■ 03.足跡
その場所に到着するまで渇いた場所を移動してきたせいか、悪魔たちは水に餓えていた。
ターミナルで移動できる範囲が増えたおかげで砂地や毒沼の移動は最低限で済むものの、水が溢れている場所というものが貴重であることには代わりなかった。
口の中にたまった砂をゆすぐ為か、ケルベロスは水を飲み込んでは吐き出すという動作を繰り返し、その脇では女性悪魔たちが身を屈めて長い髪を水に浸しながら、仲魔内の噂話に興じている。
一見すると平和な光景に見えるが、水辺で休む彼らの傍には赤い染みが点々と続いていて、その先にマネカタの亡骸が横たわっている。
それは、ヨスガ勢力による襲撃を受け、最後まで抵抗を試みて散っていったマネカタたちの姿だった。
フトミミを信じて圧倒的な力を持つ悪魔たちに立ち向かった証拠なのか、手は血の付いたナイフを握り締めた形で硬直している。
遠くない過去にミフナシロで起きた虐殺が生んだものを横目でちらちら見ながら、セタンタは遠慮がちに地面に腰を下ろし、ブーツを脱いだ足を水に浸けた。
水を好む悪魔が水中で遊んでいるのか、セタンタが足を動かしていなくても飛んできた水しぶきによって水面にいくつもの波紋ができる。
初めのうち妖精は黙って映る自分の姿を歪める模様を見ていたが、すぐに飽きたのか、交互に足を動かして勢い良く爪先で水を蹴り上げた。
「わっ」
驚きの声にセタンタが振り向くと、蹴り上げられた水による被害を受けた悪魔が顔にかかった水を手の甲で拭っている。
猫が手を舐めるようなその仕草は子供悪魔がやれば可愛げがあるが、その悪魔にはお世辞にも似合うとは言えない。
「よく周りを確認しないからそんなことになるんですよ、クー・フーリン」
水辺で涼む妖精は得意げに注意をし、水をかけられた幻魔は呆れて肩を落とす。
毒気たっぷりの言い方に怒る気力を抜かれてしまったのか、逆に注意することはせず、クー・フーリンは訊ねる。
「マスターを見なかったか? 先程からずっと捜しているのだが」
セタンタは視線を幻魔から水面に戻し、今度は足を小振りにして水遊びをしていたが、その質問に脚の動きを止めた。
徐々に落ち着きを取り戻し始めた水が穏やかな波を形作り、やがて完全に消えて妖精とその後ろに立つ幻魔の姿を映す。
水面で確認できるセタンタの表情はいつもと変わりなかったが、もう1度クー・フーリンが同じ質問を繰り返すと微妙な変化を見せた。
「貴方が見ていないのに、私が見ているはずが無いでしょう」
落ち着いた声とは裏腹に、言葉を吐き終えた口は真横にきつく結ばれているだろうと思わせる目で妖精は答える。
質問に対する拒否を示す目はすぐに閉ざされたものの、感情を抑えてから開いた目に水面を蹴っていた時のような少年らしさは無かった。
「なにを怒っているんだ、知らないならそれで構わないのだよ」
理由を訊く声に不満そうに頬を膨らませ、怒っていないと言い返そうとしたセタンタは、水面に映る自分の顔を見てハッとした顔をする。
妖精の目はバツの悪そうな自分の顔に数秒止まったのち水面に映る幻魔の顔に移り、その顔を視界から掻き消すように爪先で水を蹴った。
「マスターはいちばん奥にいると思う」
急に協力的になったセタンタの態度に、クー・フーリンは怪訝そうに眉根を寄せる。
「なぜそう思う?」
「フトミミさんに、謝っていると思うからです」
セタンタは触れられないよう必死で防御していた部分を開放する決心をしたのか、間を置かずに返事をした。
妖精の言葉を聞いて、幻魔は改めてヨスガ襲撃後のミフナシロを見渡す。
駆けつけたときには全てが遅かった。
鳥居の上から落ちてきた赤い液体が何であるか、見上げた主人の表情はそれまで仲魔たちが見たことの無いものだった。
天井を埋め尽くす天使たちの羽音は水音に勝り、天から水中めがけて落とされるマネカタたちの悲鳴さえ掻き消す勢いだ。
その空間を、人修羅も仲魔も歩くことしかできなかった。
自分たちが無力さを噛み締めて歩いたその道をクー・フーリンの視線は辿り、セタンタの脇に横たわるマネカタで止まる。
瞬きひとつせずに磨かれたような水面を見つめていたセタンタが、想いに耐えるように目を伏せるクー・フーリンにぽつりと告げた。
「貴方なら覚えているでしょう、そのマネカタから生を奪った者は……私です」
「覚えている、死ぬ寸前にマネカタが呟いた諦めの言葉も」
幻魔はしゃがみ、気分を落ち着かせるように妖精の首に巻かれたマフラーを緩めてやる。
緩まったマフラーに耳までうずめ、2つの目を落ち着き無くさ迷わせてセタンタは早口で喋った。
「マネカタの体を槍でなぎ払った時に声が聞こえたんです、君も所詮ヨスガの奴らと同じだったんだねって、恨んでやるって!」
セタンタの背後で気配が動き、その動きによって弾かれた小石が水の中へ転がり落ちて波紋を作っていく。
背中を丸めてしまった妖精の横に膝をついて覆いかぶさるようにクー・フーリンは小さな体を抱きしめる。
灰色のマントに体を包まれ、その中でセタンタは罪悪感がもたらす恐怖と必死に戦っているようだった。
妖精の胸に自分の手を置き、幻魔は繰り返し大丈夫だと囁く。
体温を感じ取りたいと思い寄せた頬は、柔らかな感触と火照りをクー・フーリンの肌に伝える。
そうすることによりむしろセタンタよりも自分の心が落ち着いていくことをクー・フーリンは感じていた。
幻魔の声に合わせるように次第にセタンタの心臓の鼓動は落ち着きを取り戻し、呼吸も緩やかなものになっていった。
「私は謝りたかった、もう謝れないのならせめてそのマネカタの分まで強く生きたいと、そう思う」
まるで自分の心を代弁されているようだとクー・フーリンは感じていた。
腕の中にいる者と同じ想いを共有し、同じ感覚を共有し、不思議な安心感に包まれていくことを感じながら、幻魔は穏やかな心で目を閉じた。
「クー・フーリン?」
不審そうな呼び声に、幻魔は眠りから叩き起こされたような気分を味わいながら、視線を背後に向ける。
名前を呼んだ主はクー・フーリンの反応を確認してから、
「なんだ、起きていたのか」
と意外そうに呟いた。
声と姿から名前を呼んだ主が人修羅であると判断し、幻魔は反射的に背筋を正そうとしてすぐに違和感に顔を顰める。
「あの、変なことを伺うようで申し訳ないですが、私の隣にセタンタはいませんでしたか?」
答えを待つ必要も無く、人修羅は首をはっきりと横に振ってクー・フーリンの問いに答える。
幻魔はしばらく主人の顔を見たまま沈黙していたが、水に浸かった黒いブーツへ視線を移し、最後に倒れているマネカタの姿を確認した。
クー・フーリンが訪れたときにセタンタがそうしていたように、足を水の中に投げ入れる格好で幻魔は地面に腰を下ろしていた。
水面には自分と人修羅の2人分の姿が映り、クー・フーリンが足を動かさなくとも、飛んできた水飛沫によってその姿は不安定に揺れる。
自分の置かれている状況を初めて把握し、慌てて水から足を引き上げるクー・フーリンに人修羅の声が追い討ちをかけた。
「だってさ、君以外のセタンタを仲魔にした覚えは無いよ、そういう君もクー・フーリンになってしまったし」
本当にセタンタが居たのかと問う主人に、幻魔は何も答えることができなかった。
答えることができない代わりに、夢でも見ていたんじゃないのかと疑う人修羅に真剣な表情で逆に質問をする。
「それよりマスターはいままでどこに居たのですか?」
クー・フーリンに訊かれ、人修羅は少し迷った様子を見せてから寂しそうに告げた。
「フトミミに謝っていたんだ、同胞をたくさん殺してしまってごめん、力が足りなくてごめんって」
暗い雰囲気を振り払うように、そういうクー・フーリンは水遊びかと訊ねられ、幻魔は困ったような視線を横たわるマネカタへ向ける。
幻魔の視線につられてマネカタの亡骸に目をやった人修羅は、"あぁ"と低く呟いた。
「君も謝っていたんだね、自分が殺めたマネカタに」
その言葉は、いまだはっきりしていなかった幻魔の意識を、完全に現実に引き戻した。
ケルベロスが地面で爪を研ぐ音や、噂話に飽きた女性悪魔たちが騒がしく言い争う声が、急にはっきりとした音として耳に入ってくるようになり、クー・フーリンは面食らって耳を押さえる。
幻魔の不自然な様子を面白そうに眺め、人修羅は"もうすぐ出発するよ"という言葉を残して他の仲魔たちの元へ向かった。
「あ、はい」
口では返事をしたものの、納得のいかない気持ちを抱えてクー・フーリンは再び視線を水面に落とす。
滑らかな水はクー・フーリンの釈然としない表情のみを映し出している。
セタンタの体温を感じた頬に指で触れ、やはり夢だったのかと首をかしげながら立ち上がった幻魔は、集まり始めた仲魔たちの元へ歩き出す。
7歩ほど歩いて立ち止まり、振り返って地面に伏すマネカタに頭を下げるクー・フーリンの胸を、ちりちりと心の痛みを伴う罪悪感が焼く。
かつてセタンタだったときの自分が無力さを感じながら通った道を、そのときの足跡に自分の足跡を重ねるように、濡れた足で1歩1歩地面を踏みしめながら幻魔は歩いた。