■ 愚痴の原因
誰かが誰かを呼ぶ声が遠くから聞こえてくる。
それが人修羅の声だと気付くまで、幻魔は数十秒の時間を要した。
更に呼ばれているのが自分ではなく自分の隣で眠っている鬼神であることに気付くまでまた数十秒。
「オオクニヌシ」
硬く黒い独特の形をした鎧を身に着けた鬼神の肩を何度か揺さぶりながら耳元で呼びかけるが、鬼神は煩そうに眉を顰めたまま目覚める気配を見せない。
困ったなぁとため息を吐き、どうやって起こそうかと考えようとしたクー・フーリンは、突然頭痛に襲われて手で頭を押さえる。
頭痛の原因は久しぶりに脳を活性化させようとしたからではなく、ガラクタ集めのマネカタの店でオオクニヌシと飲んだ酒が原因だった。
酒好きのロキが土産と称して置いていってくれたものの、自分は酒など飲んだことがないので一緒に飲んでくれる仲間が必要だとマネカタは言っていたが、
未知の飲み物に不安がっていた本人が元気に営業し、付き合った自分たちが酔い潰れている現状を幻魔は痛む頭を撫でながら嘆いた。
「大丈夫…?じゃなさそうだね」
引っ切り無しに訪れる客の流れがようやく切れたのか、カウンターで声を張り上げて対応していたガラクタ集めのマネカタが、商品棚の裏で酔い潰れた2体の様子を確認しに来て面白いものを目撃したような声で呟く。
「済まないすぐに出て行く」
億劫そうに立ち上がろうとしてまだ酔いが残っているせいかふらつく幻魔をその場に押しとどめ、マネカタは軽く声を立てて笑う。
「あははっ、無理しなくてもいいよ、君たちの主人には僕が上手く言い訳しておいてあげるから」
そう告げるとガラクタ集めのマネカタはクー・フーリンの返事も待たずに表へ駆けていった。
パタパタという軽快な足音が聞こえなくなってから幻魔は安らかな寝息を立てる鬼神を恨めしそうににらみつける。
「マスターにもマネカタにも迷惑をかける羽目になってしまったではないか、全てお前の責任だからな」
熱を帯びたオオクニヌシの額を指先で弾くと、乱れた髪が軽く跳ねて鬼髪はくすぐったそうに首をすくめた。
ガラクタ集めのマネカタから酒飲み仲間になって貰えないだろうかと問われて、クー・フーリンはすぐに首を横に振った。
生真面目な幻魔の態度を横目に、オオクニヌシはしょんぼりとしたマネカタを励ますように肩に手を乗せ、
「よし、協力しよう」
と明るい声で申し出た。
幻魔は勝手にしろとその場を立ち去ろうとしたが、逃げようとした手首をつかむ鬼神の力はそれを許さず、
「しっかり者のお前がいないと飲んだ後が不安だ」
という言葉に乗せられてクー・フーリンも仕方なく同席する羽目になったのだ。
不思議と悪い気分ではなかった、それどころかオオクニヌシに"しっかり者"と評されたことが誇らしく思え、勧められるまま何本も酒瓶を空にした。
酔って思考力の落ちたクー・フーリン相手に、まだ余裕のあるオオクニヌシは主人について愚痴ったり、普通の状態の幻魔が聞けば青ざめそうなことを喚いている。
銀座のバーで飲んでいるときと全く同じ光景が繰り広げられる中、ひとつ違うことは聞き役のクー・フーリンも今回は酔っ払っていたことだった。
「お前はいつも本音を出さない、私はそれが気に入らない」
顔中を真っ赤にしたオオクニヌシが、体中が熱いのか鎧の中に風を送り込もうと試行錯誤しながら文句を言う。
早くも酔い潰れて床に身を投げ出したガラクタ集めのマネカタを邪魔にならない位置まで移動させ、幻魔は不思議そうに応える。
「私は逆にマスターに向かって本音を言うお前の態度が気に入らない」
幻魔に言われたことに腹が立ったのか、鬼神は空になった瓶同士をぶつけ合って騒がしい音を立てる。
「やめろ煩いっ」
酒瓶はすぐに奪い取れたが、オオクニヌシの腕が素早くクー・フーリンの首に巻きつき、勢いよく引っ張られた幻魔は鬼神の上に覆いかぶさる形で床に倒れ込んだ。
「そういう偉そうな意見をこのオオクニヌシ様に言う悪い口はどの口だー?」
逃げようともがく幻魔の背中を空いているほうの腕で押さえつけて、首に回していた方の手で放せと喚く口をきつくつまむ。
「この口かぁ、悪い口はどうやって治療するか知っているか?」
即座に首を横に振りながらつままれた口から何か言葉を吐き出そうとする幻魔に企むような笑顔を見せ、オオクニヌシはいったんクー・フーリンの口を解放する。
軽く咳き込みながらも幻魔がつままれた痛みに痺れる唇を手のひらで擦り終えるのを楽しげな表情で見届けた後、
「こうするのさ」
と言って鬼神は嫌な気配を感じて距離をとろうとする幻魔の頭を手のひらで押さえて、自分の顔へ近付けた。
日本の鎧と西洋の鎧がこすれ合う金属音が鳴り、驚いて目を大きく見開いたままの幻魔の口の中に自分の舌をねじ込んで鬼神は生温い口内を探る。
すぐに息苦しくなり呼吸をしようとクー・フーリンは必死に喘いで胸を上下させるが、慌てているせいかどうすればこの状況から抜け出せるのか考えることさえできず、
新鮮な空気を吸い込めないまま口の端から飲み込めない唾液がこぼれて顎を伝った。
柔らかい物体は遠慮や加減という物を知らないかのように幻魔の舌に絡みつき、その感触に不快感以外の感覚を感じてクー・フーリンが応え始めると、
ようやく鬼神は押さえつける力を緩めてぼんやりとした目で自分を見つめる悪魔を解放した。
「足を…絡ませるな…!」
口の端を拭い頬を高潮させた幻魔は呼吸が整うのを待たずに叫び、足をじたばたと動かしてまとわり付く鬼神の足を蹴り飛ばす。
「っつ、ずいぶん乱暴だな」
苦笑いを浮かべたものの、それ以上オオクニヌシがクー・フーリンを拘束することはなく、幻魔は逃げるように体を起こして鬼神から遠ざかった。
「酔いがさめてしまった、仕方ないまた飲むか」
寝転がったまま周囲を探り、まだ空になっていない瓶を口に銜える。
クー・フーリンはその様子を呆気に取られた表情で観察していたが、無性に自分も酔いたい気分になって転がっていた酒瓶に口を付けた。
鬼神の心の温度はいつも低めで、それでも体温だけは自分の肌と同じ温度で、再び酔い始める頭で幻魔はそんなことを考えていた。
「お早う」
妙な息苦しさを感じてオオクニヌシが目を覚ますと、クー・フーリンが悪戯っ子のような笑顔を浮かべて鬼神の鼻をつまんでいた。
憮然とした表情で辺りを見渡すと、幻魔の右脇に口元を引きつらせたガラクタ集めのマネカタの顔が、左脇に怒りに引きつった人修羅の顔があり、
「やぁオオクニヌシ、待ちくたびれたよ」
と怒った主人が表情から読み取れる感情を考えると不気味なほど優しい声で告げる。
「クー・フーリン、これはどういうことだろうか?」
とぼけた声で訊く鬼神に、質問された幻魔に代わってガラクタ集めのマネカタが申し訳なさそうな声で
「ごめんね、頑張ったんだけどごまかし切れなくて、でもいつまで経っても起きない君も悪いよね」
と説明する。
初めは何のことか理解できなかったオオクニヌシも、時間が経つにつれ状況が分かってきたのか青ざめた顔で主人を見つめる。
「予定がすっかり狂ってしまった、埋め合わせはたっぷり睡眠をとった体でしてもらうから覚悟しろよ」
その後の戦闘で人修羅の言葉通り普段の倍以上の働きをさせられたことにより、鬼神が酔った際の主人に対する愚痴ネタがまたひとつ増加した。