■ 金魚鉢
その日、行く先も告げずにふらりと出かけていった鳴海が土産として持ち帰った物は金魚だった。
譲り受けたにしろ買ったにしろ、金魚を持ち帰ったこと自体に問題は無い。
ただ、急に探偵所に引っ越すことになったとはいえ、あまりにお粗末な居住環境に14代目葛葉ライドウが眉を顰めただけだ。
中身をこぼさず持ち帰った努力だけでも褒めるべきか。
鳴海が慎重に持つ皿いっぱいに注がれた水の中で、赤い魚が三匹ほど窮屈そうに揺られている。
「鉢を買ってきます」
所長を迎えて数秒、重々しいため息のあと入れ替わりで買い物にでかけようとするライドウへ、皿の中の赤が急かすようにビチビチと水音を立てた。
「こうして見ると、なかなか綺麗なものじゃないか」
無関心な猫は窓の外、探偵所の所長と見習いの2人で新たな住人を囲む。
どちらも金魚に対してそれなりに興味を持って眺めているはずだが、その表情は異なっている。
鳴海は感情そのままを顔に出しているが、ライドウは関心がないふうを装い腕組みをして気取っている。
しかし、若い好奇心は隠し切れないのか、
「はははっ、横から見るより上から見る方が面白いな」
などと鳴海が笑うと、すぐに視線が上方に移る。
しばらく金魚の動きを堪能した後、からかうような鳴海の視線を感じて少々赤くなった頬を隠すように斜め下へ顔を向けてしまったが。
「なんですかっ……!」
顔を逸らしてもまだ自分に向けられたままの所長の視線に不快を覚えたのか、ぶっきらぼうな口調でライドウが訊ねる。
怯みもせず"別にぃ?"とふざけた返事をしてから、鳴海は再び金魚に視線を戻す。
「生き物を飼うのはこれが初めてではないと思ってね」
ライドウの眉がぴくりと動く。
犬か猫かもしくは女か、たちの悪い好奇心がすぐに探偵見習いの頭をいっぱいに満たす。
そういった邪推が漏れて伝わったのか、鳴海は焦らすそぶりを見せる。
「ライドウが飼ったものを教えてくれれば言ってやってもいいけど?」
鬱陶しい髪をかき上げる所長の口元が悪戯っぽくゆがむ。
そう訊ねられても、ライドウはすぐに答えられず言葉に詰まる。
ゴウトは飼っているのではなく、むしろお目付け役という意味では自分のほうが飼われているようなものだ。
難しい顔であれこれ悩んだ末に胸元の管を取り出して、
「あ、悪魔、この管の中に悪魔を飼っていますよ」
と指差しながら苦し紛れの答えを返した。
「そういえばそうだったな」
ライドウが予想したより鳴海はその答えを自然なものとして受け入れたようだ。
むしろ、麻雀の勝負でライドウが"鳴海には見えないがなにか"を呼び出すところを何度も目撃しながら、詰まらない質問をしてしまったと後悔の念で肩を落とした。
「……、ライドウという名前の生き物だよ、扱いが難しくてねぇ、苦労しているんだ」
それが焦らされていた答えだとライドウが思い至るまで、わずかな間があった。
その微妙な間に何を思ったか、鳴海は憎めない顔にふて腐れた表情を浮かべ、納得のいかない様子の見習いへじっとりとした目を向ける。
「好きでここに居るわけでは……」
「なかなか懐いてくれなくてさぁ、大変なんだ」
意味に気づいてすぐに所長の言葉を否定しようと早口で言い訳を並べるライドウを制し、飼い主としての苦労を大げさな手振りを交えて主張する。
ライドウはそんな愚痴に返す言葉もなく口をきつく結んでいたが、残念ながら鳴海の飼っている生き物は、反論なしに引き下がるような気性の持ち主ではなかったようだ。
「悪魔だって最初から懐くわけじゃないんだ。飼い主の愛情を感じ取って少しずつ心を開いて相手を信頼するようになるっていうのに」
"人間である自分がそう簡単に懐くわけがない"と続けるライドウの声に、"愛情ならたっぷりかけて……"という鳴海の小声が重なる。
その瞬間、奇妙な息苦しさを感じてライドウは喉を撫でた。
飼われているというのなら、いつか国津の悪魔が言ったように自分はヤタガラスの飼い狐という立場にある。
飼われるということは、あまり良いことではない。
行動を縛られ、立場を縛られ、いつか心までも縛られてしまう、そんな不吉な予感を抱かせる。
充分な深さのある鉢で泳ぐ金魚を視界に収めながら、ライドウは浅い皿の中で苦しそうに跳ねる赤を連想し、苦い味をかみ締めた。