■ 16 二人乗り
なにを食いどんな生き方をすればあそこまで暑苦しい赤に染まるのだろうか。
背中を向けて仁王立ちをしている鬼神トールのもとへ近付いて行くオニを、離れた位置で観察するナーガの喉が空気を飲み込んで音を立てる。
オニ本人は気配を消して歩いているつもりなのだろうが、見ている方が苛々するほどやり方がなっていない。
粗野な歩き方を変えようとしたところで、オニのちっぽけな知性では足音を完全に消す方法を編み出せるわけも無く。
それならばせめて息を潜めれば良いものを、生まれつきの鼻息の荒さは静まるどころか緊張のため激しさを増している。
なんの反応も見せないが、恐らくトールはオニの気配に気付いているだろう。
小物を相手にするためにわざわざ振り返るような面倒なことはしたくない。
そんな理由が頭に浮かび、かつて血の気の多い者ばかりが集うマントラ悪魔たちに畏怖されていた鬼の存在感にナーガは身震いする。
青白い蛇の真横には主人を乗せていないエリゴールの馬がいてブルッと鼻を鳴らしていたが、その馬もトールの背中から発せられる威圧感を感じているのかいつもの凶暴性を失っている。
握っている長細い武器を伸ばせばトールに届くという位置で、オニはいったん足を止める。
「でかい……っ!」
オニは大柄の部類に入るが、直立したトールと並ぶと、どうしようもなく小さな存在に見えてしまう。
トールが身を屈めてやっと頭ふたつ分くらいの差になるが、それでも身に纏う空気からして大物と小物の差は歴然としている。
そういった明らかな差をこの場にいる誰よりも感じているのはオニ自身だろう。
「やばくねぇか?」
唸るように呟き、ナーガは再び息を飲んだ。
オニとナーガは同じマントラ軍出身の悪魔だ。
とはいっても、カブキチョウ捕虜囚でマネカタをいたぶることに快感を覚えていたナーガと、イケブクロで暴れまわっていたオニとの間には、これといった繋がりは無い。
互いに言葉を交わすことも無く、イケブクロからオニがマネカタを連行してきた時のみ、カブキチョウで顔を合わせる程度だった。
人修羅の従僕という同じ境遇におかれるまでは。
同じ境遇におかれても2体の悪魔の間には性格の不一致という埋めようがない溝が広がっていた。
陰険な蛇と豪快なオニ、しかし、その共通点の無さが逆に相手に対する興味を生み、それはすぐに悪友という形にまで発展した。
どちらかといば頭脳派のナーガは、悪知恵を働かせてはオニを危険な行動に駆り立てて自分はそれを観察することを好んだ。
寝ているイヌガミの体をリボン結びにさせたり、アークエンジェルの兜についている旗の色を塗り替えさせたり。
彼らの悪戯は呆れてしまうほど小さなものばかりだったが、今回は悪戯の対象となる悪魔からして格が違う。
「トール様の際どい尻を、お前が持っている棒の先端で突付いてくるんだ」
今までのような小さな悪戯では満足できないと、尻尾の先に付いた鈴を鳴らしてナーガは訴えた。
当然オニは危険な提案を却下しようと厳しい顔でナーガに抗議したが、"臆病者"だの"でかいのは図体だけか?"だのと焚き付けられ、怒りに任せて引き受けてしまったのだ。
「安心しな、退路は確保しておくぜ」
全く信用に値しない保証のみが、オニとっての命綱となった。
普段は拭っても拭っても垂れてくる涎も、生死のかかったこの状況では口の中がカラカラに渇いてしまって出てこない。
威張り散らしていても案外気の小さいオニは、蛇に飲み込まれる寸前の身動きが取れない蛙のように固まってしまっている。
最も蛇と言っても目の前の蛇はナーガのような毒牙すら抜け落ちてしまったチビ蛇ではない。
大口を開け、長い舌で獲物を絡め取って丸呑みにする太く長い大蛇だ。
いつ、舌の代わりに巨大なハンマーが飛んでくるか分かったものではない。
「くうぅっ……」
眉間に皺を寄せて気を静めるように角を撫でながら、オニは挫けそうになる膝を気力を奮い立たせて支える。
素早く振り向いて後方を確認すると、自分の行動を固唾を呑んで見守っているナーガと馬1頭が目に入り、もう逃げられないぞとオニの背中を押す。
赤い皮膚の表面を冷や汗が何粒も流れ落ち、上着の背中部分はぐっしょりと濡れている。
「うぅぅ、くぅ」
トールは相変わらずなんの動きも見せない。
風でマントがひるがえると、尻に食い込むハイレグ具合が実に悩ましいパンツがはっきりと見える。
一瞬だ。と、オニは自分自身を勇気付ける。
ハンマーで殴られたとしてもきっと打撃に強い自分なら耐えられる。
ひょっとしたらトールは仲魔意識の強い悪魔で、尻を触られたくらいで怒るような真似はしないかもしれない。
あらゆる可能性がオニの頭の中でぐるぐる回転し、オニ自身が意識しなくても自然と武器を握る腕がトールの尻目指して伸びていく。
じりじりとせり上がってくる緊張感に口をぱくぱくさせて、ナーガは目を皿のように開けて様子を見守る。
武器の先端がマントをくぐり、あと少しで尻に触れるその瞬間、ナーガの横に控えていたエリゴールの馬が、この瞬間を待っていましたとばかりに甲高く嘶く。
すぐにトールが振り向こうと体を捩り、突き出された尻の片方のふくらみに、オニの固い武器の先端が触れて小さなくぼみを作る様を、確かにナーガは見届けた。
仮面から覗くトールの目が、凶暴な光を放つ。
「ひぎゃあああああっ!」
ハンマーに頭蓋骨を叩き割られる前に、かろうじてオニは走り出すことができた。
武器を投げ捨て転びそうな勢いで、両腕を挙げた格好のオニは必死の形相でナーガめがけて弾丸のように走る。
慌てたのはナーガとエリゴールの馬だった。
ナーガは、こちらも逃げようと蹄を鳴らす馬に尻尾を巻き付けて足止めしようとしたが、馬の馬力はナーガの体重を勝ったようだ。
ずるずると命綱の馬に引きずられていくナーガを見て、オニも気が気ではない。
「待てっ! 待ちやがれ!!」
馬とナーガのどちらに向けて言っているのかいまいち分からない。
トールが自分を追いかけてきているのか、確認する余裕など今のオニには皆無だ。
ナーガが槍を地面に突き立てて馬が走り出さないよう頑張ったおかげか、全速力で走ってきたオニはやっとのことで馬に追いつくことができた。
息を切らして馬の首を豪腕で押さえつけ、軽快とは言い難い動作でオニはエリゴールの馬に跨る。
「何だっ、動かねぇぞ?」
「待て、槍が地面から抜けねぇ……ふぎぎぎ……っ」
ナーガは奇妙な声を上げて槍を引き抜こうとしたが、抜く角度が悪いのか槍はびくともしない。
「早くしねぇかヘビ野郎っ 槍なんて捨てちまえ!」
そう言うとオニは強く馬のわき腹を足で蹴り、その痛みに驚いた馬が飛び跳ねる。
「あっ」
短い叫びと共に槍はナーガの手から離れ、抑えを失った馬は全速力で走り出す。
「うわぁ、やめろやめろっ、落ちる!」
馬の体に尻尾を巻きつけていたナーガはその勢いで吊るされるような体勢になり、悲鳴に気付いたオニが慌てて盾を掴んで馬上に引き上げた。
「危ねぇ奴だな」
ちょっと前まで自分の置かれていた状況も忘れて、オニはナーガに怒鳴り散らす。
「盾があるから掴まれねぇんだよ」
ナーガは怒鳴り返したが、オニに"盾なんか捨てちまえ"と言われ、ムッとした表情で口を結ぶ。
「冷てぇ!」
代わりに声を上げたのはオニの方で、林檎より赤い色の腹には先端に鈴が付いている蛇の尻尾が巻きついている。
ぞわっとした感覚に身を縮めるオニへ悪意の混じった笑みを向け、
「槍を捨てて盾まで捨てろって言うのか? それは流石にできねぇな」
とナーガは得意気に言い訳をする。
オニは舌打ちをしたが、熱を帯びた自分の腹に蛇の湿った皮膚が吸い付く感覚が心地よくなり、黙った。
ひんやりとした温度を感じながら、オニはぼんやりと考える。
なにを食いどんな生き方をすればここまで血色の悪い青に染まるのだろうか。
トールは追いかけてこなかったが、2体の悪魔を乗せた哀れなエリゴールの馬は、息が切れて走れなくなるまで全力疾走を続けた。