■ 無題
「もういい、話し合うだけ無駄です!」
苛立ちが最高潮に達した少年の声が部屋いっぱいに響く。
各部屋は頑丈な壁で隔てられているが、その声の大きさは隣の部屋で寝ている者も叩き起こすだろう。
「勝手にしろ」
応じる声は音量こそ抑え気味だが、言葉に含まれる感情は相手のものより激しい。
言い合いをしている最中だというのに、お互い顔を合わせるのも嫌なのか、どちらも目は床に向いている。
一時的な感情に冷静な判断を失っているという状況は同じでも、2体の表情には明らかな差が見られた。
ただ単に怒っている顔と、悔しくて今にも泣き出しそうな顔。
一方の悪魔の固く結ばれていた口から嗚咽にも似た声がもれる。顔を上げれば涙がこぼれ落ちそうだ。
「勝手に……しますっ」
敗北を認めることにもなる泣き声を吸った空気と一緒に飲み込み、上ずった声で宣言をする。
宣言した途端に涙が頬を転げ落ちた。
「だからお前は成長しないんだ。年上の言葉を素直に聞けず、反抗する口ばかりは一人前で……」
手加減なしの言葉に少年の喉が震える。その場に留まることは、もうできそうもなかった。
ドアが開く音に、少年をやり込めようとしていた相手がはっとして顔を上げる。
わずかな後悔が滲む目は、少年が身に着けているマントの端っこさえ捉えることはできなかった。
「クー・フーリィーン?」
少年の代わりに、何か企んでいるような笑顔で部屋に入ってきたのは人修羅だった。
決まり悪そうに普段通りの冷静さを装うとする幻魔を見上げ、
「セタンタが泣きながら走り去っていったよ」
と事実のみを伝え、ニヤニヤと口の端を上げる。
気を悪くしたのか、何か言いかけたクー・フーリンはムッとした表情で口を閉ざす。
「あっ、その顔でセタンタを虐めたんだ」
"クー・フーリンのばかぁー"と涙ぐむ真似をしてふざける主人に、幻魔の眉間にきつい皺が寄っていく。
「自分の進むべき道を迷っている貴方に他者を構っている余裕があるとは思えませんが」
辛辣な物言いに人修羅の顔が泣きまねをしたまま強張る。
感情に任せて言い過ぎたと幻魔はまた後悔し、そんな自分に対する嫌悪感を振り払うように首を振って突っ立ったままの主人を残して部屋を出た。
部屋の外に出ると、悪魔や思念体たちが発するたくさんの声と物音がクー・フーリンを包み込んだ。
乾いた口に淀んだ空気を吸い込み、胸にたまった想いと共に深いため息として吐き出す。
幻魔としては誰にも邪魔されない場所で落ち着いて考え事をしたいところだが、少し歩くと向かいから煩そうな悪魔が姿を現した。
「最悪だ」
口に出した感情を隠す様子もなく、自分を呼び止める相手に背を向けて早歩きで立ち去ろうとする。
しかし逃げる足を、
「あっれー、セタンタじゃないか?」
という声が引き止める。
恐る恐る確認しようと振り返った幻魔の視界いっぱいを見たくなかった顔が占領する。
「何故逃げるんだろうねぇ?」
引っかけ発言で上手いこと幻魔を釣ったオオクニヌシが、額がくっつきそうな至近距離で意地悪く囁く。
引っかけ方からして、セタンタとどこかで接触したことは確実なようだ。
一度捕まえたらどう頑張っても逃がしてくれそうもない鬼神を前に、クー・フーリンは降参と言いた気に手で額を押さえて天井を仰いだ。
移動してまでじっくり話し合いたくないという幻魔の意向で、2体の悪魔は通行の少ない階段に座って話し込んでいた。
「あーはいはい、そんなことだろうと思った」
自分から首を突っ込んできたというのに、クー・フーリンが話し終える頃のオオクニヌシは飽きた顔だった。
幾分投げやりに感想を述べ、面倒くさそうに首筋を掻く。
逆に、始めの内は嫌そうだったクー・フーリンの方が、物足りない顔で渋々口を噤んだ。
「お前が無理に考えを押し付けるからそうなるんだ、自分の考えが世界の法則だと思っているに違いない」
「そんなことはない」
オオクニヌシの決め付けを、すぐにクー・フーリンが否定する。
「いや、そうに違いない」
言い張る横顔は、よく見れば頬が腫れて赤くなっている。
そのことに気付いた幻魔が触れようと手を伸ばすと、察した鬼神が素早く手のひらで覆った。
「喧嘩でもしたのか? ……女悪魔と」
遠慮がちに付け加えられた言葉に対し珍しく動揺したのか、オオクニヌシは忙しなく瞬きする。
その様子を面白そうに眺め、クー・フーリンは同情の言葉を呟いた。
「拳で殴られた痕だ、相当気の強い女魔を怒らせたな」
気難しい顔でしばし考え込み、鬼神はため息混じりに頷く。
「いつもは平手打ちなんだ、私のときに限って拳で殴る癖がある」
その言葉に奇妙な感覚を覚えたものの、心の傷に触れると思ったのかそれ以上は言及せずに腰を上げる。
「和解するのか?」
訊ねられて軽く首をかしげ、
「セタンタがその気なら」
と自信なさそうに曖昧な笑みを口元に浮かべる。
"頑張れ"と手を振ってやる気のない応援を送るオオクニヌシに呆れた顔を見せ、"お前もね"と手を振り返す。
途端に鬼神は渋い顔になったが、その変化を見届ける前にクー・フーリンは気持ちをセタンタの捜索に切り替えた。
セタンタはクー・フーリンがオオクニヌシと話し込んでいた方とは逆の位置にある、もう一方の出口に続く階段にぽつんと座っていた。
幻魔が近づくと、唸りはしないもののまるで番犬のように険しい目で睨みつけて威嚇する。
「和解する気ゼロ」
のん気に状況を判断しながらも、なんとかしようというやる気はあるのか、構わず近づいていく。
あと数歩のところまで接近され、セタンタはクー・フーリンの出方を注意深く窺いながら腰を浮かせる。
「そのまま」
手で座れと指示され、腰を下ろそうとしていた妖精は頬をふくらませてすぐに立ち上がった。
段差が背丈の差を埋め、クー・フーリンとセタンタは、片方が屈むことも見上げることも必要とせず、顔を見合わせた。
「和解するにはどうすればよいと思う?」
訊ねられたセタンタは、何故か自信満々に答えを述べる。
「お互いを理解するためにも殴りあうべきだと……」
少し間を空けてから、ある悪魔が教えてくれましたと付け加えた。
オオクニヌシの腫れた痛々しい頬を思い出し、思わず自分の頬を手で押さえ、
「もう少し平和的な解決方法にしないか?」
と幻魔は提案する。
かといって、争いの元になった問題について長々と話し合うことがなんの意味も持たないことは、お互い経験済みだった。
「もう少し平和的な方法ですか?」
拳で語り合いたかったのか、不満そうに腕組みをしたセタンタはじっとクー・フーリンを見つめる。
真剣な目に、幻魔が厄介な和解条件を持ち出されるのではと心配し始めた頃、名案を思いついたのか妖精の顔が明るくなった。
2段目に立っていたセタンタが階段を一段上る。納得いかないと首を横にふってもう一段上る。
段差よっつ分だけ高い位置から幻魔を見下ろし、うーんと悩んでからもう一段。
離れていくセタンタを目で追うクー・フーリンは見上げる格好になり、自分も階段を登ろうと片足をかける。
「だめです、そこにいて下さい」
6段目を上ろうか迷っていたセタンタが、慌てて2段降りて幻魔の肩を両手で押さえて制止する。
前屈みの姿勢で伸ばされた妖精の手は姿勢を元に戻すためにクー・フーリンの肩へ体重をかけ、その反動で支えとなった幻魔の身体がふらつく。
3段目に落ち着いたセタンタは、段から足を下ろして怪訝そうに自分を見上げる青年を、腰に両手をあてた格好で満足そうに見下ろした。
「いつもと立場逆転です。この位置関係で改めて話し合いをするというのはいかがでしょう?」
鼻の下を指で擦り、白い歯を見せて意見を求める。
妖精の企みが判明し、幻魔は呆れ顔で億劫そうに頷いた。
「構わない、先ほどと同じ結果になることは分かっているからな」
揺るぎない自信を感じさせるクー・フーリンの発言に対し不愉快だと言いた気にきつく眉を寄せ、
「何故そう言いきれるんですか?」
と頬を膨らませて抗議する。
そんな反応に疲れたように肩をすくめ、それでも目に優しい色を浮かべて諭すような口調で幻魔は告げた。
「お前自身よりずっと、私がお前のことを大切に考えているからだ」
どちらかといえば大人びている少年の顔がほんの一瞬だけ赤くなり、その変化を隠すようにすぐにムッとした子供らしい表情に変わる。
口元まで覆っているマフラーを外しながら一段降り、長い布の片端を手袋をしたセタンタの手がクー・フーリンの首に引っかけた。
柔らかい布に引き寄せられる形で幻魔の姿勢は前屈みになり、長いマフラーのもう片一方の端っこを、セタンタは自分の首に引っかける。
二段分の段差の上で、2体の悪魔の距離を一枚のマフラーが繋ぐ。
「それなら貴方も私には敵わないはずです、なぜなら……」
階段を一段クー・フーリンが上り、張られていたマフラーにたるみができて地面の細い影が揺れる。
一段の差では埋まらない背丈の差を恨めしく思いながら、妖精はいったん閉ざした口を開く。
「貴方が私を想うよりずっとずっとずっと、私は貴方のことを大切に想っているからです」
言い終えてから恥ずかしそうに下唇を噛んだものの、妖精の視線はしっかり幻魔の目を捉えている。
羞恥と不安でいっぱいの顔は、自分の言葉がクー・フーリンにもたらした変化を見るや否や、はにかみつつ喜びでいっぱいになった。
セタンタと同じ表情では格好が付かないと思ったのか、一段下がって距離を置くことにより感情を落ち着けようとする幻魔を、妖精の両腕がしっかり引き止める。
2つの影がひとつになり、最初は一本の線だったマフラーの影は、ほぼ点となって悪魔たちの不安定な関係と同じくゆらゆらと動いた。