■ 寄る辺なき悪魔-2-
「泣かないのか?」
主人の問いに、ずれ落ちたマフラーから真一文字に結ばれた口を見せていた妖精は静かに首をかしげる。
開きかけた口をいったん閉じてマフラーを引き上げて口もとを覆ってから、セタンタは淡々とした口調で逆に訊ねた。
「なぜ泣くと思うのですか、なぜ私が泣くことが当然のようにマスターは訊ねるのですか?」
答えを求める真剣な目に見つめられ、人修羅は少々戸惑いの表情を見せつつ、問いの根拠を告げる。
「浅草のマネカタと友人のように接していたから、彼らに対する仲間意識が芽生えていたんじゃないかと思ったからだよ」
主人を責めるように凝視していた少年の目に敵意のような感情が浮かび、すぐに揺らいで消える。
仲魔が見せた反感の態度に人修羅は気付いたが、咎めることなく見逃した。
人修羅と仲魔たちが立つ通路の両脇は池があるが、それを満たす水は透明ではなく赤い色をしている。
その赤の水面にぷかぷかと白いものが浮かんだり沈んだりしていて、水はその物体から流れ出す赤によって染まっていた。
不自然に捻じ曲げられた首を天に向け、白い物体の正体であるマネカタたちの顔は気味が悪くなるほどぼんやりとしている。
何かを訴えようとしている顔つきのマネカタも数体散らばっているが、その無言の叫びを受け入れる人物たちはすでに去ってしまった。
ミフナシロの惨劇の主役とも言える千晶とフトミミは、片方は新たな目的を見つけ、片方は人修羅に倒され、その姿を消した。
狂った嵐が過ぎ去り、静けさを取り戻した水辺でセタンタと人修羅は話し合っていた。
「ゴズテンノウがニヒロの計略にかかったとき、貴方は大声をあげて泣き叫んだそうですね」
妖精の言葉は事実だった。否定せずに人修羅はうなずく。
主人の返事を見届けてから、一呼吸おいてセタンタは乱れてもいない前髪を指で弄りながら言葉の先を繋げる。
「そんなことをするのは子供だけです、私は大人ですので、涙を流したり声を上げて泣くことはしません」
「じゃ、どんなふうに?」
自分の行いを子供じみているともしかしたら年下かもしれない悪魔に指摘され、人修羅は眉を寄せてムッとする。
それこそが子供の見せる反応だと小馬鹿にしたような目つきでセタンタは肩をすくめ、再び首をかしげてみせた。
「そのくらいご自分の頭で考えてください」
不満そうな主人の頭を人差し指で軽く叩き、セタンタは清々したというふうに意地悪く笑った。
バアル・アバターとの戦いを終え、人修羅はイケブクロの地に仲魔を連れて戻ってきた。
彼が引き連れている悪魔たちの顔を見て名前が分からなくても、威圧感のみでイケブクロの悪魔たちは顔色を変えて逃げ出す。
ギンザの大地下道を抜けて初めてイケブクロの地を踏んだ頼りない悪魔がここまで大物に化けたのかと、本営へ向かう一行の後姿を見送るオニが息をのむ。
カグツチの塔での出来事がまだ伝わってきていないのか、急に塔から戻ってきた人修羅に向けられる天使達の顔からは不安と期待が読み取れる。
声をかけたくてうずうずしている天使達の脇を足早に通り過ぎ、注目を集める悪魔は真っ直ぐに上階を目指す。
結局人修羅はエレベーターに乗っている最中も、降りてその身に強い風を受けても、ひと言も口をきこうとはしない。
疲れによるものなのか、横顔に翳の宿る主人のあとを、仲魔たちの揃わない足音のみが追う。
階段を上りきり、ゴズテンノウの部屋の前に到着した悪魔は仲魔たちへ命令を下すために、初めて口を開く。
「すまないが少しの間だけ1人にさせて欲しい」
主人の頼みに反対の意を唱える仲魔は1体もなく、ひとり部屋の中に入っていく主人の後姿を全員が機械のような目で見送った。
扉が閉まると、すぐに人修羅は緊張の糸が切れたのか、胸に溜め込んでいた息を一気に吐き出した。
目の前にはナイトメアシステム発動時にマガツヒを抜かれ、更に千晶に残っていた力の全てを託したことによりすっかり瓦礫と成り果てたかつてのイケブクロの支配者の姿があった。
ゴズテンノウという精神を留めていたものの欠片を身を屈めて拾い上げ、ふっと息を吹きかけて埃を払う。
「ただいま」
疲れきっていた顔が、その呟きと共に少年らしい柔らかな表情を取り戻す。
主を失いがらんとした室内は寂しげで、その部屋で返事をすることのない誰かに話しかける人修羅は更に孤独だった。
「もうすぐヨスガの世界が創世されるでしょう、強く優れたもののみが生きることを許された、強者たちの楽園が」
ゴズテンノウの夢を自分が叶えることができるかもしれないという気持ちのせいか、声は弾んでいる。
幾つもの死と引き換えに人修羅は何者にも脅かされることのない強さを手にしてきた。
かつてこの部屋で"力の価値を証明してみせる"と叫んだ悪魔は、自分とゴズテンノウの目的の達成に王手をかけようとしている。
巨像の欠片を両手で包み、その手を胸に当てて、興奮する心を落ち着けようと人修羅は静かに目を閉じた。
「僕はそこへ行きます。そこが僕にとっての居場所になると信じているから」
悪魔の言葉が途切れると、わずかな反響を残してすぐに静寂が訪れる。
その静けさの中で、初めて部屋を訪れたときの熱気と威圧感を懐かしく想ったのか、人修羅の口が笑いの形を作った。
「辛いとき、大人は泣き喚かないのだとある妖精が言っていました」
目を瞑ったまま、人修羅はゆっくりとした歩調で歩き出す。
爪先に当たった瓦礫が渇いた音を立てて転がり、靴に踏み潰された脆い欠片は粉々に砕けた。
「それならどうすれば良いのかと訊ねると、妖精は自分で考えろと僕に言い、考えた末にそれなら逆に笑えばいいんだと気付きました」
穏やかな口調で語りながら、悪魔は像が設置されていた台座のすぐそばまでたどり着き、足を止めた。
それまで閉じていた目を開いた少年は、笑顔を浮かべたまま上空を見上げる。
「僕は新たな拠り所を得るために最後の仕事を片付けにカグツチの塔へ行きます……」
言葉は途中で途切れ、少年はわずかに唇と声を震わせた。
「……さようなら、さようならゴズテンノウ、僕の最初で最後になるかもしれない主人」
囁くと、人修羅は両手を伸ばして、もう存在していないゴズテンノウの名残を抱きしめるように空気を自分の胸へ引き寄せる。
開いた手の平から欠片が転がり落ち、別れを告げた少年はその瞬間自分が初めてゴズテンノウの呪縛から解き放たれたことを実感した。