■ 05 ひとさじの甘さ
理不尽な要求をされても逆らえない相手、絶対的な存在を持つ者はそう珍しくない。
天使たちにとっての唯一神であったり、もっと身近なところで言えば人修羅と仲魔の関係であったり。
最もこちらは人修羅に主人としての自覚が足りないせいか、そういった関係に縛られていることを縛っている本人も
紐に絡めとられた方も忘れがちなほど緩やかなものではあるが。
首に繋がれた鎖を持つ相手に心酔していればどんな要求であろうと飲み下すことは容易い。
心酔していなくても絶対的な力の差に逆らう気力が萎えれば、時が経てば従うことによるわだかまりは慣れに変わるだろう。
そのパターンに当てはめた場合きっと自分は後者であると、憂鬱な気分を相手に悟られることのないよう気を使いながらオオクニヌシは考える。
鳥船に乗り地上に降りてきた天からの使者は、従わずに逆らう者に対して圧倒的な力を見せ付けて足元に跪かせた。
あの御方にはその権利が生まれながらにして備わっているのだからこの要求は当然であると、分けの分からない理由を押し付けて。
条件をつけて国を譲り渡したことに対して今更どうこう言い争うつもりは自分にはない。
"そのことに関しては"とかすかに残る無念の想いを押し込めると、肩に釘で刺されたような痛みが走り、オオクニヌシは
「くっ」
と小さく苦痛の声を上げる。
肩に喰らい付いて糧を貪る神がオオクニヌシそっくりの顔を上げてちらっと様子を窺う。
決して"済まない"だの"大丈夫か?"など言わないところが、実に他者に気を使う必要のない高貴な生まれのこの神らしい。
その証拠に眉を顰めるオオクニヌシに向けられた目は、心配する者の眼差しではなく抵抗を封じるための尊大な視線。
食事を再開するために先程と同じ場所に唇を寄せようとする神の額を手で押し止めて、鬼神はやんわりと拒否する。
「これ以上吸われてしまいますと、私の体力が持ちません」
生気を啜っていた神は素直にオオクニヌシの体を解放して、紅い光に染まって妖しい雰囲気を纏う唇を名残惜しそうに舐めた。
そんなに美味しいものなのだろうかと疑問に思いながら、鬼神は着衣を整え外された鎧の紐を結ぶ。
遠慮無しに吸われた白い皮膚の上に、鮮やかな色の歯型がひとつ、刺すような痛みと共に残っている。
その痕を、じっと見つめる飢えによる暗い影が見え隠れする目から素早く隠し、今思いついたような口ぶりでオオクニヌシは訊ねた。
「味はいかがでしたか?」
食事中に緩んだ髪紐からこぼれた髪を元の形に整えようと指を動かし始めた神は、目を細めて薄く笑う。
いつだったか、"自分で髪を整えたことなど1度もない"と、戦闘によって髪の乱れた頭をどうすることもできない苛立ちに満ちた顔で彼はオオクニヌシに告げた。
"そうですか、それは大変ですね"そう言って突き放すことは可能だった。
敢えてその選択肢を選ばずに"それなら私が整え方をお教えしましょう"と申し出た鬼神に対し、神は感謝の言葉ひとつ述べずに逆にこう訊ねた。
"教える? それは私にいつかは自分で髪を整えろと言っているのか?"
オオクニヌシは唖然としたが、訊ねる神の表情はどう見ても冗談を言っているようには見えない。
それから根気強くオオクニヌシは髪の結い方を教え、不器用な手つきながらも神はようやく自分ひとりの力で乱れを整える術を習得した。
あの時に突き放しておけば、今こうして求められるがままに生気を吸わせることも無かっただろうに。
過去の決断を後悔してオオクニヌシは心の中で自嘲する。
"違う"
本心はひとしきり鬼神の考えを嘲笑ったあと、はっきりと否定してから囁く。
"最初からお前は拒否することなどできなかった。絶対的な存在に対し為す術も無く、あのときと同じように今度は自身の意思さえも彼に譲り渡したのだ"
それが真実であろうと自分の捩れた心理が生んだ嘘であろうと、オオクニヌシにとってはどちらでも良かった。
「味などない」
やや間を置いてから、問いに対する答えが返ってきた。
「そうですか」
恐らくどんなに奇抜な返事であってもそう言ったであろうと予測できる落ち着いた口調で、鬼神はすぐに応じる。
遠くから人修羅の呼び声が聞こえ、神はため息を吐いて地面を軽く蹴って浮遊する。
「あ、お待ちください」
去ろうとする神を呼び止め、オオクニヌシは不器用な指の動きではまとめきれなかった細かい髪を紐の中に押し込む。
礼の言葉など鬼神は期待していなかったが、再び浮遊した神は上空からはっきりとした声で"ありがとう"と礼を述べる。
当たり前の言葉に対し大袈裟と思えるほど怪訝な表情を見せるオオクニヌシを残し、主人に呼ばれたアマテラスは幾分機嫌よさそうにその場を後にした。
声を殺し、うつ伏せの格好で押さえつけられて自由にならない手足を羞恥に震わせる魔神の背中に、人修羅は点々と噛み後を残していく。
一纏めに髪紐で結ばれ地面に押し付けられる形で固定された手首は摩擦で赤く色付き、現実から逃避するように目を瞑った顔は苦痛に歪んでいる。
「アマテラス、痛い?」
痛いかと訊いておきながら、"痛いから止めて下さい"と願い出ることを決して許さない声色で人修羅が魔神の背に付いた痕を指でなぞる。
指の腹で労わるように撫でながら、時折爪を立てて傷口を抉る。
傷が拡がるたびにアマテラスの上半身は痙攣を起こし、きつく噛み合わせた歯の合間から殺しきれない苦鳴がもれた。
その様子を見て魔神の主人である少年は満足そうに笑う。
「ねぇ、君は自分の生気がどんな味だか知っているかい?」
答えなければまた傷を抉って痛めつける気なのだろう。
何度やられても慣れない痛みを恐れたアマテラスは、弱々しく首を振って反応を示す。
爪に付いた血を舐めて、うっとりとした表情で人修羅が答えを与える。
「甘いんだ、すっごく甘いんだよ」
指ではなくぞっとした感覚を与える舌が傷口の周囲を舐め、生暖かい息と共に再び鋭い歯が白い肌に新たな傷を創る。
「はっ、うあっ……!」
1度声を出してしまったことにより抑えがきかなくなってしまったのか、痛みに全身を引き攣らせて魔神は辛そうな声を上げた。
激しくなる抵抗を簡単な動きで封じ、背中の筋に沿って腰まで付いた痕を眺めて人修羅は告げる。
「もっと薄味なら君の苦しみは他の誰かのものになったのにね」
紐を奪われてばらばらに散った長めの髪をひと房手に取り、艶のある表面に自分が所有していることを主張するように少年は口付ける。
喘ぐような短い呼吸を繰り返しながら、行為が終わったことを知ったアマテラスは閉じていた目をわずかに開く。
きつく結ばれた手首がじくじくと痛みを主張し、背中は火炎魔法が踊っているかのようにただひたすら熱い。
解放された身体を起こし、手首を戒めていた髪紐の結び目を歯を使って器用に解く。
「本当に器用だね、髪をまとめるのも上手だし」
今まで誰からも受けたことのない屈辱に精神を引き裂かれるような苦しみを感じながら、アマテラスは慣れた手つきで髪を束ねる。
口の中にわずかに残っていた鬼神の生気を舌で掬うとほのかな甘みが広がり、魔神はその甘さごと込み上げてくる感情を飲み下した。