■ 忠誠証明法

新宿衛生病院の地下は、地上よりも冷えた空気で満たされていた。
受胎が起きた日のままで時が止まってしまったかのように、血痕は拭き取られずこびり付き、廊下に散らばった紙類が片付けられる気配も無い。
座れと命じられて腰掛けたベッドに弾力は無く、マットレスの表面は手袋を外した指に不快な湿り気を伝える。
陰鬱な室内に息苦しさを感じ、クー・フーリンは不安の強い眼差しを自分をここへ連れてきた人修羅へ向けた。
ぼんやりと発光する模様が描かれた背中が、自分が座る場所も確保しようときびきび動いている。
なにも敷かれていないベッドの上に他の部屋から取ってきた血痕付きのマットレスを敷き、その上をビニール製のシートで覆う。
「そこで僕は悪魔として生まれ変わったんだ、第二の故郷というかなんと言うか」
完成したベッドを叩き、自分が座っても大丈夫か確かめながら、独り言のような軽い調子で人修羅が教えた。
クー・フーリンは1度だけ頷いたものの、返す言葉が見つからずに沈黙する。
完成したベッドを幻魔が腰掛けているベッドと向かい合う位置まで運び、一息ついた人修羅は笑顔と共に改めて先ほどの言葉を繰り返した。
「そこ、僕が生まれ変わった場所だよ」
「えっ、はい」
室内の雰囲気に気をとられていたクー・フーリンは、主人の顔を見て初めて実感がわいたのか、奇妙な物を見る目で自分が腰を下ろしているベッドに視線を落とした。
軽い笑いに混じって"変なヤツ"という言葉が聞こえ、幻魔は散々な気分になった。
「ごめんごめん、面白い奴を見るとついそう言っちゃうんだよ」
謝っている割に反省の色は無い。
両拳でバンバンマットレスを叩き、先ほどより酷くなった人修羅の笑い声はこれでもかと幻魔の神経を攻撃する。
主人の屈託無い笑顔は自分にとっての安らぎになるが、馬鹿笑いは毒になるという新たな知識を身に着け、クー・フーリンは苦渋のひと時を耐えた。
「そう、それで……どうだろう?」
人修羅は今までの大笑いが嘘だったかのように急に話題を変え、室内の空気が一瞬にして張り詰める。
「"どう"、といいますと?」
本題に入ったことを知り、背筋を伸ばすクー・フーリンに、人修羅は自分の心臓を人差し指で軽く突付いて短い言葉で説明をする。
「忠誠」
「いかなることがあろうと、揺るぎません」
主人に息を吸う暇を与えれば己の忠誠を疑われるとばかりに、生真面目な幻魔は驚くべき速さで勢い良く肯定する。
「へぇ」
感心したようにも馬鹿にしたようにもとれる曖昧な返事をして、人修羅は腕組みをした。
慎重さが伝わる金の瞳が正面から幻魔を捉える。
意地悪な性格ではあるが、それほど猜疑心の強い方ではない。
セタンタとして仲魔に加わってから共に行動する中で固定された人修羅に対するイメージと反する結果に、クー・フーリンは眉根を寄せる。
わずかな沈黙の後、人修羅が口を開く。
「僕にはどうも分からないんだよねぇ、その……、なんでこんな僕にお前が絶対的な忠誠を誓えるのか、とか」
言い難そうに間を空けたのは、自分の忠誠を疑ってよいものかと迷っているのではなく、単なる演出だとクー・フーリンは受け取った。
本当に迷っているときの人修羅は、伝えたいことを胸の奥に仕舞い込んで言葉に出さない。
はっきり伝えてきたということは、人修羅の中で忠誠を疑う気持ちが言葉に出さずにはいられないほど強いということを示している。
自分の忠誠が疑われている事実より、その事をわざとらしく告げた主人の態度に、クー・フーリンは強い苛立ちを感じて口をきつく結んだ。
「誤解しないでくれ、疑っているわけじゃないんだ」
険しい表情から思っていることを察したのか、人修羅がそう付け加える。
「ほら、僕らが次に向かうところはカグツチの塔だろ? 決戦の場所だろ? その前に確かめておきたいんだよ、お前たちの忠誠を」
なんだそんなことかと安堵のため息を吐くほどクー・フーリンは気楽になれなかった。
力を抜くどころか、かえって全身に力をいれ、真剣勝負に臨む気迫で人修羅に挑む。
「なにをすれば、マスターへの忠誠を信頼していただけるのでしょうか?」
言葉でいくら伝えても主人が安心できないのなら行動で示すしか道は無いし、人修羅もそれを望んでいる。
自分と向き合う主人から"行動で示せ"という無言の圧力を感じたクー・フーリンは、"なにを言えば"ではなく、敢えて"なにをすれば"と訊ねた。
幻魔が予測した通り、人修羅自身、その言葉を待っていたのだろう。
聡い仲魔を見る目が、喜びを感じて細まった。
「そうだな、絶対の忠誠を誓っているのなら、どんなに嫌な事だって主人の命令ならしてみせるだろ?」
無言のまま、クー・フーリンは頷く。
「お前にとって嫌なことって何? 名誉が汚されること?」
幻魔は目を瞑って自分の心に問いかけているようだった。
ガキやコダマが彷徨っていて不気味ながらも賑やかなはずの廊下は生き物の気配を感じさせず、どこかの機械が立てるモーターの唸りがやけに大きく響く。
「その通りですがマスター、貴方に仕えている今、貴方に軽蔑されることを私は最も避けたいと願っているようです」
正直に応えることで誠実さを見せた幻魔に、
「そうなんだ……」
と、腕組みを解いた人修羅は興味を示し、ベッドから投げ出していた足を交互に揺らした。
その表情は、意地悪を企むときのものと似ていた。
「僕が軽蔑する悪魔はねぇ、目の前で嫌がることや蔑みたくなるようなことをする悪魔だよ」
"はぁ"とだけクー・フーリンは応じた。
困ったというより悪い予感がするのでその具体的内容は聞きたくないと言いた気な消極的な声だった。
「例えば、僕の前で自慰するとか」
誰も頼んでいないというのに具体的内容を人修羅は口にした。
こういう他者を不幸のどん底に突き落とすことに関しては、それこそが自分の得意分野であるかのようにイキイキと語る。
"もちろん忠誠心を見せ付けるためにやってくれるだろう"と、期待に瞳を輝かせる主人へ幻魔は軽蔑の眼差しを向けた。
「マスターが私を軽蔑なさる前に、私が貴方を軽蔑しますがよろしいですか?」
「構わないよ」
即答。
1度流れが定まれば梃子でも動かしようの無い主人の悪趣味な一面を覗き、クー・フーリンは呆れてため息を吐くことさえできない。
「私はマスターを軽蔑したくはありません」
主人を説得するために最も怒りを込めて言うべき言葉は迫力の欠片さえ無いもので、幻魔は掌で額を押さえてうつむく。
「僕は軽蔑して欲しいな」
人修羅の悪意に満ちた声は、気味が悪くなるほど優しい。
うつむいたまま首を左右に振りながら、クー・フーリンは自分が悪夢を見ているのではないかと疑い始めた。
今までの記憶に存在する人修羅は意地が悪いが、ここまで異常な一面を見せたことは無かった。
そういえば主人はいつ新宿衛生病院に立ち寄っただろうか、そもそも他の仲魔たちはどこで何をしているのか、なぜここはこんなに静かなのか。
現実から逃避したいという意識も手伝って、疑惑だったものが確信に近づいていく。
"悪夢を見ているに違いない"と決め付けることにより、クー・フーリンの気分はだいぶ楽観的なものになった。
「分かりました、それでマスターが私の忠誠を認めてくださるなら」
人修羅は驚いた様子もなく頷きながら満足そうに笑っている。それが悪夢であるという確信をより強めた。
 この夢はサキュバスやインキュバスが見せているに違いないと幻魔は自分に言い聞かせ続ける。
そうでもしない限り、羞恥で気が狂ってしまいそうな状況に彼は居た。
「いい眺め。遠慮せずに声を出してもいいんだよ」
からかうような声に、クー・フーリンは煩そうに首を振る。
「卑猥な眺め。襲ってやりたくなる」
軽い調子の声から一転、低く狂おしい声が幻魔の聴覚を刺激する。
人修羅と目を合わせないよう視線を床に向けたまま、長い黒髪が緩やかに揺れる。
視線は合わせていないものの、見られているという感覚は目を瞑ってもクー・フーリンに付きまとい、感覚を必要以上に鋭敏にした。
「私以外の仲魔にも、このようなことを?」
口を動かして思考を働かせていた方がまだ気分が楽なのか、自分以外にもこの行為を強要したのかと幻魔が訊ねた。
「そうだよ」
答える声に罪の意識は無く、子供が喧嘩に勝ったことを報告するような自慢気な響きさえ含まれている。
指を折って確認しているのか、ひーふーみーと犠牲者の数を数える陽気な声が続く。
「他の者はどのような反応を?」
訊ねてしばらくしてから人修羅の気配は幻魔の真横に移動し、耳を覆う髪を除けて口を近づける。
生暖かい息がかかり、ゾクッと背中の皮膚があわ立つような感覚がクー・フーリンの中を走り抜けていく。
「アマテラスは自分から進んで見せてくれたよ。ラファエルに強制したら不潔とか穢れた悪魔とか散々罵られたよ。
オーディンには殺されかけたよ、見せてくれたけど。オオクニヌシには途中で上手いこと逃げられた」
「逃げた?」
どうやってと訊ねようとした直後に自慰を行う手に人修羅の手が重なり、クー・フーリンは言葉を詰まらせる。
「お前がいちばん気付くのが早かった。逃げるタイミングはラファエル並みに遅いけど」
囁く声と共に視界を闇が取り囲み、新宿衛生病院の一室を真っ黒く塗りつぶしていく。
"楽しかった"
サキュバスらしき悪魔の声を聞きながら、幻魔はゆっくりと目を開く。
やはり夢だったとほっとする反面、尾を引くような甘い痺れとそれに伴う心地よい気だるさに、ある種の物足りなさを感じながらクー・フーリンは眠気の残る目を擦った。



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