若奥様は元軍人


『奥様の名前はリネット。そして、旦那様の名前はラグナ。
ごく普通(ちょっとだけ変わった特技がいくつかあるけど)のふたりは、
ごく普通(それはちょっとは刺激的だったかもしれないけど)の恋をし、
ごく普通の結婚をしました。でも、ただひとつ違っていたのは、
奥様は………元軍人だったのです!』


「全然普通じゃないと思うんですが」
「いいじゃないか、私にとっては普通なんだから」
 書き上げる途中の原稿を手に率直な感想を漏らしたラグナに、リネットは
むすっとした声を上げた。その拍子に、鼻の上にのった伊達めがねが軽く揺れる。
 くるりと椅子を回転させて振り返り、じろりと睨みつけてくる。
 ラグナは苦笑いをこぼして原稿を戻した。
 それでも、リネットの顔はすぐれない。ラグナはあは、と愛想笑いをこぼして、
「ま、まあ出だしとしては悪くないんじゃないですか?」
「そ、そうか?な、ならいいんだ」
 途端に、ぱっと顔を明るくして作業に戻るリネット。
 どことなく花歌を歌いだしそうな勢いでペンを走らせるリネットの背を
見つめながら、ラグナはふと事の経緯を思い返していた。

 発端は、流れの商人が街に持ち込んだ一つの本。
 現在、首都で大絶賛を受けているというその一大ベストセラーに、
街のみんながはまってしまったのがそもそもの始まりだった。
 物語の中身は、とある高貴な生まれのお姫様と、旅の騎士の恋物語。
詳しい内容はラグナは読んでいないのでしらないがとにかくそれが
面白くてしょうがないらしく、今も街にいってみればその話題で持ちきり。
 そんな中、ふとリネットが言い出したのだ。
 「私とラグナ殿の出会いのほうがよっぽど運命的だ!」と。
 それからの彼女の行動は早い早い。あっという間に道具を集めると、
ラグナの家にいつの間にか作業所をこしらえると、そそくさと執筆作業に
入ってしまったのだ。それによって鍛冶場を占拠されてしまったラグナは、
仕方なく農作業をしながらも、妻のお手伝いや世話をしていた。
 そう、”妻”のリネットを、である。
 ちなみに二人は新婚ほやほや。結婚して一ヶ月だった。

「リネットさん、もうそろそろご飯にしませんか?」
「ん……あと、少し」
 振り返らず、カリカリとペンの走る音を立てるリネット。
ラグナは苦笑すると、今晩の夕食であるシチューを
手近な棚におき、書き散らされているリネットの原稿に手を伸ばした。
 流石に元々は帝国軍のそれなりの地位についていただけの事はあり、
リネットの文字はとても丁寧だ。少々文体が硬い気がするが、
その一方でどことなく柔らかい表現も見える。それがどことなく、
彼女らしいなあ、とラグナは心の底から思った。
「さ、リネットさん。あまり根をつめると体に毒ですよ」
「ま、まってくれ。あと少し……」
「ほら、そんな事いってないで、ご飯にしましょう」
「ちょ……あ」
 そうして、強引にリネットを振り返らせたラグナが見たのは。
 その宝石みたいな瞳一杯に、涙を称えているリネットの顔だった。


「え……」
 はっとして、彼女のかいていた原稿に目を向ける。それはところどころが
涙で滲んでいて、とても読めるものではなかった。
 それでも、読める文字はある。
 ……ごめんなさい。
 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
「ごめんなさい、ラグナ殿……」
「り、リネットさん?!ど、どうしたんですか」
 胸にしがみつくようにして涙をこぼすリネットの姿に、うろたえるラグナ。それでも、しっかりと、優しく彼女をかき抱いてやる。
「リネットさん、どうしたんですか?……何か、辛い事を思い出したんですか」
「だ、だって、私、私は……ラグナ殿に、酷い事を……」
「その話なら、気にしないって……」
「それでも!私が、私がラグナ殿に非道を働いた事実は、消えない……」
 リネットは呻くと、とさり、と床に膝をついた。
「……文にすれば、形にすれば、この幸せな夢みたいな、現実感のない
幸せにも、しっかりとした実感が持てると思った。けど、そうした所で結局、私がわかったのは、過去の醜い事実だけ……それを、改めて思い知らされた、ただそれだけだ……」
 そこではじめて、リネットはラグナの目を見た。涙で潤んだ、色違いの
左右の目が宝石のようにラグナには見えた。
「……やっぱり、ダメだ。ラグナ殿、私は貴方のつ……んっ!?」
 リネットの言葉が、甘くふさがれる。
 ややあって、唇を離したラグナはリネットが何か言うよりも早く、強く
彼女を胸に抱きしめた。
「……そんな事、きにしないでって、きにしないって、約束したでしょう?」
「でも……」
「いいんです。……もう一度いいますよ?」

「居たいんです。僕が、リネットさんとずっと一緒に………居たいんです」

「ラグナ、殿……」
「それじゃ、ダメですか……?」
「……ううん。十分すぎる、ほどです……」
 リネットは瞳を潤ませると、自分からラグナの胸元に身を預けた。
ラグナも、優しく彼女の体を抱き返す。
「ごめんなさい。僕、やっぱり欲張りみたいです」
「いや……そんな事は……ううん。やっぱり、欲張りですよね、
ラグナ殿は……」
「あはは」
「だから……」
「うん?……んっ」
 今度は、ラグナの言葉が甘くふさがれる。
 驚いて思わず顔を離したラグナに、リネットはうっとりとした笑みを
浮かべた。
「だったら、全部、私の全部をラグナ殿のものにしてください……もう、
こんな風に悩まなくてもいいぐらい、全部」
「……わかりました、リネットさん」
 そして二人は、お互いにくすぐったそうに微笑んだ後、もう一度唇を
合わせたのだった。


 やがて、六十の太陽が昇ったある日、二人の下に小さな宝物が巡ってくる。
 それは何より強く、硬く、二人の絆を結びつけるもの。
 大切な宝物を二人で支えて、彼と彼女はいつまでも幸せに暮らしました。
 この、カルディアの大地の上で。

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