■ あくまだもの
オオクニヌシは自分の目の前を忙しなく行き来する人修羅とジコクテンをどうにかして落ち着かせたいと思っていたが、そのためにわざわざ何をすれば良いのかということを考えることも面倒くさいような気がして黙っていた。
獣の鋭い爪によって引き裂かれた数ヶ所に及ぶ鎧の隙間からは血があふれ出し、足を伝って流れ落ちた分は地面にどす黒いしみを作っていく。
放っておけば確実に失血による死を迎えるであろう状態にあっても、オオクニヌシの感情は極めて冷静だった。
「あぁぁ血が、血がぁ!立ち上がるなオオクニヌシ、絶対に傷薬を見つけ出してみせるから」
瀕死の鬼神にパニック状態におちいった主人が手足をばたつかせながら悲鳴にも似た声を出す。
マッカ不足のため回復の泉を利用することができず、買い込んでおいたはずの傷薬はどこを探しても見つからず、先程から人修羅とジコクテンが慌てている理由はそこにあった。
「いつまでも待ちますよ、その代り私が死んだらちゃんと反魂香で生き返らせて下さいね」
ため息交じりの声で応じると、オオクニヌシの隣にしゃがみこんで流れていく血を何もせずに観察していたロキが、
「反魂香が見つかればの話しだな」
と薄笑いを浮かべて皮肉る。
1番慌てるべき自分は不気味なほど落ち着いているくせに、ロキがさぼっていることが気にくわないのかオオクニヌシは鬱陶しそうに魔王がいる辺りを手で払いながら、
「暇なら反魂香を探せばいいだろう、そばにまとわりつくな」
とキツめの口調で邪魔者扱いする。
ロキは心外だとでも言いたそうな仕草をしてみせたが、オオクニヌシの目が険しさを増すにつれおどけた態度をやめてつまらなそうに鬼神をにらむ。
「別に俺が何をしようとお前には関係ない…」
「その声!」
ロキの発言をさえぎってオオクニヌシがさも嫌そうに眉をしかめる。
「虫唾が走る、まるで魑魅魍魎の類に体中を撫でまわされているようで非常に不快だ」
魔王はオオクニヌシの言葉を噛みしめるように口の中で何度か繰り返し、疑問点を見つけたのか首をかしげて問いかける。
「魑魅魍魎の件はむしろ気持ち良いのではないか?」
鬼神は金髪の魔王の顔をまじまじと見つめ、魔王も黒髪の鬼神の顔を真剣な眼差しで見つめかえす。
2人の間に沈黙の時間が流れ、しばらくしてからオオクニヌシが自信無さそうな声でロキに確認する。
「やはりそうだろうか?」
声に自信が無くても表情は普段どおりの涼さを感じさせるもので、そのギャップに思わず言葉を詰まらせながらもロキは真面目な雰囲気を保ったまま言い聞かせる。
「全身をマッサージ…まぁつまり何だお前たちで言うところの"こり"を解してもらっているようなものだろう?」
顎に手をあてて考え込んでいたオオクニヌシがうーんと唸って納得がいかないという表情を作る。
「それはそれで違うような気がするのだが」
「どこが?」
せっかく日本の悪魔用に知識の片隅から引っ張り出してきた表現をあっさりと否定されたロキが不満そうに聞き返し、
オオクニヌシの方も微妙な違和感を感じて否定をしてみたものの、具体的にどこがどう違うのか説明できずにもどかしげに指先を動かす。
片方の悪魔は血をだらだらと流し顔色も白さを増したように感じられ、もう片方の悪魔はそんな鬼神の容態などどうでもよいといったふうに疑問を解決することのみに神経を集中させている。
彼らの主人は今もなお道具袋の中身をあちこちにばら撒いて懸命に傷薬を探し、転がっていたマハラギの石を踏んだジコクテンの体が火に包まれる。
この状況を打開すべくオオクニヌシはあれこれ悩んだ末にひとつの結論を導き出し、ロキも名案だと言わんばかりに表情を綻ばせた。
「うゎ、そこ、そうその辺が特に…ふぅたまらねぇ」
身をくねらせて悦んでいるのか苦しんでいるのか判断できない声を上げるロキに、オオクニヌシは指先の力を少し強めながら状態を確認する。
「今度はどうだ、気持ち悪いだろうか」
長いマントをまくり上げてむき出しの状態になっている背中を這うオオクニヌシの手の平の感触にロキの体が微かに反応する。
剣を握る手だけあって滑らかではないが、所々肉刺ができて少しごつごつした武骨な手は女悪魔に撫でられたときと違う刺激をロキに与えていた。
「いや、なにかが違う」
魔王から返ってきた反応に落胆しながらも、気を取り直してオオクニヌシは撫でる位置を腰の辺りに移動して緩やかに指先を動かす。
ロキのわき腹がぴくりと震え、なにかを押し殺すような低いうめき声が口から漏れた。
「ロキ…、変な声を出すな」
すかさず叱咤するオオクニヌシにいくぶん慌てた様子でロキが否定する。
「変な声など出してはいない、お前が何か勘違いしているだけだろう?」
ぶっきらぼうな物言いにオオクニヌシはわずかに怯んだが、動揺を隠すようにロキに負けず劣らずぶっきらぼうに文句を言う。
「それなら早く気持ち悪いと言ってくれ、なんだかこっちまで…」
うっかり口を滑らせて珍しく焦りの表情をみせるオオクニヌシに、ロキが嬉しそうに言葉の先をせかす。
「こっちまで…何だ?」
しばらく鬼神は沈黙して代えになりそうな言葉を探していたが、諦めたのか深々とため息を吐いて
「変な気分になりそうだ」
と額に浮かぶ汗を拭いながら応えた。
ロキはその答えに満足そうな笑みを浮かべたが、気分が満たされたことによって別のことに意識を向けたくなったのかこの魔王には珍しく
「ところでお前、傷は大丈夫なのか?」
などと今になってオオクニヌシの容態を心配する。
鬼神は魔王の問いに改めて自分の体に意識を向けてみたが、もう痛みの感覚を失ってしまったのか先ほどまでじくじくと痛んでいた傷はただひたすら熱く、
これだけの深い傷を負ってもロキと戯れている自分は異常なのかと思いながらも、その疑問を打ち消す言葉を口にした。
「これくらいの傷には慣れてしまった、人修羅の仲魔になってから何度命を落としたか数え切れないからな」
「それはそうかもしれないが、冷静だな」
呆れたような言葉に苦い笑いを浮かべて、オオクニヌシはロキの背中を軽く叩く。
「疑問が解決しなければ落ち着いて死ぬこともできない、意地でも気持ち悪いと言わせてやるから覚悟しろよ」
叩かれた痛みに顔をしかめながらも、さっきまでと比べて巧みになった愛撫と表現しても良いくらいのオオクニヌシの手の動きを感じて、
ロキはまた聞いている方が恥ずかしくなるような悲鳴を上げはじめた。
「やった、ついに見つけたぞー!」
突然の人修羅の叫び声に疑問を解決するための行為がなにか別の方向に変化しつつあったオオクニヌシの手がぴたりと停止し、
身悶えしながら荒い息を吐いていたロキが気のせいかがっかりしたような表情を浮かべる。
オオクニヌシは自分の手の平を複雑な思いで見つめていたが、傷薬を握りしめて嬉しそうに駆け寄ってきた人修羅にぽつりとつぶやく。
「なぜだろう、喜ばしいはずなのに今この一瞬あなたのことを憎く感じた…?」
そんなはずは無いと青ざめた顔で何度も首をふり、つぶやかれた言葉に表情を失った人修羅を自分なりに一応フォローしようとしているのか
「そんなはずないですよねぇ?」
と笑顔で同意を求めてみたりしている。
「知るかっていうか、お前ら何してたの、ねぇ僕たちが必死になって傷薬を探している間何してたんだよ…」
人修羅の怒りを含んだ視線が疲れ果ててぐったりとしているロキと、何かを揉むように指先を動かしているオオクニヌシの間を何度も往復する。
「オオクニヌシよ、主が見つけ出した傷薬は私が使っても良いな?」
マハラギの石を踏んだときにあちこち火傷を負ったジコクテンの有無を言わせない口調に、オオクニヌシはただ黙ってうなずくことしかできなかった。