■ 蝉
地上にありながら受胎の衝撃に耐えて残った東京の名所の中のひとつ、東京タワーの最上部に腰かけて幻魔と妖精は主人の帰りを待っていた。
これ以上重みがかかれば折れてしまいそうな不安定に歪んだ鉄骨は、セタンタが足を揺らすたびにギィギィ耳障りな音を立てる。
ロキたちと一緒にチャクラドロップを買ってくるからここで喧嘩せずに待つように、と2人に命令して人修羅が消えてからもうカグツチが1周しようとしている。
あまりに遅い帰りにセタンタは不安にも似た苛立ちを感じて何度か幻魔に焦りの視線を向けたが、クー・フーリンは槍の手入れに集中しているせいで妖精の無言の訴えに気付かない。
「あと少ししたらマスターたちはあっちの方から帰ってくる、絶対に」
不安を紛らわすためにうっすらと視認できる銀座を指差すセタンタの呟きに、刃こぼれが無いか真剣な表情で確認していた幻魔がふっと緊張を緩めて笑う。
クー・フーリンの意識がようやく自分に向いたものの、その反応に馬鹿にされたのかと思い込んだ妖精はぷくっと頬を膨らませて幻魔を睨みつけた。
幻魔はそんな妖精に苦い笑いを見せて、銀座方面を指差したままのセタンタの手首をつかんで有楽町駅方面に向けさせる。
「帰ってくるとしたらこちらからだ」
妖精の視線が誘導される指先と共に移動し、納得がいかないのか眉を顰めたせいで不満そうな表情がさらに濃くなり、揺れていた足の動きがぴたりと止まった。
「買い物にいったんだ、街から帰ってくるに決まっている!」
セタンタの抗議にクー・フーリンはやれやれといった風に肩をすくめ、槍の手入れ作業を再開しながら説明する。
「チャクラドロップはマネカタ君の店か銀座の地下道にしか売っていない、よって帰りはターミナルを使うわけだから、わざわざ銀座から徒歩で戻る必要は無い」
「偉そうな言い方…」
ターミナルを使うなら自分たちが待つ東京タワーにより近いポイントを選ぶだろうと淡々とした口調で説明するクー・フーリンに、素直に感心できずにセタンタは毒づく。
妖精の言葉に幻魔は手の動きを止めて呆れたようにため息を吐く。
「私になにか不満があるのか?」
自分の問いにどう答えようかと悩むセタンタの背中を押すように、クー・フーリンは指でカウントしながら不満の原因になりそうな理由を並べていく。
「私がいるせいで戦闘に加われない、マスターには荷物扱いされる、ロキにはエストマしか取り柄がないと馬鹿にされる、その他には…」
挙げられた原因の数々に次第にセタンタの表情が暗く沈んでいき、記憶を探っていた幻魔は続けようとした言葉を止める。
セタンタは恨みのこもった目でじっと反応を待つクー・フーリンを見つめ、低い声で不満な点を述べた。
「そういう無神経なところ、だいっ嫌いだ」
それっきりいくらフォローしようとしても応じず、慰めようと頭をなでようとすれば馬鹿にするなと手をはね除ける妖精に幻魔は困ってうつむく。
喧嘩せずに待つようにという命令の喧嘩せずにの部分は冗談で言ったに違いないが、この状況を人修羅が見たら今後その部分は冗談ではなくなるだろうという変な危機感を感じながら、
クー・フーリンは気を取り直して気味が悪いほど明るい声でセタンタに話しかける。
「そうだセタンタ、蝉の話をしよう!」
突然すぎる話題転換にわずかに興味を持ったのか、顰められたままの妖精の眉がぴくっと反応する。
「こうなる前の人間界では夏になると蝉が鳴いて、マスターはその鳴き声が大好きだったそうだよ」
セタンタがまだ仲魔に加わっていなかった頃、休憩の合間に主人が語った人間世界に関する思い出話を幻魔は何の意図もなく妖精に話して聞かせる。
それがどうしたと訊きたい気持ちを抑えて、セタンタは自分の知らない話に黙って耳を傾けた。
「蝉は長い年月を土の中で過ごさなければならない、うるさい鳴き声は外に出られたことへの歓喜の声に思えて自分まで楽しい気分になるから好きだと言っていた」
そう語るクー・フーリンの声は暖かく、横目で様子を窺ったセタンタは穏やかな色を湛える目に不思議な安らぎを感じて険しい表情を和らげた。
微妙な気分の変化を感じ取ったのか、幻魔は小柄な妖精の頭を優しい手つきで撫でる。
身構えていたセタンタの緊張は手の動きによって解され、強張っていた肩の力が少しずつ抜けていく。
「こういう言い方をするとまた気分を悪くするかもしれないが、今はまだ土の中にいるお前も外に出て羽ばたくときが来るだろう」
緩やかな風が吹いて幻魔の黒髪を揺らす。
蝉と同じ扱いをされてムッとしながらも、セタンタは自信あふれる力強い声で応じる。
「そのとき私は貴方よりずっと強くて、無神経ではなく、偉大な妖精に成長してるよ、きっと貴方はそんな私の変化を見て驚くんだ!」
頭を撫でるクー・フーリンの手の動きが一瞬止まり、急に寂しげな笑顔を浮かべる幻魔にセタンタは首をかしげる。
「そうだね…、そうだねセタンタ、お前は私よりずっと強く優れた妖精になれるよ」
乱れたマフラーを整えてやりながら、クー・フーリンは表情と同じ寂しさの雑じったような、それでもセタンタの心が暖かくなるような声で断言した。
「ちょっといいかな、クー・フーリン」
結局有楽町駅方面から戻ってきた人修羅に呼ばれて、東京タワーから降りたばかりのクー・フーリンは、セタンタを置いて人修羅の元へと向かう。
どうせまた戦闘の打ち合わせだろうと、気にせずロキにチャクラドロップを分けて貰いに行こうとしたセタンタは、わずかにもれ聞こえる会話の断片を耳にして立ち止まる。
「次の……分かって…な?」
「はい、…のためなら…私の代わり……」
申し訳なさそうに人修羅がクー・フーリンの肩をたたき、幻魔は無理に作ったような笑顔を浮かべて主人に礼をした。
「どーしたセタンタ?」
立ち止まったままチャクラドロップを取りに来ないセタンタに、ロキが訝しげに声をかける。
「えっ、うん少し気になることがあって」
いつもと様子の違う主人と幻魔の会話が気になったものの、自分には関係ない話だと湧き上がる興味をセタンタは抑え込んだ。
人修羅が次の目的地へ行かず銀座に寄って行くと告げたときも、セタンタはクー・フーリンの寂しげな笑顔の理由が分からなかった。
邪教の館へ向かった人修羅が合体材料としてクー・フーリンを選択するまで。
「貴方に私の成長を見て欲しかった…」
仲魔たちに別れを告げて機械へと向かうクー・フーリンにセタンタがぽつりと呟く。
東京タワーの時と全く同じ優しさで、手袋をはめた幻魔の手が別れを悲しむセタンタの頭を撫でた。
「セタンタ、私はお前が成長したときの姿を知っている、けれどその時お前がどのくらい強くなっているのか確かめられないことだけが心残りだ」
頬がじんと熱くなり、胸に締めつけられるような鈍い疼きを感じて思わずセタンタの口から嗚咽がもれた。
今はまだ小さくても、いずれは自分と全く同じ背丈になる妖精を幻魔は愛しむように抱きしめる。
「強くなれセタンタ、私よりも他のどの悪魔よりも」
クー・フーリンの腕の中でセタンタは何度もうなずく。
いつか越えるべき存在として、土の中から出た蝉が真っ先に目指す目標として目の前の幻魔の温もりや声を心に刻み付けながら、
やがて成長を迎える妖精は泣き顔ではなく精一杯の自信を感じさせる笑顔でクー・フーリンに最後の別れを告げた。