■ 06.I'm here
カウンター席に腰かけて、人修羅とロキは互いににらみ合っていた。
片方の悪魔の目には場数をこなした自信からくる余裕があり、その視線を正面から受けて立つ金色の目には、理由の分からない自信が漲っている。
両者の前には氷と共に毒々しい色の飲み物が入ったグラスが置かれ、丸みを帯びたガラスの側面を伝って落ちた水滴が、紙のソーサーにしみを作っていく。
銀座の酒場は、珍しく静寂を求めるシジマの意を汲んだかのように静まり返っている。
ただ、注がれた液体の底から浮き上がる小さな泡が立てる軽い音のみが、その場に居合わせた悪魔たちの耳に届く全てだった。
沈黙したまま、ロキがカウンターの上にマッカをのせる。
その金額に対する感想は様々だろうが、人修羅のお寒い財布の中身を知る仲魔が見れば、ぜひ手に入れたいと願う額だろう。
ロキからマッカへ興味を移し、食い入るように鈍い輝きを見つめていた人修羅もまた、無言で手招きをして自分の仲魔たちを呼び寄せた。
「本当に、やるのねぇ?」
濃い口紅の塗られた唇からため息混じりの言葉を漏らしたニュクスが額に手の平を当てる。
2体の悪魔は同じタイミングでグラスに手をかけ、もう1度互いに視線を交わして中止の意志が無いか確かめ合う。
部屋の温度で2つに離れた氷がグラスとぶつかる音が、とある仲魔の運命を決めた。
部屋はあちこちに荒らされた形跡が残るものの、過剰な装飾は施されておらず、落ち着いたイメージを見る者に与えた。
隣の酒場から運んできたのか、同じような椅子がいくつか置かれていて、その中のひとつに鬼神は腰を下ろす。
飾り気の無い壁に一点だけ染みのような汚れは見られるが、それは部屋の持ち主ではなく部屋に侵入した者が残した形跡らしく、"お宝はいただいた"という意味を持つ言葉が、でこぼことして統一感の無い文字で書かれている。
まるで自分がこの部屋の主であるかのような態度で寛いでいたオオクニヌシは、その汚い走り書きに軽蔑の混じった目をむけ、うんざりしたように首を振った。
部屋の外からは、彼の主人である少年と、彼から見ればいけ好かない金髪悪魔の会話が途切れ途切れに聞こえてくる。
「飲み物の種類が悪かったんだ、賭けは無かったことにしよう」
不満そうな声は、人修羅のものだ。
「賭け金額の10倍のマッカを持ってこい、そうすれば考えてやらなくもない」
ケチを付けられて、不機嫌そうな声で応じるロキの声に、サルタヒコとピシャーチャのブーイングが重なる。
交渉は、ロキが10倍と指定した条件を渋々5倍まで下げるまで続けられ、
「オオクニヌシー、カグツチ1周分のあいだだけ我慢してくれよ」
という許しを請うような想いの込められた声を最後に、いくつかの足音が遠のいていった。
そのほとんどの会話を、オオクニヌシは耳に入れないよう意識していた。
天井に目を向けて、まるで話題の中心にいる悪魔が自分ではないかのように振る舞い、主人の呼びかけにも応えることは無い。
「頭の悪い悪魔は嫌いだ」
足音が聞こえなくなると視線を天井から壁の落書きに戻し、ただそのひと言で自分の身に起きた不幸の引き金になった悪魔を切り捨てた。
扉の外の声は人修羅一行が去った後もニュクスと何やら言い争っていたが、幾分怒った調子で話に区切りをつけたロキがそのままの勢いで扉を開く。
「俺は賭けに勝ったんだ、文句を言われる筋合いは無い」
カウンターへ向けて言っているのだろう、閉まろうとする扉を右足で押さえ、酒場側に身を乗り出す格好で金髪の悪魔は主張している。
扉が開いたことにより外の音声がよく聞こえるようになり、ニュクスが歌うように、
「頭の悪い悪魔はこれだから嫌ね」
と魔王を罵り、部屋の中でそれまでずっと面白くなさそうにしていたオオクニヌシが、初めて笑った。
微かな笑い声に気付いたロキはニュクスに抗議しようと振り上げていた手を腰にあて、魔王の表情の変化に気付いた鬼神はわざとらしく咳き込む。
鬼神にとっては気まずい沈黙の後、ロキはオオクニヌシの方へ体を向けたまま扉を閉めた。
「俺はいま最高に機嫌が悪い、何故だか分かるか?」
苛々とした口調で問いかけてから、ロキは壁に寄りかかって答えを待つ。
"頭が悪いから"
部屋は緊迫した空気に支配されていたが、ロキの問いに対して真っ先にオオクニヌシの頭に浮かんだ答えは緊張感に欠けたものだった。
うっかり浮かんだ言葉をそのまま口に出しかけ、さすがに失礼だと思ったのか、違う言葉を探そうと頭を働かせる。
答えを急かしているのか、オオクニヌシが考えている間ずっとロキの指は一定のリズムで壁を叩き続けていた。
青みがかった目は瞬き1つせずに床を睨みつけていて、魔王の怒りの深さが窺える。
"ふざけるな、冗談ではない、頭の悪い悪魔の賭けに巻き込まれて怒りたいのは私の方だ"
時間をたっぷりかけて答えを探すオオクニヌシだったが、結局巡り巡って答えはそこにいきついたようだ。
楽にマッカを増やす方法はないかと愚痴った人修羅に賭けの話を持ちかけたのは、鬼神の目の前で偉そうにしている魔王だった。
10杯のニュクス特製飲料をどちらが速く飲み終えることができるのか。
人修羅が勝てばロキはマッカを支払い、ロキが勝てば人修羅は仲魔の中から1体をロキに差し出す。
危険すぎる。止めよう。仲魔たちの訴えを跳ね除け、少年は自信に満ちた顔でカウンター席に座り、ロキと対峙した。
数秒もしないうちに、その顔が焦りで真っ青になるとも知らずに。
「知らんな」
これまでの流れから、鬼神は魔王が言わせたい内容に思い当たるところがあったが、敢えてそれは口にせずに挑発的な態度に出た。
上手くやり過ごすこともできたと言うのに感情に任せて発言をした自分も相当頭が悪いと微かな後悔を感じながら、それでも鬼神は自分の言葉を訂正する気にはなれなかった。
オオクニヌシの予想に反して、答えを吟味するように何度か頷くロキは冷静だった。
「知らないか、そうか……」
壁から身を起こし、感慨深そうに呟きながら近付いてくるロキを警戒したのか、オオクニヌシが椅子から腰を浮かせる。
距離が一歩ずつ縮まるごとに腰は椅子から離れ、手を伸ばせば届くという距離までロキが近付くころには完全に立ち上がっていた。
少々慌てたのか、立ち上がった際に鬼神の踵が椅子の脚とぶつかる。
ガタッという音と共に後ろにずれた椅子の背を掴んで元の位置に戻し、そのまま身を屈めてぶつけた踵を撫で、オオクニヌシは立ち上がろうとした。
正面を見た鬼神の目に、2本の足の奥で静かに揺れる白い布が映る。
風も無いというのにその布が急に大きく波打って視界を覆い、その体積に圧倒されるようにオオクニヌシは尻餅をつく。
咄嗟に両腕で上半身を支えて床と背中の衝突を避けたものの、鬼神は起き上がることの困難な状況に追い込まれていた。
魔王が、鬼神の太腿の上に陣取ってにやにやしながら、自分の体の下で窮屈そうに身動ぎする悪魔を観察している。
観察する側は愉しそうだが、される側の眉は不快感で見事な逆ハの字を描いている。
ロキが体を床側に傾けるたびにオオクニヌシの眉の傾斜はきつくなっていったが、一定の角度を越えて上半身を腕で支えられなくなると、ある種の不安を感じ始めたのか、傾斜は次第に緩くなり、代わりに瞬きの数が多くなった。
ロキはオオクニヌシの顔のパーツ一つ一つを2本の指で隠しながら、何やら悩んでいる様子をみせていたが、
目から鼻へ、鼻から口へと移動を繰り返した指は最終的に鬼神の両目を隠す形で動きを止め、
「やはり反抗的な目つきが悪いのか」
と、納得したように低く呟く。
「失礼」
魔王の真意を測りかねたままオオクニヌシは謝り、変な部分で礼儀正しい反応が可笑しかったのか、ロキは目を細めて笑った。
鬼神はなぜ笑われたのか理解できていないようだった。
不思議そうにマントの端を破き始めるロキの指を目で追い、その布の切れ端が自分の目に被せられて初めて警戒に身を固くする。
「何をする気だ?」
「ナニをする気だ」
平常心を保とうとする声にアクセントのみを変えて鸚鵡返しをしてから、オオクニヌシの手が企みを阻止する前に、ロキは目隠しの役目を持った布の両端を結んでしまう。
反射的に剣を取りに向かう手を足の裏で地面に押さえつけ、鬼神の武器であり自分にとっての危険物を取り上げて、オオクニヌシの手の届かない位置へ放った。
自分の剣が固い床に落ちる重い金属音を聞き取った鬼神は、いったん腕による抵抗を諦め、今度は足をバタバタさせ始める。
しかし太腿の付け根に魔王の尻が乗っているせいか足は思うように動かず、ロキも敢えて足の動きを封じることはせずに、抵抗がやむまで待った。
「重いっ! 熱いっ! 煩わしい! ナニとは何だっ?」
オオクニヌシは感じる嫌悪感をダイレクトに訴え、雰囲気がぶち壊しだとロキは嘆く。
「少し脅してやればすぐに俺の言いなりになるような悪魔を選んだはずなのだが……」
面倒くさそうにぼやく魔王を、お前のような貧相な悪魔の言いなりになる者など存在するものかとオオクニヌシの声が叱咤する。
目隠しをされた鬼神が怒る様子を見て、ロキは何故か嬉しそうに笑う。
「計算外だが、代わりに面白そうな悪魔が手に入ったことだし……楽しませて貰うとするか」
体に圧し掛かるロキの重みが一瞬だけ消え、すぐに元に戻る。
目隠しをされたオオクニヌシは重みが消える前と後の違いを知ることはできなかったが、首筋から頬にかけて柔らかい布が擦れる感覚で、何かが変わったということは察知していた。
「なんだこれは、どうなっているんだ?」
少し経ってからロキが疑問を口にし、魔王が何をしようとしているのか知ることのできないオオクニヌシは、見えないと分かっていても目隠しの下で目を動かし、唇を強く噛んだ。
オオクニヌシは予測できない魔王の行動に不安を感じていたが、ロキも鬼神の鎧を前に困惑していた。
ロキが行ったことは自分の座る向きを変えただけで、オオクニヌシの頬をくすぐる布の正体は、肩から垂れているマントだった。
いざ鬼神に悪戯をしかけようとしたものの、オオクニヌシが身に着けている鎧の構造を北欧の神であるロキが知るはずも無く、どうすれば重苦しい物体を剥がすことができるのか、魔王は耳の後ろを掻きながら頭を悩ませた。
「まぁ、いいか」
いい加減な結論に至ったロキは、鎧を脱がすことは諦めたのか、前屈みになって両脇の切れ込みから手を差し込んだ。
布製の着衣の上から太腿に何かが触れる感触に、オオクニヌシは足を緊張させる。
ロキの手の平はその強張りを解きほぐす様に腿の外側から内側を這い、足の付け根に向けて少しずつ移動していく。
「この、変態め」
罵る声にいったん手の動きは停止し、ロキは上半身を軽くひねって鬼神の様子を窺う。
鎧を着ていても分かるほど鬼神の胸は上下し、罵倒の言葉を吐いた口は薄く開き、そこから噛み締められた白い歯がのぞく。
屈辱感が別の感覚で狂わされていく様を観察するためか、そのままの姿勢でロキは手で閉ざされた鬼神の両腿を割り、股座のものを後ろから包み込むように指を一本ずつ絡ませていく。
指先の柔らかめな部分が着衣の上から触れるたびにオオクニヌシが息をのむ音がロキに伝わり、視線を感じているのか、表情の変化を覚られないよう鬼神は落ち着き無く首を左右に振った。
「さて、俺のことを変態と罵るそっちは、どんな痴態を見せてくれるんだ?」
答えの代わりに殺気が増し、ロキは愉快だと言いたげに肩を軽くすくめた。
指の腹で少し強めな刺激を与えながら、じれったい速度で手の平を上下にスライドさせる。
最低限の呼吸を確保する程度にしか開いていなかったオオクニヌシの口は半分まで開き、喉はひくひくと震えている。
足の裏で踏みつけていた手を解放すると、鬼神はなにかを探すように自由になった手で空間を探り、指に触れたロキのマントを強く握り締めた。
ロキが焦らすような手の動きを続けているうちに、オオクニヌシのものは着衣の上からでも分かる硬さに変化ていく。
刺激を与えられるたびに握ったマントの端を鬼神は引っ張ったが、引くときの強弱から魔王は感じ易い部分を探り当て、その部分を集中的に攻め立てる。
「他人を変態呼ばわりしたくせにずいぶんここは正直なんだな、直接触れてもいないうちから……」
意地悪い笑い声と共に、"湿っているぞ"とロキは囁く。
「……まれ」
自分の意志ではどうにもできない現象を指摘され、オオクニヌシの頬に恥ずかしさによる赤みがさす。
外すことを忘れているのか、こうなった以上目隠しをされていた方が精神的に良いのか、どちらの判断によるものかは分からないが、手を解放されたにも関わらず鬼神は目隠しを外さない。
意志の強い赤みを帯びた金の目がどう変化しているのか、白い布の上から想像しながらロキは今になって目隠しをしたことを後悔した。
魔王は、布越しはなく履いているものの中に手を忍び込ませて、すでに滲んでいる鬼神の先走りを中指で掬い取る。
外にあったロキの指は冷たく、熱くなった中心との温度差に、オオクニヌシの足が動く範囲で蹴り上がって反応を示した。
ロキはそれ以上刺激を加えることはせず、再び自身の体の向きを変え、中指を鬼神の口もとへ運ぶ。
渇いた唇を濡れた指で擦り、そのまま口内へ侵入させる。
最初、舌は指の侵入を拒んだが、ロキが空いている方の手でオオクニヌシの目隠しを外すと、熱を持った視線を向けて指先を突付くように舐め始めた。
髪紐で結われていないふた房の髪を交互に梳きながら暖かい感触を楽しんでいた魔王は、ずっとマントを掴んでいた鬼神の両手が自分の肩に触れていることに気付いて指を抜く。
「次は、私の番だ」
声は掠れていたが、弱っているような印象を魔王は全く受けなかった。
ロキの手は鬼神の顔の輪郭を包み、オオクニヌシの腕はロキの首に絡む形で舌を絡め合う。
冷えた床の上に体を押し付けあいながら、まるでじゃれ合う様に2体の悪魔は互いの体を求め合った。
マッカの入った袋を真ん中に挟み、再びカウンター席でロキと人修羅は対峙した。
「これで文句は無いだろう、オオクニヌシは返してもらう」
元の5倍ぶんのマッカがあるか確かめもせず、ロキは厄介者を追い払う手つきでオオクニヌシを人修羅の元へ送り出した。
仲魔たちに安否を問われ、鬼神は適当な嘘を並べて部屋の中であったことをはぐらかす。
「よし、マハムド担当も戻ってきたことだし、そろそろ行くぞ!」
オオクニヌシの言ったことをそのまま信じたのか、不安そうにしていた少年は元気を取り戻して声を張り上げる。
もう行くのかと文句を言いつつ、すでに酒場から消えた主人をサルタヒコとピシャーチャが追う。
主人の代わりにニュクスにジュース代の支払いを済ませ、酒場から出て行こうとする鬼神の背に、魔王は声をかける。
「俺はいつでもここにいる、今の主人に飽きたら……」
苦笑と共に、オオクニヌシはロキの言葉を途中で遮った。
「私は頭の悪い悪魔が嫌いなんだ」
「その通りね」
ニュクスまで賛同し、ロキは大いに気分を悪くする。
しかしオオクニヌシを見送る魔王の顔には、いつか鬼神が再び自分の手の中へ戻ってくることを確信しているような、そんな自信が浮かんでいた。