■ タイプライター
猫の手にタイプライターは酷。
肉球が腫れて痛くなるから、腕と足が筋肉痛になるからか。
しかし、報告書を作成したと思われる日の翌日、酷使した手も加えた四本足で大正の街をライドウの後を追って走るゴウトは辛そうな様子を一切見せなかった。
14代目ライドウに心配されるのが嫌だから平気なふりをしていたのだろうか。
"真相は黒猫のみぞ知る"だが、弱音を書き加えずにはいられないほどの重労働であったことは間違いない。
では、悪魔の手にタイプライターならどうだろうか。
その疑問を解決すべく……、というわけではなさそうだが、1体の悪魔が椅子に腰掛け、タイプライターと睨めっこをしている。
なんでも一部の女性の間ではモダンガールの象徴というべき短い髪が流行りだそうだが、彼女たちから見れば彼の髪型はどう映ったか。
顔半分を覆う銀色に近い真っ直ぐな長髪は、こう言っては何だが非常に暑苦しそうだ。
そんな髪の持ち主が眉間に皺を寄せ、指一本でパチパチとキーをタイプしている。
慣れない道具相手に格闘するのは集中を要するのだろう、悪魔の姿勢は前かがみで額がキーにくっ付きそうだ。
その様子を腕組みして見ている悪魔が1体。
つまらなそうに片頬をふくらませ、小刻みにつま先で床を叩いて苛立ちを表現している。
姿形はタイプライター相手に苦戦を強いられている悪魔と一緒、それもそのはず、彼らは兄弟なのだから。
「兄者、そんなの放っておいて外に出ようぜ」
先ほどから暇で仕方のない弟のナガスネヒコが誘いかけても、兄のアビヒコは返事ひとつしない。
鳴海が作製した報告書の一部にライドウがうっかり珈琲をこぼしてしまったことがことの始まりだった。
紙面に広がっていく黒茶のシミを"あーあー"という顔つきで見ていたライドウは"作り直さなければ"と呟いた。
普通なら原因を作った本人が作り直し作業にとりかかるものだ。
しかし、14代目の葛葉ライドウは普通の感覚の持ち主ではなかったらしい。
「なぁ、だいたい兄者じゃなくてサマナーが悪いんだぞ、ソレ」
弟は唇を尖らせて、兄に全てを押し付けて自分は情報収集のため銭湯に向かったライドウを非難する。
それでも、作業開始からずっとアビヒコの背中は丸まっていて、ぴくりとも動かない。
ぷくっと、ナガスネヒコはもう片方の頬もふくらませる。
そのままの格好でアビヒコが作業を終えるのを待とうとしたが、それほど忍耐強くない弟はすぐにその努力を放棄した。
背後から忍び寄り、椅子の背もたれに手をかけて、兄の肩越しに憎きタイプライターをにらみ付ける。
遊び相手を虜にした人間の道具は緩慢な速度で紙を吐き出しているが、睨まれたからといってその動きが止まることはない。
その余裕な態度が癇に障ったのか、ナガスネヒコは自分が思いつく限りの凄みを利かせ、それでも落ち着いた様子のタイプライターにベーッと舌を出した。
それで敵への攻撃は打ち切ったのか、今度はアビヒコから見て正面に回りこみ、
「兄者、つまらない」
と正直な感情を伝える。
一瞬アビヒコの指の動きが止まったが、それは次に打つ文字を探したからであり、すぐにまた不規則なタイプ音が響く。
ナガスネヒコは悲しそうに、それこそ雑踏のなか親とはぐれてどうしたら良いのか分からない子どものように、ぎゅーっと眉を寄せた。
それから、身をかがめて机と椅子の間にもぐりこみ、兄の両脚の間からスポッと頭を出す。
そこから見上げるアビヒコの表情は険しいが、そうしていた方が気品や威厳を感じさせて好きだとナガスネヒコはぼんやり思った。
その眼差しは自分に向けられたものではないが、そんな感想を他者に抱かせるアビヒコは間違いなく自分だけの兄で、そのことをナガスネヒコは誇らしく感じて得意気な顔をする。
「あーにじゃ」
甘えるように頬をアビヒコの太ももにすり寄せ、満足そうに目を閉じた。
それから数十分。
「終わった」
ようやくタイプライター地獄から解放されて一息ついたアビヒコは、太ももに違和感を覚えて目を向けた。
乗っかっているものを見て甘ったれるなと叱ろうとしたのだろう、瞬時に表情が硬くなる。
しかし、怒ろうとした相手がくぅくぅと軽やかな寝息を立てていることに気づくと、天井を仰いで肩の力を抜く。
再びナガスネヒコに向けられた眼差しは、可愛い弟を見守る兄のものだった。
「仕方のない奴め」
タイプライターではなく弟を構うためにアビヒコは背中を少しだけ丸め、起こさないようにそっと自分と同じく癖のないナガスネヒコの長髪を撫でた。