■ 01.この空の向こう

人修羅の仲魔たちの誰もが、もうすぐその時が来ると心のどこかで感じていた。
人間に近い形の悪魔も、羽の生えた悪魔も、獣の形をした悪魔も、良心に従って行動する者も、混沌を望む者も、
目標の達成の後に待ち受けている結末を、自分なりに受け止め覚悟を決めようとしていた。
それができない未熟な悪魔はただ1体しかいない。
人修羅と呼ばれる存在であり、仲魔たちの主人であり、新しい世界を創り上げようとカグツチに挑む少年の心は迷っていた。
クー・フーリンをはじめとする彼の仲魔たちはそのことに気付いていて、なかなか最終決戦の場へ昇らない主人を心配していた。
「主は何に対してそんなに恐れを感じているのだ?」
もう最上階に到達してからカグツチが8周したというのに、倒すべきボルテクス界の法則はもう手の届く位置にいるというのに。
稲妻のような光が輝き、大小様々な形のカグツチの塔を形成する赤いブロックが螺旋を描いて舞う空を人修羅はじっと見上げている。
その主人の背中を不安そうに見つめて呟くオオクニヌシの肩にヤタガラスが舞い降りて心細げに鳴く。
「恐れなのか迷いなのか……」
氷川・勇・千晶というコトワリ主を全て乗り越えるまでその行動に躊躇らしき停滞は見られなかったことが、余計その心配の度合いを深めた。
同じく主人の背中を見つめていたクー・フーリンもオオクニヌシ同様に戸惑いを隠せないでいた。
呼吸をするたびに軽く揺れる人修羅のうしろ姿は、悪魔を率いる者の力強さではなく人間の少年の弱さを仲魔たちにイメージさせる。
クー・フーリンは受けた印象を払拭するように視線を赤く発光する床に落として、深く息を吸い込んだ。
「どちらにしても私は……、いや、それは言葉にしない方が良いのだろうな」
クー・フーリンのすぐ隣で胡坐をかいて槍先を磨くことに集中していたセタンタが、手を止めて幻魔の顔を見上げる。
妖精の表情は変わらなかったが、利発さを感じさせる目だけは感情を映し出して暗く沈んでいた。

「面白いものが見えるのですか?」
カグツチがあと少しで9周目を迎えるというところで、主人が動くその時を待って沈黙を守る仲魔の輪からセタンタのみが抜け出した。
主人の隣で同じように空を見上げて訊ねる妖精の表情は純粋な好奇心を感じさせるもので、他意は無さそうに見える。
ずっと上空ばかり見ていた人修羅が、カグツチ9周ぶりに仲魔へ穏やかな顔を向けた。
「この空の向こうには何があるんだろうね?」
自分の問いを無視された上で逆に訊ねられ、セタンタは顔半分をしっかりと覆うマフラーを指で弄くりながらすぐに答える。
「東京は受胎で丸くなったのでしょう、それなら空の向こうには崩壊した東京の街並みが広がっているのではないですか」
しっかりした雰囲気に似合った優等生らしい答えに、人修羅はつまらないと不満をもらし、眉を顰めて俯く。
そういった反応を狙ってわざと味気ない答え方をしたのか、セタンタは主人の正面に回り込んで子供っぽさを残す顔を笑顔で覗き込んだ。
「そう言うからにはマスターには相当面白い物が見えているのでしょうね、この空の向こうに」
「それは……」
興味津々といった問いに対して言い淀み、人修羅は下唇を噛んで困ったように顔を上げる。
正面に戻った視界に、セタンタだけでなく自分が従える全ての仲魔の姿が映り、舌打ちしてから仕方なさそうに口を開く。
「この世界では地上にお前たち悪魔が溢れているけどさ、正常な世界には悪魔なんて一匹もいないから、どこにいるんだって考えたとき……」
オオクニヌシが可笑しくてたまらないと、どうにか笑い声を堪えつつ言葉の先を読む。
「空の上で暮らしているというわけですか、人間らしい考えだ」
人修羅は恥ずかしさを感じてわずかに顔を赤らめた。
その正直な変化がまた微笑ましさと同時に爽やかな感覚を悪魔たちの心に与えるのか、多くの仲魔の表情は子供を見守る親のようだ。
そんな居心地の悪い状況に落ち着き無く額や腹や首筋といった身体のあちこちに触れ、人修羅は早口で言い訳をする。
「人間だった時はだよ、お前たちみんな神話に出てくる架空の存在で、実際にこうして姿を見るまでは存在するなんて欠片も信じてなかったんだ」
反応のひとつひとつが悪魔たちのツボを刺激するのか、獣悪魔が心地よさそうに喉を鳴らす音に人修羅はいよいよ不貞腐れてそっぽを向く。
フォローを入れる悪魔はいなかったが、セタンタが更に追求をした。
「それはマスターが人間だったときの空でしょう、ボルテクス界の空の向こうには何があると思うんですか?」
自分を観察して楽しんでいる仲魔たちから視線を逸らしたままの少年の表情が、その問いに答えようと真剣さを取り戻す。
返事を待つ悪魔たちの目の前で、主人の横顔から少年らしい幼さが失われ、疲れた大人の落ち着きが宿った。
「僕には分からない、だからセタンタに訊いたんだよ多分」
集まった仲魔たちをぐるっと見回し、
「地上にはお前たち仲魔がいるけれど、ここの空の向こうには面白いものなんて、きっと何一つ無いんだ」
と、はっきりと言い切った。
「ならば、お主が空の果てを面白いと感じる世界を創り上げてみせよ! このような場所に留まらずな」
比較的後ろの方から事の成り行きを黙って眺めていたオーディンが、険しい声で和やかな雰囲気を断ち切り、風で身体に絡むマントを払い除ける。
早くカグツチを倒せと求める仲魔の強烈な意志に、人修羅は息を詰まらせた。
「でも僕は……」
お前たちと別れたくないと続けようとした言葉を少年悪魔は途中で飲み込む。
オーディンだけでなく、自分に従ってくれている全ての仲魔の意志が、ボルテクス界の終わりとそれに続く創世を望んでいることを、彼は痛いほど感じた。
覚悟を決めずにぐずぐずしているのは自分だけなのだと。
その事実に気付いて情けなさに顔をくしゃりと歪める主人を珍しくオオクニヌシが励ます。
「新たな世界に我らの姿は無くとも、主が信じる限り我ら仲魔は空の向こう側から貴方の活躍を見て差し上げますよ」
セタンタが、あっと小さく叫んで付け加える。
「マスターも空の向こうで頑張っている私たちを想っていてくださいよ、いつまでも忘れずに!」
人修羅は笑った。今にもあふれ出しそうな涙を必死に堪えて主人は精一杯の笑顔で仲魔たちに応えた。
仲魔たちも笑った。主人の迷いを吹き飛ばそうと、込み上げてくる寂しさを必死に堪えて精一杯の笑顔で主人に応えた。
そして人修羅はひとつの決意を固めた。
カグツチを、倒すと。
仲魔を始めとする、この世界で失った人やマネカタやその他全ての創世を夢見て力を尽くしてきた者たちに新しい世界を見せると。

カグツチの塔最上階に人修羅たちがたどり着いてから、カグツチが10周めを刻む。
円型の昇降台の上に立った人修羅に、決戦に臨む前の戦士の顔でクー・フーリンが最終命令を求める。
「悪魔である貴方の仲間である我らに、マスター、ご命令を」
人の心を持ちながら悪魔として生まれ変わった人修羅と呼ばれる存在は、力強く頷き先程までカグツチの声が響いていた空を睨む。
「創世を!」
人修羅の叫び声と共に、仲魔たちの雄叫びが響き渡り、ヤタガラスが空高く舞い上がる。
このとき初めて人修羅も仲魔たちも、お互いの心と目的が完全に一致したと実感した。



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