■ 朝の風景
探偵所は常に忙しいというわけではない。
電話のベルが鳴り、その内容がツケの支払い請求ではなく調査依頼だった場合に限り忙しくなる。
依頼が舞い込んでから報告終了まで、その間は鳴海も居候のライドウも活動量の差こそあれそれぞれの役割を果たそうと動き回る。
2人とも揃って寛いでいるときは報酬を受け取ってから次の依頼の電話が鳴るまで。
しかし、大道寺家を含めた一連の事件は次々と新事実が発覚し、事態が急展開するものだから、鳴海もライドウもだらけていられない。
ライドウが大怪我をしてよろめきながら戻ってくるたびに、鳴海は眉を顰めて今まで経験したことのない修羅場に頭を悩ませていたようだった。
しかしこの日の探偵所内は珍しく穏やかな空気が流れていた。
早朝ということもあり、窓の外に見える景色はまだ薄暗い。
もう少し時間がたてば日が昇り、文明が進んできたこの時代においても年寄りたちは外に出て日の出を拝むのだろうが、そういった姿や声も見られない。
「今日はやけに早いな」
かっちりとした学生服に身を包み髪型も文句なしに整えたライドウに、机に突っ伏していた鳴海が疲れきった挨拶をよこす。
「ええ、昨日はお互い大変で朝の挨拶もできませんでしたから、今日くらいはと思いまして」
清潔感漂う顔に和やかな笑みを乗せ、14代目葛葉ライドウは軽く頷いた。
凛とした立ち姿はくだけた印象を与える鳴海にはない物で、甘い王子様というより武士の厳しさを感じさせる。
いつも一緒にいる黒猫が見当たらず、
「あれ?」
とライドウの足元に目を向けて鳴海が首をかしげると、
「珍しくこちらが先に起きてしまったので、寝かせておきました」
と視線に気づいたライドウがゴウト不在の理由を説明した。
"そうか"と納得してみせたものの、鳴海には黒猫の所在より気になるものがあった。
すっきりとした爪先から徐々に視線を上昇させ、ライドウが右脇に抱えているものに遠慮がちな視線を送る。
どう目を凝らして見ても桶だった。木製の、使い込まれて落ち着いた味を醸し出す、ただの桶。
そこに水が注がれていなければ、朝から水浴びに行くのだろうと予想して特に気にすることはなかっただろう。
鳴海の不審なものを見る視線に気づいているのか、ライドウは参ったなぁという表情で首筋を掻く。
「やっ、やだなぁ所長。これはただの桶ですよ、新種の悪魔ではありませんのでそんなふうに睨まないでください」
説明されたことで、鳴海はあからさまに胡散臭いと思っていることを態度に出した。
「こんな朝早くから銭湯へ行くのか?」
ライドウは桶を抱えていないほうの手を激しく振って否定する。
桶の中の水がたぽたぽ揺れて、こぼれた水が床に黒色の染みを作った。
「いえいえ、これは所長を労うための……っ」
えっ?と素早く鳴海が反応したため言葉はそこで中断されてしまったが、それで充分ライドウの意図は伝わったようだ。
多少の驚きとそれを大きく上回る期待に目を輝かせる鳴海に、拒否されずに済んだと、ほっと胸をなでおろす。
「所長のことだから昨夜は風呂に入らず寝てしまったのでしょう? さっぱりした気分になっていただくために、背中を拭かせていただきます」
うん。と鳴海は大人しく頷いた。
そんな労い方だろうと抱えていたものから察してはいたが、実際"拭きましょう"と言われてみると妙に躊躇してしまう。
桶を机の上に置き、布を中の水に浸しながら、ライドウは頷いたきり動こうとしない鳴海へ困惑の目を向ける。
「背中をこちらに向けてください」
そう促がされてようやく我に返ったのか、鳴海はのろのろと椅子から立ち上がり、背中をライドウに向けて座りなおす。
布をかたく絞っているのだろう、ぽたぽたと水滴のたれる音がしばらく続く。
その間に鳴海は服の前ボタンを外して袖を脱ぐ。
「冷たいかもしれませんが……」
背中を隠す布地を肩まで捲くり上げる指は水に濡れて冷たい。
指先と肌が触れるとその部分に水か付着し、室内とはいえ冷たい朝の空気がひんやりとまとわりつく。
「あまり強く拭いてくれるな」
悪魔とやらを使役するだけではなく剣を振り回して敵を叩き切る腕で力いっぱい拭かれては皮膚が裂けてしまう。
もちろん鳴海はライドウがそのような馬鹿力で拭くとは思っていないため、冗談で言ったつもりだが、
「注意します、傷もあることですし」
ライドウの返事は真剣な声で、注意を促がしておいて正解だったかと鳴海は冷や汗をかいた。
ごわごわした布地がぴたっと背中の左上辺りに押し当てられる。
そこから円を描くように、丸く、緩く、水分を含んだ布が背中を移動する。
「もう少し強いほうが気持ちいいかな」
鳴海の注文に、
「んっ……?」
とだけ返事をし、ライドウは加減を誤らないよう慎重に手指に力を込めていく。
「そうそう、上手いじゃないか」
拭くことでマッサージ効果もあるのか、心地よさに眠気を覚え始めた鳴海があくび交じりに褒めた。
その後も他愛もない話に応じながら、ライドウは鳴海の背中を半分まで拭き終えた。
布を濯ぎながら、
「傷は避けましょうか」
と訊ねるライドウに、
「そうだな、なんなら舐めてくれても構わないよ」
と、眠気がピークに達した鳴海が無責任な発言をする。
こくりこくりと舟をこぐ鳴海の頭に困った視線を向け、再び布をきつく絞ったライドウは頭を悩ませる。
傷の上にそっと布を押し当て、擦らないで次の場所へ移そうとする。
「ざんねん」
自分の冗談に乗らない生真面目さをからかうように、鳴海が小さく肩を揺らして笑う。
しかしその笑いは、布地よりずっと柔らかく温かな水分に富んだものが傷をくすぐることで、瞬時に凍りついた。
「そこまで仰るなら、期待に副わなければと思いまして」
薄目で笑い妖しく下唇を舐めるライドウを、驚きのあまり口と目の両方を大きく開けた間抜け面で鳴海は凝視する。
その耳に、雀の鳴き声や日の出を拝もうと起き出してきた老人たちの朝の挨拶といった外の音がかすかに聞こえてくる。
鳴海とライドウにとって忙しい一日が始まろうとしていた。