■ 04 幸せのにおい

「パワー様」
知性を感じさせる低い男の呼び声に、パワーは羽の動きを止めて振り返った。
復興していたマネカタが消えて閑散としたアサクサの砂嵐の中、静かに揺れる赤い羽根が目立って映る。
羽以外に目立つ点、兜についている旗を見て何やら納得しているパワーに、おどおどした態度を隠しながらアークエンジェルは近付いた。
「お1人なのですか? お力になれるか分かりませんが、お供いたします」
頭を下げて同行を申し出る天使の旗を、無表情にも見えるパワーの目が追う。
自分より立場が上のものを前にして緊張しているのか、腹部にくっつくのではないかと思えるほど深く頭を下げ、肩は小刻みに揺れている。
少し待ってみてもパワーからの反応を得られず、アークエンジェルは恐る恐る不安そうな顔を正面に向けた。
「あ……?」
顔を上げる時を待っていたようなタイミングで、言葉は与えずに手の動きのみで付いて来いと指示をして、赤い天使は背を向けて砂煙の中に消えた。

前を飛ぶことも、横を飛ぶこともできない。
身を盾にして護るべき存在に逆に護られるような位置を、アークエンジェルは遠慮がちに飛行する。
気まずい思いに囚われる天使の横を、2体単位でパワーの脇をガードしている仲間たちが通り過ぎていく。
憧れの存在を前に目を輝かせ、使命感に燃える仲間たちの姿は普段とは比べものにならないくらい強そうに天使の目に映った。
憧れの気持ちだけなら……! とアークエンジェルは沈みがちな気持ちを奮い立たせるように剣を握る手に力を込める。
仲間の誰よりも目の前を飛ぶパワーへの尊敬の気持ちは強いと、天使は自任していた。
汗ばんだ手の平を開いて剣の柄に目を落とす。ミフナシロを攻撃する前にこっそりと柄の表面に彫った文字を天使は心の中で呟く。
"パワー様・命"
その言葉を唱えただけでアークエンジェルの胸は高鳴り、興奮で呼吸は乱れがちになる。
彼の仲間の多くはパワーも尊敬しているが、目の前に4大天使が現れればどの天使より貴方様は偉大ですと簡単に口にするだろう。
自分はそうではない、階級が上の天使が現れたときに頭は下げるが、1番角度の深い礼はパワーに捧げるためのものだ。
"あぁっ、パワー様、パワー様、パワー様……"
最早崇拝の域に到達した存在の名前をアークエンジェルが唱えていると、前を行くパワーが立ち止まった。
すっかり自分の中に入り込んでしまっていたアークエンジェルは急な行動に付いていくことができず、危うくパワーの背中にぶつかりそうになって顔色を変える。
気を引き締めなければと背筋を正す天使の耳は、パワーの声をキャッチした。
「どうだ、塔の様子は?」
「人修羅がシジマのアーリマンを破ったそうだ」
アークエンジェルが従うパワーの問いに応じる声もまた、パワーのものだ。
「人修羅か、信用できるのか?」
人修羅、それは受胎後の東京において、常に悪魔たちの話題にのぼる重要人物の名前だった。
彼がどのコトワリに傾くか、またどのコトワリ主が彼を引き入れるのか、アークエンジェルも仲間と意見を戦わせた。
ミフナシロでの戦いの際、人修羅はヨスガのコトワリ主である千晶の求めに応じて、マネカタの預言者を打ち倒したと伝わっている。
ヨスガに協力する気になったのか、それともその行動さえ他のコトワリ主の求めに応じて行ったことなのか。
「それはムスビに対する彼の出方次第となるだろう」
はっきりしない状況を憂いたのか、両パワーの口から重苦しいため息がもれる。
沈黙が続き、風の唸りと2体のパワーを目の前にして硬直している自分の心臓の音のみがアークエンジェルの耳を激しく打つ。
音に動きによって鎧が立てる金属音が混じり、塔の様子を探ってきた方のパワーは同胞に別れを告げる。
「それでは失礼する」
羽ばたきによって散った羽を残して一方のパワーがアサクサの奥へ姿を消すと、またアークエンジェルはパワーと2人きりになった。
パワーは会話から得た情報を元に何やら深く考え込んでいる様子で、微動だにしない。
ここにきてようやく緊張の糸が解れてきたのか、アークエンジェルは幾分肩の力を抜いて自分が護るべき天使の背中を眺めた。
力強い羽ばたきを生む逞しく大きな背中、槍を突き出すときの筋肉の動きなどを想像し、天使はゴクッと生唾を飲み込む。
遠すぎず、近すぎず、それでいて越えたいなどと思うことさえ憚られるやはり遠い存在。
戦場では常に勇敢であり、かといって野蛮ではなく思慮深く慈悲の心を持つ完璧な存在。
"そうか、完璧なこの天使に護衛など必要なかったのだ"
パワーの背中を見ているうちにそんな思いが胸をかすめ、興奮気味だったアークエンジェルの気持ちは再び底に沈みかける。
知らずうちに周囲を警戒するための視線が地面に向けられ、背後から忍び寄ってきた影に天使は気付くことができなかった。

背後からの力に突き飛ばされ、アークエンジェルは悲鳴を上げる間もなく両脇に並ぶ商店のシャッターに体を叩き付けられる。
血こそ出ないものの、打撲による鈍痛で体が痺れ、すぐに立ち上がることはできない。
「ヨスガの連中というからどんなに強力な者達かと思いましたが、のろまで面白みがない」
振るったばかりの槍を構え直し、背後から攻撃を仕掛けた妖精セタンタが天使たちを小馬鹿にした口調で告げる。
「妖精が…、ここに何の用だ…?」
アークエンジェルと同じく吹き飛ばされたパワーは、シャッターに叩き付けられる前になんとか空中で体勢を立て直していた。
それでも食らった衝撃の威力は相当のものだったようで、問いかける声は明らかに狼狽して揺らいでいる。
セタンタは、"ははっ"っと悪戯っ子のように笑ってから、
「理由などありませんが、この街を煩く飛び回るあなた方のような小蝿が邪魔になったので」
それが理由ではいけませんか? と短い髪の毛をかき上げる妖精に、パワーは歯を噛み締める。
侮辱されている、とアークエンジェルは怒りを覚えた。
自分が侮辱されるだけでも腹立たしいというのに、よりによって憧れのパワー様に対し小蝿などと……。
"許せん、天罰を下す"
体の痛みを感じる機能は怒りによって麻痺してしまったのか、正常に働いていないようだ。
アークエンジェルが立ち上がったことは、セタンタはもちろんパワーにとっても意外に思えたようで、
滅多なことでは表情を崩さない存在が初めて見せた驚きの表情は、天使の思考に軽い情報の混乱をもたらした。
「パワー様、今こそ全力を持って貴方をお護りいたします」
熱のこもった言葉と表情に、パワーは驚いた顔のまま1、2度頷く。
「パワー様に戦の加護を」
剣を胸の前で構え、アークエンジェルはタルカジャを発動させる。
パワーが放つ妖精を狙った槍の一撃は天使が目を見張るほど正確なもので、防御の姿勢をとる妖精の体を見事に捉えた。
貫きはしないものの太腿を抉ったその一撃に込められた魔力により、セタンタの体は痺れて動きを封じられている。
「……、パワー様、止めを」
自分は待機して攻撃の順番を譲ろうとする天使の顔をじっと見つめ、パワーは首を振る。
えっと叫びそうになる衝動をこらえ、それまで怒りに満ちていたアークエンジェルの目は急に自信を失う。
「止めをさせなかった場合、妖精の麻痺はとけてしまいます、パワー様が確実に止めを刺されたほうが……」
安全だと続けようとする天使へ向けられていた目が、その瞬間だけ厳しくなった。
鋭い視線に怯むアークエンジェルへ向けて、初めてパワーは言葉を告げる。
「お前は私を護ると言った、ならば最後まで護り通してみせろ」
力強い言葉にアークエンジェルは口を開けたものの、言葉を失ったまま目を大きくした。
言葉では表せない感情が天使の胸を包み、全ての補助魔法を4回重ねがけする以上の強さを体に与える。
アークエンジェルに迷いはなかった。
動きの取れない体で悔し気に睨みつける妖精へ、一撃必殺の魔法をありったけの精神力を込めて放つ。
紙がセタンタの周囲を螺旋状に取り囲み、聖なる光が溢れて妖精の存在を抹消する。
「よくやった」
声に顔を上げればそこにはパワーの穏やかな眼差しがあり、アークエンジェルは湧き上がる感情を敬礼の深さに変えて、
「はいっ!」
と喜びの声を上げた。

深々と下げられた頭を見下ろして心の中で苦笑していたパワーは、なんとか自分に心酔している様子の天使の緊張を解せないものかと考える。
ふとアークエンジェルがシャッターをへこませた店のひしゃげた看板に目をやると、"甘辛だんご1本120円"という文字がかろうじて読み取れた。
甘辛というからには、食べ物の一種なのだろう。
「ヨスガの世界が創世された暁には、だんごでも食べないか?」
だんごという食べ物についてパワーはなんの情報も無かったが、人間界と関わることの多いアークエンジェルは知っていたようで、
「パワー様もだんごがお好きなのですか?」
と素っ頓狂な声を上げる。
"パワー様も"ということは、アークエンジェルはだんごが好きなのだろう。
創世に関する不安は尽きないが、ヨスガ世界のどこかで"だんご"という未知の食べ物を頬張っている自分とアークエンジェルの姿を想像したパワーは、幸せのにおいを嗅ぎ取って目を細めた。



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