■ むぎゅ

ここ最近のボルテクス界は落ち着いていた。
悪魔同士の小さな衝突は何度も起こっていたが、マネカタたちが歌舞伎町捕虜囚から解放されて生まれ故郷の浅草へ住居を移してからというもの、
各勢力とも目立った動きはなく、嵐の前のような不気味な静けさを保っている。
だからという分けでも無いが、浅草を拠点としてオベリスクとの行き来を繰り返す人修羅の仲魔たちもどことなく緊張感に欠け、
休憩をとっても決して眠ることのない悪魔が鼾を立てて寝てしまうという現象が起こってしまう。
復興工事に勤しむマネカタたちは大張り切りだが、それに反比例するかのように仲魔たちの活気は確実に浅草の平和な雰囲気に吸い取られていた。
いま、鳥居の傍で鼾を立てている仲魔に近付いたヤクシニーは、身を屈めて悪魔の顔を覗き込むと、
「しまりのない顔ねぇ」
と嫌悪感丸出しの声でなじり、くびれた腰に手をあてて呆れたと言いたげに首を振った。
"ねぇねぇ"と肩を乱暴に揺すられ、上半身を丸く縮めた体勢で睡眠を貪っていた悪魔の尻尾がパタパタと地面を叩く。
邪魔をするなという意思表示らしき行動にも見えたが、起こそうと試みるヤクシニーは完全に無視しているようだ。
なかなか起きる様子を見せない悪魔を見つめ、紫色の皮膚に似合う色気たっぷりの唇に、これまた艶かしい舌を這わせる。
「切り刻んであげたいわねぇ?」
耳にした誰もが冗談とは思えず青ざめそうな調子で囁き、片手に一纏めにして持っていた2本の剣を寝ている悪魔の耳に押し当てた。
剣先が毛の生えた皮膚の表面を移動し、切られた毛が風で舞い散る。
この危機的状況にぴくりと悪魔の耳が反応し、豹と人が合体したような姿を持つ悪魔は、ようやく目を覚ました。
「またあいつか?」
腕を伸ばして体のこりを解しながら、オセはぶっきらぼうにヤクシニーに訊く。
剣を引いた鬼女は、切り刻まれる前に目覚めた悪魔の横顔に名残惜しそうな視線を送り、頷いた。
これから自分がやらされることの内容をすでに知っているのか、オセは嫌そうに顔を顰めて目の下を擦る。
「コソコソ隠れてなにをやっているか知らないけど、まさか変なことしてないでしょうね?」
自分以上の嫌悪に満ちた感情に表情を歪ませるヤクシニーを、オセのやる気のなさそうな目がぼんやりと見上げた。

不機嫌そうな足取りでやって来たオセに対し、申し訳なさそうに組んだ手をもじもじさせながら、
「あ、毎度ごめ……」
と人修羅は消え入りそうな声で謝ろうとする。
その様子を白けた目で観察しながら、オセは主人の言葉を途中で遮った。
「さっさと済ませるぞ」
有無を言わせない強い口調に、主人としてあるまじき態度であるにも関わらず、少年は反射的に身を竦ませて素早く頷く。
「お願い、します」
そう言うと人修羅は照れたように頬を少し赤らめ、俯いた。

数分後、オセと一緒にいたはずの人修羅の姿はなく、代わりに妖艶な笑みを浮かべたヤクシニーが佇んでいた。
「スキなんだろ、ヤクシニーのことは?」
2本の剣を胸の前で交差させ、男言葉を使う鬼女は向かい合った位置にいるオセに挑発的な視線を向ける。
そんなヤクシニーの態度を、オセは鼻で笑った。
「まぁ、女悪魔ならな」
両腕を広げるオセのもとへ、剣を地面においたヤクシニーが接近する。
オセは、短時間だけ自分を呼び出した主人を望む者の姿に変えられる能力を使って人修羅をヤクシニーに変えていた。
最初にそれを望んだのは、オセではなく人修羅のほうだった。
お互い利益が得られるから構わないだろうと主人は渋い顔をする堕天使を説得したが、自分にとって利益になってもいったいこの行為のどこに主人の利益があるのか。
女悪魔に変身したいという奇妙な願望が満たされることが利益なのか、オセにとって主人の思惑は謎のままだった。
オセの利益ははっきりしていたが、そのぶんやましさが生じるのか、自分に感じる軽蔑の念をそのまま主人に向けてしまう。
そんな態度をとられても続ける価値のある行為なのか、どんなに冷たい言葉を吐き捨てられても少年がオセとの関係を断つことはない。
お互いの息遣いを感じあえるくらい近付いたヤクシニーの背に、黒い斑点のある黄色い毛に覆われた腕が回される。
元の自分より高い背丈を扱いかねていた人修羅は、オセの首筋に顔を埋めると緊張を解くように息をついた。
「気持ち悪くないか?」
訊ねるオセに、
「落ち着くからこれでいいんだ」
と、凛としたヤクシニーの声で人修羅は応じる。
オセの口からため息がもれて、細い髭を揺らす。
しばらく2体の悪魔は沈黙したまま抱き合っていたが、気が済んだのか人修羅の方から身を捩ってオセの腕から抜け出した。
「あのさ、今回は僕も訊いていいか?」
抱き合っている途中に変身が解けて少年悪魔の姿に戻った人修羅が遠慮がちに声をかける。
「なんだ?」
主人が離れてすぐに背を向けて立ち去ろうとしたオセは、その言葉に足を止めて振り返りもせずに乱暴に応じる。
本当に訊ねてよいものか迷っているのか少年は言い難そうにしていたが、待ちきれなくなったオセが去ろうとすると、慌てて訊ねた。
「変身が解けても僕のこと突き放したりしないよね、あれ、なんでだろうと思って……」
マントに隠されて人修羅には見ることのできない空間の中で、オセの尻尾が動揺したかのように上下に激しく揺れ動く。
「どうだっていいだろっ」
本人は感情を抑えたつもりのようだったが、隠し切れないぶんの動揺が声に表れている。
そんなオセの反応が嬉しいのか、少年の顔を笑みが満たし、小さな笑い声がこぼれる。
「なに笑ってやがる気持ちわりぃ、次から変身が解けたらすぐに遠慮なく突き飛ばしてやる」
オセは怒って舌打ちしたが、言葉のわりに表情に険しさは見られなかった。



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