■ 年賀状

真っ白な年賀状と睨めっこしながら、椅子に腰掛けた少年が握ったボールペンのペン先で木製の机の上を小刻みに突付いている。
固い平面に衝突したペン先はボール部分が押し潰されて使い物にならなくなるだろうが、彼の悩みはペン一本を台無しにするより重いものらしい。
暖房器具の調子が悪いのか部屋の温度は低く、靴下を履いていない両足の指先は摩擦による熱を得ようと忙しなくこすり付けられている。
しばらくボールペンの寿命を縮める打撃音と指先の摩擦音が静かな部屋に響いていたが、その音がピタッと止んだ。
「あーっ、宛先からして不明じゃん!」
握っていたペンを放り投げ、両手で髪を掻き回しながら彼は絶叫する。
壁にあたって跳ね返ったボールペンが額に直撃し、"痛ぇ"と怒りの声を上げた少年は額を押さえながら床に転がったペンを拾い上げた。
「まぁいいか、先に千晶と勇の野郎を仕上げて……と」
表の宛名欄に走らせたペン先からインクは出ず、筆圧によるへこみのみが紙に残る。
首をかしげ、自分の思い通りにならないボールペンを無理やり従わせようと、筆圧の残った部分に強く押し付けながらペン先をこすり付ける。
しかし、どんなに頑張ろうともペンはうんともすんとも言わず、諦めたのか少年は再びプラスチック製の文具を壁に叩き付けた。
背もたれに預けていた背を伸ばし、両腕を回しながら深く息を吸い込む。
跳ね返ったボールペンは、今度は持ち主に被害を与えることなく、雑誌や参考書の散乱した木の床に落ちた。
深呼吸をして苛立った気分を落ち着けた少年は転がるペンを拾おうとはせず、ペンケースから新しいペンを取り出そうと手を伸ばす。
その手がケースに触れる寸前で止まり、
「換気するか」
とひとり言を呟き、少年は椅子から立ち上がり、2階のベランダに続く窓へ向かった。
少年はどこにでもいる高校生だ。
昔も今も、ただ与えられた寿命のほんの短い間を除き、彼は普通の人間としての時間を過ごしてきた。
人としての生を奪われた期間、彼は"人修羅"と呼ばれる"悪魔"だった。
首には黒い角が生え、瞳は金色に変化し、全身に禍々しい刺青のような模様が浮かんでいた。
口から炎を吐き、目から光線を放ち、足を踏み鳴らせば大地に亀裂が走った。
通常時なら同じ人間が寄り添うが、悪魔としての少年に寄り添ったのは妖精や鬼神といった、神話や伝説の中にしか登場しないはずの悪魔たちだった。
東京受胎によって出現したボルテクス界を走り回り、生き残ったことが不思議なくらいの困難に打ち勝って、少年は新たな世界を創り上げた。
先ほどまでボールペンと格闘していた手も、ボルテクス界に居たときは敵悪魔の血に染まる傷だらけの拳だった。
しかし、窓を開けてベランダに出た少年は受験を控えた学生であり、そういった血生臭さとは無縁の存在としか思えない。
冷たい冬の空気は乾燥し、晴れた空にぽつぽつと散りばめられた雲が漂っている。
胸の高さまであるベランダの手すりに頬杖をつき、少年は自分だけに残された非日常の記憶を思い出すために空を見上げた。

雲など一つも無い。丸くなった世界はどの位置で空を見上げようとぼんやりと反対側の東京の風景を映すのみ。
太陽の代わりにカグツチが輝き、絶えずボルテクス界の行方を監視していた。
少年には多くの仲魔がいたが、そのメンバー構成は安定しておらず、性格を掴む前に消えていく者の方が圧倒的に多かった。
大型で特徴的な悪魔なら姿だけ記憶に刻まれているが、人間と似たような姿で派手な格好をしていない悪魔を記憶の底から引っ張り出すのは至難の業だ。
それでも、特徴の無い悪魔であるにも関わらず、人修羅として共に行動した中ではっきりと記憶に残っている悪魔が1体だけいる。
その悪魔の種族は妖精。
大人びた顔と子供の背丈がアンバランスで、最終的な印象を決める言動は両方のイメージを兼ね備えていた。
少年をマスターと慕い、呼ばれれば尻尾を振る小犬のように駆けつける。
「私を手放せば後悔しますよ」という脅しに人修羅が素直に頷くほどの実力を発揮し、更に向上するための努力を怠ることは無い。
勝利にはしゃぐ姿は子供そのものなのに、苦境に陥ったときに状況を判断する横顔には成人した者と変わらない鋭さがある。
妖精の名はセタンタ。少年にとってどの悪魔より身近に感じる存在であり、心を許せる友だった。
氷川の動きを追ってユウラクチョウ坑道を進む途中、少年はセタンタに相談をしたことがあった。
「最近敵に攻撃を見切られることが多いんだ、命中率が低いせいかな?」
主人の疑問に対し、妖精はすぐに首を振った。
「それは違います。攻撃のパターンが物理主体の単調なものになっているので、次の攻撃も物理攻撃だと敵に予測されてしまうのでしょう。相手の弱点を突くことの出来る魔法を探り出すことができれば敵を動揺させることも可能です」
うんうんと頷きながら人修羅は耳を傾ける。
魔法による戦略の重要性を改めて人修羅に気付かせたセタンタは、自信のある声で続ける。
「面倒なことでも、基本は大切ですよマスター。私に武術を教えた方も、基本を軽んじてはいけないと仰っていました」
人修羅は妖精の意見に感心しながら、その通りだと物理攻撃に頼りきっていた自分を反省した。
さすがセタンタだと褒められ、妖精の少年は褒められたことによる恥ずかしさと誇らしさを同時に浮かべた表情を見せる。
「相談してよかった。セタンタ相手だとどんなことでも気楽に相談できるんだ、不思議だよな?」
同意を求められ、嬉しそうにしていたセタンタは不意打ちを食らったように困惑して瞬きを繰り返す。
「きっと君だからだ、親しい友達だから他愛の無いことから重要な秘密までなんでも打ち明けられるんだ」
そうに違いないとひとり納得する人修羅の顔をセタンタは遠慮がちに窺い、その視線に気付いた少年が自分に信頼の眼差しを向けていることに気付き、慌てて顔を伏せる。
マフラーに隠された下唇を噛むことで頼りにされる喜びを噛みしめながら、喜びに真っ白な頬を赤らめてセタンタは小さな声で"はい"と呟き主人の意を肯定した。
少年にとって、妖精はそんな存在だった。
どんなに敵が強くなり仲魔を入れ替える必要が増しても、自分を慕ってくれ、また自分が最も気を許しているセタンタだけは変わらず留めておこうと心に決めていた。
その決断がセタンタの変化の可能性を潰すことに繋がっていることも、人修羅は充分理解し罪の意識を感じていた。
数多くの戦闘を積むうちに妖精の体には別の悪魔へ変異する兆候が現れ、それまでの経験から変異を許せばその悪魔が更に強い悪魔に変化することを少年は知っていた。
セタンタ以外の仲魔たちは妖精の変異を許可するように訴えたが、主人の権限を用いて人修羅はその全てを跳ね除けてきた。
それまでも、それからも、そうすることによってセタンタの可能性を奪っていることを理解しながらも、少年は友の体に変化が訪れることを拒み続けた。
変異の件に関して、当のセタンタだけは何も言おうとはしない。そのことが余計主人の罪悪感を強めた。
主人と妖精の関係に変化が訪れたのは、創世の最終決着の場となるカグツチからオベリスクへ繋がった塔へ急いで向かう途中だった。
凶鳥グルルの群れに囲まれた人修羅は一気に片をつけようと強力な物理攻撃を放った。
3体中2体が苦鳴を上げて地面に墜落したが、残りの1体は耐えて強力なカウンター攻撃を見舞おうと鋭い爪を自分を攻撃した者へ振り下ろす。
とっさに腕で頭部を庇う人修羅。しかし、瀕死の一撃が襲ってくることは無かった。
代わりに聞こえてきたものは少年の甲高い悲鳴。
その声がセタンタのものであると、人修羅はすぐに理解した。
目の前に立ちふさがった白が、ゆっくりと後方に傾いていく。
その体を抱きとめ、胸に刻まれた直線の深い傷を目にした人修羅の表情は強張った。
主人を庇ってグルルのデスカウンターを受けたセタンタは、誰が見ても瀕死の重傷だった。
宝玉も常世の祈りにも反応するだけの体力がなく、1度死んでから蘇生アイテムを用いて生き返らせるしか完全に回復させる方法は無いと人修羅は瞬時に見抜いた。
「無理しやがって馬鹿野郎! ちくしょう、すぐに生き返らせてやるからな!」
パニック状態に陥り怒鳴りながらアイテム袋の中味を地面にばら撒く主人の腕に、妖精の指先が触れる。
無言の呼びかけ気付かず、
「僕が変異させて強くしておけば……」
と後悔して己を責める主人を見たセタンタは、悲し気に目を伏せる。
「マスター、だめです」
妖精の弱い声に、蘇生アイテムを探す手はそのまま、人修羅は怪訝そうな目を地面に横たわるセタンタに向ける。
なんどか咳き込みながら、不安そうな主人の目をじっと見つめたまま妖精は再び声を絞り上げた。
「私を、生き返らせないで下さい」
「馬鹿なこと言うな!」
直後、稲妻のような叱咤がセタンタを直撃する。
「生き返らせたらお前を変異させる、強くする。全部僕のせいなんだ、僕が……僕が……」
蘇生アイテム探しを諦めた手が、ぽつぽつと汗の浮かぶ妖精の額に触れ、前髪を撫で上げる。
「僕が、君の変化を許さず、今の姿のまま縛り付けておこうとしたから、君は死ぬんだ」
力なく直面しようとしている現実を告げ、自分への怒りに震えながら少年は妖精のマフラーを下げて呼吸を楽にさせる。
セタンタは首を横に振った。口元に寂しそうな笑みが浮かぶ。
「それでいいのです。私はどの道これ以上強い敵とは互角に戦えず足手まといになります」
すぐに人修羅は変異すれば大丈夫だと妖精の言葉を遮ったが、セタンタは再び咳き込みながら首を振った。
息遣いは苦しく、痛みは相当酷いにも関わらず、落ち着いた妖精の声には最大限の優しさが込められている。
「訊いて下さいマスター、貴方が私の変化を望まぬように、私もこのまま別の悪魔に変化することなく貴方の記憶に残りたいのです」
どうして良いのか分からないのか、情け無い顔で自分を見下ろす主人へ、
「死んでも全てが終われば私は他のセタンタと同じく故郷へ戻ります。だから生き返らせないで下さい」
嫌だ、と人修羅は拒否した。
大丈夫、とセタンタは主人を安心させようと頷いた。
「全てが終わったら手紙を送って下さい。そうだ、以前ガラクタマネカタの店で見かけたあの葉書がいい」
妖精の声はどんどん小さくなり、ほとんど聞き取れない最後の言葉を少年はセタンタの唇に耳をぴたりとくっ付けて聞き取ろうとする。
セタンタの囁きより、少年の心臓の鼓動音の方がずっと大きかった。
「さようなら、私の友」

聞き覚えのあるメロディーがそこから先の記憶を中断させて意識を現実に引き戻す。
冷たい風が頬をなで、手すりに凭れていた少年はハッと我に返った。
だいぶ長い時間ベランダで過去の思い出に浸っていたのか、体はすっかり冷え、むき出しの足は温覚を失い痺れを訴えている。
「あ……」
目の前の現在とボルテクス界の過去が重なり、少年は軽い眩暈を感じて頭を押さえた。
いつから鳴り続けていたのだろうか、携帯電話の着信音が部屋から聞こえてくる。
覚束ない足取りでベランダから部屋に戻った少年は、窓を閉めずに充電器に繋いだままの携帯電話を取りに向かう。
通話ボタンを押すと、良く知る同級生の声が勢い良く少年を出迎えた。
「なにやってたんだよ、こっちがどれだけ待たされたと……」
携帯を耳から遠ざけ勇の小言を聞き流してから、
「ごめん、悪かったって」
と少年は表面上は申し訳なさそうに謝り、ペロッと舌を出す。
勇はそれだけで機嫌を直したようだった。すぐに用件を伝える。
「お前、先生の住所知ってんだろ? 教えてくれよ」
偉そうな口調に顔を顰めながらも、少年は快く承知した。
「少し待て、いま思い出すから」
そう伝え、冬休み前に担任の住所をメモした紙を探そうと窓側の床に放置されたままの鞄に手を伸ばし、少年はふと顔を上げた。
外は窓ガラスを揺らすほど強い風が唸り、コンビニのビニール袋が空を舞っているのが見える。
電線は千切れそうな勢いで揺れ、開けっ放しの窓から部屋の中に吹き込んだ風が机の上の年賀状を一枚巻き上げて外に運び出す。
その長方形の葉書を、ベランダの手すりに腰かけて足をぶらぶらさせている子供がキャッチした。
防寒対策はばっちりといった少年の服装。
暖かそうなマフラーと手袋、白いブーツと厚手の服、茶色のマントは激しい風で引きちぎれそうなほどはためいている。
すっかり固まってしまい、ただ呆然と自分に釘付けになっている少年の前でキャッチした葉書を裏表ひっくり返しながら眺め、"何故まだなにも書いていないんだ?"と文句を言いたいのか、不満そうに真っ白な頬を膨らませる。
亡霊を、というより突然訪ねてきた酷く懐かしい親友に対する驚きの感情で目を丸くしたまま、少年は必死になって声を出そうと息を吸い込む。
「セタンタっ!」
裏返った叫び声に手すりの上の少年は驚いてバランスを崩しそうになりながら、ほっとしたように肩で大きく息をした。
「お久しぶりです。かつて私のマスターであった方、そして今はもう私のマスターでは無い方」
過去と現在を区別した言い回しに心にちりっと焼き付く痛みを感じ、そう言われた少年は無意識のうちに不貞腐れた顔をした。
表情の変化を見たセタンタは困ったように笑い、小さく首をかしげる。
「セタンタお前……っ、ちゃんと故郷に帰れたんだな? もう傷は大丈夫なんだな?」
知らずうちに少年の目に薄っすらと涙が滲み、うなずく妖精の姿がぼやけていく。
泣くような時ではないのに、早く伝えたいことを伝えなければならないのに、喉元まであふれた想いは一つとして的確な言葉にならず消えていく。
そのどうしようもないもどかしさに、目を袖で強く拭いながら少年はただ魚のように口をパクパクさせるのみ。
いったん空を見上げ、再び視線をかつての主人に戻したセタンタは先ほどまでとは別の種類の笑顔を浮かべていた。
今度の笑みは、たまらなく寂し気だった。
手に入れた年賀状を大事そうに服の中にしまい込み、東京の日常を非日常に変える妖精は危なげなく手すりの上に立ち上がる。
"あっ"と少年が叫ぶ余裕すら無かった。
手すりを蹴って後方に宙返りするように飛び上がったセタンタの体は、重力の法則に従い少年の視界から一瞬にして消え去った。
「嘘だろっ!」
呪縛から解き放たれたように急に軽くなった足を動かしてベランダに走り出た少年は、手すりから身を乗り出して急降下したセタンタが着地したと思われる地点を確認する。
しかしそこに白い鎧を着た妖精の姿はなく、真っ黒いアスファルトの路面が広がっているだけだった。
「うそ……だ、ろ?」
すっかり気の抜けた声で再び呟き、手すりに背中を預けて少年はずるずるとベランダにしゃがみ込む。
手に握り締めたままの携帯からは"おーいまだかよぉ?"という苛立った勇の声が聞こえ、そこが現在の少年が生きるべき世界であることを嫌というほど思い知らせる。
"もしもしぃ?おぃ早くしろよぉ!"という携帯からの声を遠くに聞きながら、少年はのろのろと立ち上がり、部屋に戻って窓を閉めた。
あんなに激しかった風は止んだのか、外は穏やかな風景を取り戻している。
ベランダを名残惜しそうに見つめていた少年は気持ちを入れ替えるように2、3度強く首を振り、勇の頼みに応えるために鞄のふたに手をかけた。



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