『初恋』ミスト
いつからだろう。
自分のベッドに腰掛け、窓の外、夜空に浮かぶ月を眺めながらミストは一人考える。
この胸を刺す淡い痛みはいつからだろう。
この胸にある切ない想いはいつからだろう。
いくら考えても答えは出なかった。
今まで味わったことのない初めての感情なのだから。
ミストは小さく溜め息をつくと、小川の向こう、木々の間に見える家に視線を移した。
もう夜は遅い。その家の窓は黒に塗り潰され、中の様子はわからない。
この感情はそこに住む青年のせいなのだろうか。
……。どうだろう。
青年とはただの隣人だし、毎日顔を合わせ、会話を交すが特に何をしたということもない。
他には…、毎日カブをもらったり、カブをもらったり、カブをもらったり。
……。カブは確かに嬉しいが、それとこれとに関係はあるのだろうか…。
……。わからない。
考えても考えても、答えはでない。これは何なのだろう。
再び小さく溜め息をついたミストはベッドに体を横たえた。
こんなことをいつまでも考えていてもしようがない。
もう夜も遅い。このまま目を閉じれば、夜の静けさがこんな感情など意識と共に奪い去ってくれるだろう。
こんな感情など…。
いつからだろう。
ミストは一人、闇の中にいた。
遠く遠く、遥か遠くまで続く果てしない闇。
不思議と恐怖はない。ただ、安らぎもない。自分はいつも…一人だったから。
一人立ち尽くす闇の中、ふと声が聞こえた。
小さな女の子の声。
聞き覚えのある女の子の声。
彼女は言った。
「お母さん。どうしてお母さんとお父さんはけっこんしたの?」
幼い声はそんな質問を誰かに投げ掛けた。
「あら、ずいぶんおませな質問ね。うぅん…そうねぇ…」
その問いに答えた声は優しく、暖かい女性の声だった。女性は少し考えた後、言う。
「恋をしたからよ」
「恋?恋ってなぁに?」
「恋っていうのは、他の人を好きになるってことよ」
すうっと目の前の闇が晴れ、小さな光の中に少女達の姿が見えた。
ベッドに横になった女性の隣に少女はいる。
それは、自分。まだ幼い頃の自分自身の姿だった。
なら、その隣にいるのは…。だがその女性の表情は、もやがかかったように見て取ることはできなかった。
「ミスト、お母さんのこと大好きだよ。これも恋?」
幼いミストは再び問う。その問いに女性は小さく首を振った。
「ううん、それとは違うわ。家族じゃない誰かを好きになるってことよ」
「誰か…?」
「そう。恋をすると胸が痛くて、その人が恋しくて…とても切なくなるの。でもそれはとても素敵なことなのよ」
優しい優しい声。その声に包まれた幼いミストは目をこする。
聞いているだけで心の底から安心できる、そんな声だったから。
「素敵なこと…。ミストもできる?」
「もちろんよ。ミストみたいに素敵な娘はお母さんよりもとっても素敵な恋をするわ」
「本当?」
「えぇ、本当よ。さぁ、もう遅いわ。もう寝なさい」
「…うん。おやすみなさいお母さん…」
素直に小さく頷いた幼いミストは母の温もりを感じながら、そっと目を閉じた。
すうっと闇が視界を遮り、世界はまた闇に包まれた。
「お母さん…か」
ぽつり、そう呟くと、闇の中に再び光が射した。
それはすぐに人だ、と解る形になりミストの前に降り立った。
「…ミスト」
また声が聞こえた。それは先程の女性の優しい声だ。
「…あ…」
思わず驚きに身を固くすると、その光に包まれた手がそっと頬に触れる。
暖かい。その手は、とても…とても暖かかった。
「ミスト…。ごめんなさい…ごめんなさいね…」
その静かな言葉にミストは首を振った。
謝らなくてもいい。
私は一人でも大丈夫。
あなたが悪いのではない。
…でも…寂しいよ…。
言いたいことは沢山あった。でもそれはどれ一つとして言葉になることはなかった。
ただ、ただ、涙がこぼれ落ちる。
光は抱き締めるようにミストを包み、闇を明るく照らしていく。
その暖かい光に包まれながらミストは目を閉じた。
「お母さん…私は…私は…」
重いまぶたを開けると、窓の外は明るい光に満ちていた。
世界を包んでいた闇はもうどこにもない。
あの優しい声も、暖かい温もりも…。
だが、不思議と悲しみも寂しさも感じられなかった。
いつも側にいてくれる。そんな気がしたから。
日射しが満ちる春の朝。
ミストはいつもより少し早く家を出た。
暖かい風はあの光のようにミストを迎えてくれた。
その中にたたずむ青年とミストは向かい合う。
「おはようございます。ラグナさん」
そしてミストは恋をする。
生まれて初めての恋をする。
「私たちの分まで、幸せになりなさい」
春の風に混じって、そんな声が聞こえたような気がした。
─終─