■ 憩い
殺伐としたボルテクス界の中では比較的穏やかな代々木公園東側広場の木の下でセタンタとオベロンは憩っていた。
サカハギの起こした騒動も、その後の美女騒動も人修羅一行が全て解決してしまい、代々木公園は心地よい静けさに包まれている。
そのあまりに平和な環境のせいで気が緩んだのか、セタンタが妖精王に実に呑気な質問を投げかけた。
「空を飛ぶって、気持ち良いことなのでしょうか?」
なんの脈絡もなく頭に浮かんだ疑問をそのまま言ってみたような問いに、セタンタの隣で羽を休めていたオベロンは思わず吹き出した。
質問を聞いて苦しそうに咳き込む妖精王の背中をさすりながら、そんなにおかしなことを言ったのかとセタンタは首をかしげる。
「セ…セタンタ、もう大丈夫です…」
傾いた冠を正すオベロンの目の前をピクシーたちがくすくす笑いながら飛び交い、セタンタは羨ましそうにその光景を見つめた。
妖精王が憩いの場として選んだ木を見上げれば、いつの間に集まってきたのかピクシーの大群が枝に腰を下ろして休憩していたようだ。
ゆるやかな風がふいて木の葉がざわめく度に、飛ばされないようにピクシーたちが枝にしがみつくと淡い色の羽が一斉に揺れ、
まるで木々にピンク色の綿がかかっているかのような光景をオベロンはしばらくの間楽しんだ。
「君も空を飛びたいのですか?」
手の甲に乗ったピクシーと挨拶を交わしている白い妖精にオベロンが問いかけると、セタンタはわずかに悩んだあとうなずいてみせた。
「それならば私が君を支えて飛びましょうか?」
立ち上がって衣服に付いた砂を払い落とす妖精王の誘いに、セタンタは不安そうな目を黒色の中に所々綺麗な模様の浮かぶ羽に向ける。
その視線に気付いたオベロンは大丈夫だと証明するようにピクシーが密集している枝の辺りまで飛んでみせ、
「君ひとりの体重なら支えられますよ」
と少しずつ高度を落として自信ありげな笑顔をみせる。
地面から足を浮かせたまま差し伸べられた手をまだ不安な気持ちを拭えないセタンタが恐る恐る握ると、オベロンはその手を引き寄せて妖精を抱え込むと羽ばたきを強めた。
どんどん離れていく地面を見下ろしてセタンタは思わずオベロンの手を強く握り締める。
無言の訴えに気付いたオベロンはもっと状態を安定させようと抱える方の腕に力を込め、セタンタはくすぐったそうに身じろぎする。
蝶のような羽は絶え間なく風をかき分け、力強い羽音と空気の抵抗にセタンタが気を取られているうちに妖精王は一気に木を見下ろせる位置まで上昇した。
「うわっ!」
変わってしまった風景に驚いて体を動かすセタンタを落とさないよう慎重にバランスをとりながら、オベロンはゆっくり体を回転させる。
見晴台の上よりも高さは低いにも関わらず、足が地につかないまま不安定に揺れるオベロンに抱えられて見る風景はセタンタの目に特別な物として映った。
息をのんで黙ってしまった妖精の胸に手をあてて、妖精王が優しく微笑む。
「相当興奮しているようですね、他に行きたい所はありますか?」
「えっ、じゃあコッパテングがいる辺りまで」
胸に当てられた妖精王の手に自分の感情が全て伝わってしまいそうで、なるべく気持ちを悟られないようにと緊張した声でセタンタは応じた。
指示された距離のあまりの短さに気を落としながらも、オベロンは望み通りに妖精2体の空中散歩を呆れたように見上げるコッパテングの真上まで移動する。
「なにやってんだー!」
手を振る天狗に応えようと、オベロンのバランスを崩さないように気を使いながらセタンタが小さく手を振り返し、
「空を飛ぶ気持ち良さを体験させてもらっているのです」
と地面まで届くように大きめの声で返事をした。
「おい妖精さん、ここにその白い奴を落とすなよ!」
「大丈夫ですよ、すぐに移動しますから」
セタンタが落下することを恐れたのか立ち位置を変えようと逃げ腰になるコッパテングの悲鳴を聞いて、オベロンはため息まじりにまた木の上に戻る。
戻った途端に強めの風がふいて、2体のまわりを囲うように飛んでいたピクシーたちが可愛らしい悲鳴を上げながら飛ばされていった。
「重いでしょう?降ろしても構わないですよ」
「いや、今の揺れは風がふいたからですよ」
飛行に不安定さが増したことを感じ取ったセタンタの提案に対し、オベロンは半ばムキになって否定する。
「でも…なんだかもう…酔いそうだよ」
不安定な飛行と緊張のせいで気分が悪くなったのか、口を手で押さえるセタンタを見て妖精王は仕方なく刺激を与えないようゆっくりと高度を下げていく。
地面に足がついて安心したのか、すぐににしゃがみ込んでしまった妖精を元気付けるようにオベロンは白い背中をさする。
「すまないセタンタ、どうやら私は君の飛行に対する憧れを壊してしまったようだ」
楽しませることができなかったという負い目からか、飛ぶ前と違って自信を失った妖精王の謝罪をセタンタは慌てて否定する。
「そんなことない、すごく…たのしかっ…っ」
そこまで告げてまた気分が悪くなったのか、青白い顔でウッと口を押さえる妖精をピクシーたちの興味の視線から遠ざけようとオベロンは肩を貸してやりながら空き部屋まで連れて行く。
「大丈夫ですか?」
奥にぽつんと置いてあるソファーにセタンタを座らせてオベロンは心配そうに声をかける。
壁の横一直線に並ぶ窓から差し込んだ光に顔を照らされ、セタンタは眩しそうに目を細めた。
「ありがとうオベロン」
呪いによって少年の体のままなせいか自分とそんなに変わらない背丈でも年上だからだろうか、妖精王が側にいるだけで不思議な安らぎを感じてお礼を述べたセタンタは目を閉じた。
閉じて真っ暗になったセタンタの意識にオベロンに抱えられて飛んだ間に見えた光景が広がる。
人間が造り上げたどこかの街や、遠くを飛ぶバイブ・カハの群れが薄っすらと見えた。
地を歩いているときには気付かなかったものがたくさん見えて、こんな光景をいつでも見ることができるオベロンを羨ましく思った。
意外に大きなオベロンの羽音や鼓動を感じ取ろうと触れた手、そういった全ての感覚を思い出してセタンタの口元が笑顔を形作る。
幸せそうな笑顔を浮かべて寝入ってしまったセタンタの額を、オベロンは手袋を取った手で労わるように撫でる。
寝顔を観察する妖精王の表情はセタンタと同じように微笑を浮かべている。
ちょっとした出来心からだろうか、起きる気配がないのを良いことに柔らかめの頬を指でつつき、悪戯に成功した子供のような表情で笑い声をかみ殺す。
セタンタと一緒に運んできた槍をすぐ横の壁に立てかけてから、安らかな寝息をたてる妖精を起こさないようオベロンは慎重に出口に向かう。
途中1度だけ振り返って光を浴びる妖精の寝姿を視界に焼き付けて小声で囁く。
「良い夢を」
オベロンが部屋から出ていったあとも、セタンタはしばらく幸せな夢の中で空を飛び続けていた。