ダニー&チェルシー
ある冬の日の昼下がり、桟橋に腰掛けて吊りを楽しむ少女がひとり。
彼女は手にした釣り竿を軽く揺らし、足を前後に揺らしながら楽しげに鼻歌を口ずさむ。
「…ふふ、今日は大物が釣れそうね」
適度な波と薄くさす陽は釣り向きのもので、満足げに少女が笑ったそのとき、微かな振動が竿に伝わった。
早速当たりが、と一瞬頬を緩ませた彼女の顔がみるみるうちに強張っていく──…引きが強すぎる。
釣り竿は離せなかった。
かと言って大物と引き合うだけの力もなく、何より体勢が悪かった。
1分あったかもわからない格闘の結果、少女は海へと落ちていった。
大量に流れ込んでくる海水に噎せ返り、肺にあった空気は殆ど吐き出してしまった。
なんとか水面へ向かおうとしても、体は思うように動いてくれない。
不意に、明るかった水面が暗くなった。酸素が足りないのだ、と思うと同時にありとあらゆる感覚が遠のいていく。
やがて、少女は意識を失った。
──────────
「お、今日もやっとるな」
悲鳴のように軋むドアを開きながら、漁師の青年は口角を持ち上げて呟く。遠くからでもすぐにわかる赤いバンダナは、この島の牧場主のものに違いなかった。
彼女は最近釣りにご執心の様子で、牧場の仕事を片付けたあとは島の各所で釣りを楽しんでいるらしい。
中でもよく海岸を選ぶものだから、時々釣果はどうだなんて他愛もない話をしていた。
そして今日もいつものように釣れていなければからかって、釣れていれば少し大袈裟に褒めてみようか。
様子がおかしいと気付いた時にはもう、彼女の体は海に向かって大きく傾いでいた。
「なっ…チェルシー!?」
のんびりと歩んでいた足は一度止まり、すぐに弾かれたように走り出す。
桟橋に立って海を見下ろすと、ゆらり、赤いバンダナが漂っている。
青年はどんどん小さくなっていくそれを見るなり、力いっぱい桟橋を蹴っていた。
「…………」
浜辺の小屋の中から必死な声が響く。囲炉裏の脇に寝かされた少女はぴくりとも動かず何の反応も示さなくて、青年は困り果てたように眉尻を下げて荒っぽく頭を掻く。
水はさほど飲んでいなかった、全部吐かせたし喉に何か詰まっている様子もない。呼吸も脈も少し弱いけれど問題ない。
意識を取り戻す妨げになっているものがあるとすれば、冷たい海水をたっぷり吸った衣服しかない。
脱がせて乾いたタオルで体を拭いて、暖かい毛布でくるんでやればいい、簡単なことなのだけれど、青年は盛大な溜息と共に頭を抱えた。
「……いくら非常事態や言うてもな…いや、悩んどる時間も惜しいやろ、…けどなあ……」
彼の目の前で昏々と眠り続ける少女は島の中でも屈指の愛らしさを誇る容姿で、そして青年は至極健康な男子であって。
要は男の自分が意識のない女の子の服を脱がせることに多大なる躊躇があったのだ。
「ああもう、何で誰も気づかへんねん!…いや、言うてもしゃあないよな…」
ぽつりとぼやいて扉を見やる。扉はただ波音をささやかに遮っているだけで、誰かが来たと告げてくれる気は皆無らしい。
海から上がった時に街に向かって思い切り助けを求めて声を張り上げたというのに反応は全く無かったし、普段なら一人二人は浜辺にいる島民も今日に限って誰もいない。
街まで人を呼びに行こうにも、例え数分のことであろうと意識のない少女一人残していくのは気がかりだった。
そうしてざっと数十秒低い唸り声と一緒に悩んだ末、
「…非常事態なんや、別にやましいことあらへん。」
やっと覚悟を決めた青年はそう言い聞かせるように呟いて、じっとりと厭に濡れた服に手をかけた。