■ 02 たとえばの話
「たとえばの話、クー・フーリンがいなくなって私がクー・フーリンになったらどう思いますか?」
それまで道具の整理に追われて何を聞かれても生返事だったオオクニヌシの手の動きが初めて止まった。
なにが目的でそんな質問をしたのか探ろうとする視線を、セタンタは真面目な顔で受け止める。
質問の答えはすぐに返ってきた。
「どうも思わない」
そっけない答えに妖精の表情がわずかに翳る。
テカテカ光る滑らかな銀座の床を爪先で蹴り、マフラーを緩めて空気を吸い込み数秒間考え込んでから、
「じゃあ、どう接してくれますか?」
と、セタンタは再度オオクニヌシに訊ねた。
答えてからすぐに整理を再開した鬼神の手の動きは止まらなかったが、頭の中でどう答えようか考えているのか、その動きは鈍い。
セタンタの爪先が、返事を急かすように何度も床を蹴る。
結局その場では、セタンタはオオクニヌシの答えを得ることはできなかった。
「ちょっといいかな?」
銀座に立ち寄る少し前に、セタンタは人修羅に呼ばれた。
どういった用件で呼ばれたのか、この主人に長い間従ってきた仲魔ならだいたい予測がつく。
「私もついに合体材料にされるのですね」
拗ねたような口ぶりに、人修羅は苦々しく笑う。
浅草では買い物を、渋谷では情報収集を、そして銀座と池袋では悪魔合体。
人修羅が街に立ち寄る目的はその街ごとに決まっている。
銀座に立ち寄る前に呼ばれたということは、合体に使うから覚悟を決めてくれと宣告されるということに他ならない。
主人と小声で話し合うセタンタに、幾つもの同情的な視線が注がれる。
こんな深刻な状況にも関わらず後方から笑い声が聞こえてくるのは、オオクニヌシの冗談に対してクー・フーリンが笑ったからだろう。
苛立ちと非常に似ているが微妙に違う感情に胸を圧迫され、セタンタは吐き気さえ感じた。
「セタンタはどうかな、僕に従うのは嫌にならないか?」
嫌になると答えれば後腐れなく合体に使うことができるとでも言いたいのだろうか。
そんな捻くれた思考が顔に出ないよう気をつけながら、嫌味なほど丁寧な口調で妖精は応じる。
「嫌ではありません、マスターを尊敬していますので」
軽い声を立てて人修羅が笑う。
主人と同時に、今度はオオクニヌシがクー・フーリンの言葉に笑い、妖精の神経を逆撫でする。
「本当です」
ぶっきらぼうにセタンタが付け加えると、からかいを含んだ主人の笑い声はすぐに止んだ。
人修羅はしばらく真剣な面持ちで不機嫌そうな妖精を見つめていたが、ふいに何か企むように口の端を吊り上げて笑う。
マフラーの巻かれた首に腕を絡めて引き寄せ、セタンタの耳をくすぐるように素早く囁く。
「お前は合体材料にはならないよ、姿は変わるだろうけど」
急に引っ張られて崩れた体のバランスを立て直しながら、その言葉の意味を覚ったセタンタは軽い衝撃を受けて瞬きを繰り返す。
「それでは誰が……」
誰が合体材料になるのか、答えを分かっていても妖精は確かめずにはいられなかった。
反射的に視線がオオクニヌシと会話をしているクー・フーリンへ向けられる。
セタンタが人修羅に呼ばれる前も、呼ばれたときも、今と同じように2人は楽しげに談笑していた。
後ろめたい感情を湛えていた妖精の目が、急に冷めた色を浮かべて2体の悪魔を映し出す。
「他の奴らには言うなよ」
念を押す主人へ、セタンタは爽やかな少年の姿に似合わない毒を含んだ笑顔で頷いた。
誰もが予想していなかった仲魔を含めた悪魔合体が終了し、集まっていた仲魔たちは自由行動を再開するために邪教の館から散っていった。
オオクニヌシの姿を探して彷徨っていたセタンタは、噴水のそばにそれらしき姿を認めて近付いた。
鬼神は、邪教の館で合体を見届ける前と変わらない表情と手つきで道具類を整理している。
すぐそばまで近付いてきた小柄な影が手元を暗くしても、オオクニヌシは構わず手を動かし続けた。
「寂しいですか?」
無言で行動を観察していたセタンタが、何も言わないオオクニヌシに痺れを切らして訊ねる。
オオクニヌシは声をかけられて初めてセタンタの存在に気付いたような素振りを見せてから、
「なにが?」
と逆に訊き返す。
「クー・フーリンのことに決まっているでしょう!」
甲高い声を上げ、セタンタは下唇を噛んだ。
オオクニヌシは軽く首をかしげ、"あぁそのことか"と呟いてから頷く。
「寂しくなるな……」
そうは感じられない淡々とした口調だったが、言い終えた後にもれたため息は重苦しいものだった。
鬼神の反応をじっと見守っている妖精のマフラーに隠れた下唇が色を失っていく。
セタンタはじくじくと醜い膿が体中に広がっていくような錯覚に見舞われた。
自分をそんな精神状態に陥らせる感情の名前をはっきりと自覚しながら、妖精は無理に作った笑顔でそれを隠した。
「これからは私がクー・フーリンです、引き続きよろしくお願いします」
「そうか、そうだな」
差し出されたセタンタの手を、オオクニヌシの手が握り返す。
ただそれだけのことで、セタンタは苛立ちが和らいでいくことを実感した。
これからは自分がクー・フーリンの位置に立てる、目の前の人を独占できる。
そんな幸福感に浸りながら、セタンタは満足して握っていた手を解く。
触れ合っていた指が完全に接触を断つ寸前に、オオクニヌシはごく自然にひと言だけ付け加えた。
「これからもよろしく、セタンタ」
意識していないのに強張っていく表情を隠そうと、とっさにセタンタはオオクニヌシに背を向ける。
"違う、オオクニヌシはまだ私がセタンタだからそう言ったんだ"
必死に自分を納得させようと妖精はそう言い聞かせたが、心の疼きを止めることはできない。
焦る気持ちを抑えて振り返ったセタンタの視線の先で、オオクニヌシは変わらず忙しなく手を動かして道具の整理を続けている。
その事実が、幼いセタンタにもはっきりと分かる形でひとつの事実を突きつけた。
「オオクニヌシ、もうたとえばの話ではありませんが、私がクー・フーリンになったらどう接するのですか?」
得られなかった答えを求める声は、惨めなほど震えている。
対するオオクニヌシの返事は、残酷なほど冷静で一欠けらの迷いもない。
「別に。変わらない」
熱くなった目頭を、セタンタは強く擦った。
そうした妖精の異変など気付くこともなく、視線を手元に向けたままオオクニヌシは淡々と作業を続ける。
わざわざ訊ねるまでもなく、鬼神がそう答えることを自分は最初から分かっていたのだとセタンタは後悔した。
分かっていても訊かずにはいられなかった自分の愚かさに、悲しみよりも怒りを感じて妖精は涙を流すことができなかった。
噴水の水音さえ耳障りに聞こえ、セタンタは両手で耳を覆ったまま走ってその場から逃げ出した。