■ 銀らぶ
鳴海とライドウだけの探偵所は静かなものである。
依頼の電話が鳴るかタエが顔を出さない限り、室内に響くのはタイプライターを打つ音ばかり。
しかし、その日の探偵所は、帝都に被害を及ぼしていた巨大ロボットが崩れ落ちて野次馬だらけの晴海町なみに騒がしかった。
「てやんでぇオレをリスペクトしやがれ!」
攻撃が連続して命中し気分が高まったときに、血気盛んな一部の悪魔がよく叫ぶ言葉だ。
だがそれは戦闘中であればの話。戦う敵の気配すら無い探偵所の室内で叫ぶようなものではない。
「黙れヨシツネ」
場違いな大声を耳に入れないよう人差し指で栓をしたライドウが騒ぎの中心悪魔を叱る。
つい先ほどまでその場には鳴海もいて迷惑そうに悪魔を睨んでいたが、数分経っても収まらない煩さに嫌気がさしてどこかに出かけていってしまった。
残されたのは14代目とヨシツネとパールヴァティという、つい先ほどまで麻雀でひとつの机を囲んでいた者たちだ。
「だいたいお前、"りすぺくと"とよく言うが、意味を分かって使っているのか?」
召喚主に疑いの目を向けられてヨシツネは一瞬ウッと口ごもる。
それも一瞬のこと、威張るように腰に手を当てて胸を反らせると、
「馬鹿にすんじゃねぇ!」
と否定する。
「それなら構わんが、1位のパールヴァティや2位の所長ならともかく、最下位のお前からリスペクトしろと言われてもなぁ……」
再び疑惑の目を向けられ、ヨシツネは気まずさを吹き飛ばそうとするように豪快に笑う。
悪魔の声を聞くことのできる人間がいれば、近所迷惑だと怒鳴り込んで来ただろう。
ここにきて常に冷静さを失わない14代目も、流石に我慢の限界がきたようだ。
しかし、我を忘れてライドウが大声を出しそうとした瞬間、ふんわりした手のひらが大きく開いた口を覆った。
「まあまあ堪忍してあげなライドウちゃん、ずーっと狭い管の中にいて鬱憤がたまっとるんよヨシツネちゃんは」
春の日差しのような和み効果のある声が苛立ちで煮え立っていた場の空気を一気にクールダウンさせる。
パールヴァティのフォローを聞いたライドウは怒りを抑えるように腕組みをして、"そうか?"と訊ねるような視線をヨシツネに送る。
ヨシツネは心外だと言いたげに眉を吊り上げたが、パールヴァティに
「ね? ヨシツネちゃん」
と優しさの中に反論を許さない強さのこもった声で同意を求められ、どこか怯えたふうに頷いた。
そうだったのかと納得した様子の14代目の腕にパールヴァティが甘えるように自分の腕を絡ませる。
「おばちゃんも退屈やったから息抜きがほしいわぁ、銀ブラしてみたいんやけど」
と悪戯っぽく囁き、ライドウの頬っぺたに指でのの字を書く。
口調は近所のおばちゃんそのものだが、見た目は美人で仕草などは妙に色っぽい。
そのギャップに打ち勝つことは難しいのか、すぐに"駄目です"と断ることもできず純情な14代目は困ったようにうーんと唸る。
「あっ、その……でもなぁ、この後は深川で佐竹さんから情報を仕入れる予定だしなぁ」
口の中でもごもご言い訳をするライドウの耳に、最後の止めとばかりにパールヴァティが甘い息を吹きかける。
"あぅっ"と変な声を漏らして顔を真っ赤にする14代目に軽く笑いかけ、
「ライドウちゃんがどーしてもダメなら、おばちゃんヨシツネちゃんと行くからええよ、お土産はちゃあんと買ってきてあげるから」
それまで口を挟まず成り行きを見守っていたヨシツネが、名前を出された途端に期待に顔を輝かせる。
逆にライドウは不満そうに顔を顰めた。
これではまるで遊女に誘惑されるだけされて後はお預けよと上手いこと言いくるめられ、お金だけ巻き上げられた情けない男のようだ。
「ヨシツネは問題を起こすかもしれないし、今になって風間刑事に睨まれたくはないからな」
頭の中ではヨシツネだけにいい思いをさせてたまるかという嫉妬の嵐が吹き荒れているようだ。
かといって自分も行くと言い出せば、仲魔の色気にひっかかったようで主人としての面目を失う。
どうしようかと迷った末に、14代目は胸元から管を取り出した。
「なぜ我がこのようなめに……」
召喚主を呪うように呟く悪魔とは違う不満を抱え、ヨシツネもまたつまらなそうに唇を尖らせる。
14代目葛葉ライドウの仲魔たちは気晴らし目的の銀ブラを許され、帝都炎上騒ぎが収まったばかりでまだ陰鬱とした雰囲気の残る銀座へやって来た。
銀座に着くや否や、
「お買い物!」
と叫んで走っていってしまったパールヴァティに取り残され、2体の悪魔はしばらく呆気にとられてぽつんと道の真ん中に突っ立っていた。
やがて我に返ったヨシツネがデートは無理だったかと舌打ちして歩き出すと、もう1体の悪魔がすぐ後ろから付いてくる。
「ついてくんじゃねぇよ、ジークフリード!」
自分の思う通りに物事が運ばなくて腹立たしいのか、振り返ったヨシツネが乱暴に突き放す。
八つ当たりされたジークフリードも黙ってはいない、威嚇するように剣を下から上へ振り上げ、
「ライドウの命でなければ、キサマらの監視役など土下座されても引き受けぬ」
と吐き捨てた。
迷った末にライドウはパールヴァティとヨシツネのデートを阻止するために、お目付け役としてジークフリードを共に行かせる事にした。
ジークフリードとしては"なぜ我がこのような雑用を"と嘆きたい気分だが、忠誠を誓ってしまった手前、主人の命令に逆らうことはできない。
それで渋々ついて来たというわけだ。
最も、パールヴァティは最初からヨシツネたちと銀ブラをするつもりはなかったらしく、ライドウの策は無用だったのだが。
ジークフリードとヨシツネでは、後者の方が背が高い。
そのため上から睨み返されるような形になり、ジークフリードはわずかに前屈みになり構えの姿勢を見せる。
ヨシツネは身構える仲魔を睨んだままふんっと鼻で笑った。
あからさまに馬鹿にした態度に気を悪くして歯をギリッと噛み締める仲魔に背を向け、ヨシツネは人も疎らな大通りを再び軽い足取りで行く。
「くッ……!」
ジークフリードの全身に殺気が漲ったが、背後から斬りつけるような卑怯な真似はできないらしい。
グッと怒りを飲み下して構えを解くと、小走りで小さくなっていく赤い背中を追った。
大通りから脇道に入り、壁に飾られた巨大な看板を数分眺めてまた大通りに戻る。
記者たちが慌しく走り回る新聞社を覗き、たいして面白くないと判断したのか何もせずに立ち去る。
一貫性のないヨシツネの行動に振り回されながらも、姿を見失わないようにジークフリードがぴったりと後をつける。
お目付け役は無視することに決めたのか、行動を再開したヨシツネはいちども振り返らない。
それはそれで気が楽だが、追跡しながらジークフリードは不思議と物足りなさも感じていた。
端から端まで一通り大通りを歩いてしまうと、銀座見物に飽きたのか、ヨシツネは欠伸しながら背筋を伸ばす。
この頃になるとジークフリードも退屈しきって気が緩んでいた。
ヨシツネが停車している車に寄りかかって休んでいることを確認すると、自分も近くの段差に腰を下ろしてため息をつく。
パールヴァティを見つけ次第、召喚主が情報収集に出かけている深川に行こうと誘うつもりだった。
しかし、人間に化けて買い物を楽しんでいるのか、ヨシツネの後を追う間パールヴァティらしきピンク色を発見することはできなかった。
楽しみを感じないどころか不快感のみが募る行為を続ける今の自分を嫌悪しながらも、ジークフリードは与えられた命令を放り出すことができない。
「このような任務、次はどう脅されようと断ろう」
誓いを口に出し、ふと顔を上げて車の方へ目を向けたジークフリードは慌てて立ち上がった。
ほんの数秒目を放した隙に、そこにあったはずの真っ赤な鎧は消え、車のみがぽつんと停まっている。
いったいどこに消えたのかと視線を彷徨わせるジークフリードの耳に鉄が擦れ合うような重い音が聞こえてきた。
「そこかっ?」
音のする方へ目を向けると、ちょうど軽やかな身のこなしで階段を駆け上っていくヨシツネの姿が映る。
完全に階段を上りきってしまう前に一度だけ振り返り、ジークフリードが自分を見上げている階下へ顔を向けてにやっと笑う。
なにか企んでいるような笑みに危険を感じながらも、なにが待ち構えているのか知りたいという好奇心の方が強く働き、ヨシツネの笑みに誘われるようにジークフリードも階段を数段飛ばしで駆け上った。
階段を上りきると、柵に囲まれた白い通路に出た。
ジークフリードが左右に目を走らせると、大通りに面した柵から身を乗り出すようにして下を眺めているヨシツネの姿を捉えた。
「しつこい野郎だねぇ」
気配を察したのか、大通りを眺めたままヨシツネが面倒くさそうに文句を言う。
ジークフリードが黙っていると、"そんなにオレのことが好きなのかねぇ?"などと付け加え、愉しそうに肩を揺らして笑った。
「……パールヴァティを見つけてライドウと合流する」
静かに言い放つと、ヨシツネは笑うのを止めて大人しくなった。
風が強くなり、ヨシツネの長い髪の毛を乱す。
散々踏みつけられてただの紙屑となった帝都が炎上したときの号外が風に煽られ、ジークフリードの目の前を横切る。
ほんの一瞬視界が閉ざされ、"しまった"と思い紙屑を手で振り払ったときにはすでに遅かった。
ヨシツネは地面を蹴って柵を越え、空中に身を躍らせる。
迷う余裕はなかった。ジークフリードは矢のように走り、落下地点を確認することなく柵を乗り越えた。
すぐ真下に留まるヨシツネが降ってくる自分から身を避けようと慌てふためく様子を面白いと感じたのも束の間、ジークフリードは派手な音を立てて赤い鎧と衝突する。
逃げ切れないと瞬時に判断したのか、ヨシツネはまるで降ってきた仲魔を抱き止めるように腕を大きく広げた体勢でジークフリードを迎えた。
「うぅっ、おのれ……」
叩きつけられた痛みにジークフリードが呻いていると、その体の重みに耐えかねたヨシツネが這い出そうともぞもぞ動く。
くすぐったさに初めて自分が押し潰している者の存在に気づいたジークフリードは、今までの恨みを込めてわざとゆっくり上半身を起こす。
「うぁっ、くそっ、早くしやがれこの野郎!」
悲鳴を上げるヨシツネの顔をいい気味だと見下ろし、気分を良くしたジークフリードは銀座に着いてから初めての笑みを口元に浮かべる。
それに応えるようにヨシツネも痛みに耐えて笑顔になると、急に地面が揺れて周囲の景色が動き出す。
「へへっ、着地成功」
得意気に宣言するヨシツネから視線を前方に切り替えると人間の背中が見える。
どうやらヨシツネは大通りに人力車が停まっていることを計算に入れて飛び降りたらしい。
動き出した人力車に揺られながらジークフリードは改めて銀座の街並みを見渡す。
それは、不満を抱え赤い背中を追いながら見た時よりずっと面白みがあり興味を惹く景色だった。
ジークフリードは"痛てて"と額を押さえているヨシツネを再び見下ろしながら、銀ブラもそんなに悪いものではないという感想を抱いて心地良さそうに帝都の空気を吸い込んだ。