアンカは、自分が、信じられない事だが、ラグナにどんなに熱っぽい視線を送っていたかに気付いた。
──え?私……え?
そんなばかな。
だって、そんな。
どうして?
こんな事になるはずではなかった。
ビアンカは明らかに動揺していた。
男性に対して、自分が、そういう、いわゆる、女の子らしい態度を取った事に。
動揺して、顔が赤くなる。
ラグナが思い切ったように立ち上がる。
ビアンカに近付く。
ビアンカは驚いてそれを見つめた。
ラグナはビアンカの前、テーブルに身を乗り出すようにして、顔を近付ける。
「え、あの、ラグナ、や……」
そして、ラグナは、ビアンカの口を塞ぐようにやわらかくくちづけた。
ビアンカは硬直し、近付くラグナを遮ろうとして中途半端に持ち上げられた手も、空中で止まった。
目は開いたまま、自分の顔がさらに真っ赤に染まっていくのが感じられた。
「う……、く、ちょっと!」
ビアンカは強引にラグナを引き離した。
立ち上がり、後ずさった。
口元を押さえる。
「な……っ、なにしてんのよ!」
思い切り叫んだ。
雨音はその声さえも飲み込んでいった。
僅かな沈黙が訪れた。
雨音は耳に流れ込むように入ってきた。
顔が熱い。
いたたまれなくなって、両手で顔を覆う。
そのまましゃがみ込む。
「……すいません」
「あやまらないでよ!」
即座に怒鳴り返す。
心臓が、雨音に負けず大きく響いていた。
そこから動けなかった。
顔も上げられなかった。
「ビアンカさん……」
──だめ……呼ばないで……
膝の間に顔を埋める。
ラグナはビアンカに歩み寄り、支えながら立たせた。
ビアンカはラグナにもたれながら、顔を覆ったまま立ち上がった。
「ビアンカさん……?僕は、本当に、ビアンカさんのこと……」
「嫌!私、そんなの!」
手を振りほどき、ラグナを辛そうに睨み付けた。
顔は真っ赤になっている。
──恥ずかしいんじゃない。照れてるんじゃない。そうだ、ショックだったんだ。
「私は、付き合うとか!好きだとか!そんなのいらない!」
自分の体が、人並みにそういう事に反応した事に。
「そういう事のためにあんたと仲良くしたんじゃない!」
そこで、ラグナは、俯きながら、微笑みながら、口を開いた。
「僕は……、ビアンカさんとそういう風に仲良くなりたかったから……いつも会いに行ってたんです」
くらくらする。
「……」
「いつも淋しげだったビアンカさんを、ちょっとでも喜ばせられたらいいな、と思って……」
「うん……」
「いつか幸せにしてあげたくて、幸せになって欲しくて……」
「うん……」
──ああ、わかった。
彼は、ラグナは、タバサに似ているんだ。
本当は、初めて彼の焼いたクッキーを食べた時からわかっていた。
私のために突然焼いてきてくれた……。
下手くそで、味も見た目も全然だったけど。
暖かさみたいな、こもった思いみたいなものを感じた。
彼に触れて、やっぱりそうだ、と思った。
私の反発するのをものともしない。
それごと、両手で抱き上げて、あたためてくれるような優しさ。
それに触れると、私は、どうしようもなくなるんだ。
ただの気の迷いだったかも知れない。
ビアンカは、俯いたまま、ラグナの腰に手を回し、体重をかけるようにして抱き付いた。
ラグナもそれに応え、同じような格好をした。
ベッドに運ばれ、寝かせられた。
ラグナは、上から覆いかぶさるようにして手をついた。
ここに来て怖くなったのか、ビアンカはラグナを睨み付けていた。
「僕のこと、嫌いですか?」
尚も睨み付けている。
が、両手でラグナを強く抱き寄せた。
それで、ラグナは、ビアンカに、さっきよりも深いキスをした。
今度はビアンカも目をつむった。
涎が糸を引いた。
吐き気がした。
──ラグナはいいけど、これはやっぱり好きになれないわ……
うっすらとそう思い、ビアンカは、天井を見ながら目を閉じた。
おわり