■ なくなる日
かつて4体の凶悪な鬼が潜んでいた坑道は、深い闇と地下特有の臭いで2体の悪魔を出迎える。
光玉を使おうと道具の入った袋をガサガサ鳴らす悪魔の手を、もう片方の悪魔が押さえて薄く笑う。
「真面目にマッカ集めを始める気かクー・フーリン?」
訊かれて、幻魔は光玉を握ったまま動きを止め、怪訝そうに質問主の顔を見た。
品行方正な青少年を悪の道に引きずり込もうと誘惑する笑みに、クー・フーリンの眉間の皺が深くなる。
「そうやってお前はまたさぼる気満々で、だからオオクニヌシという悪魔に付き合うのは嫌なんだ」
そう易々と鬼神のペースに乗せられてたまるかと警戒心を強めるクー・フーリンの反応に対し、オオクニヌシは豪快に笑う。
2体が人修羅の仲魔に加わった時期は違うが、クー・フーリンがセタンタという妖精の姿をしていた時からオオクニヌシは何かと世話を焼いてきた。
戦闘に呼び出されるまでの暇つぶしの相手として、落ち込んだときの慰め役として。
オオクニヌシが相手になると、その内容は全てクー・フーリンが理想とするものの逆になったが、不満を言う幻魔を鬼神は例外なく適当な言葉で丸め込んでしまう。
そのような過程を経て、いつもクー・フーリンは悪友オオクニヌシの誘いに抗いきれず、全てが終わってから自己嫌悪のため息をつく結果になることが多い。
今回2体の悪魔は、戦闘に呼び出されるまでの暇な時間を使ってマッカを集めろという人修羅からの命令を受けていた。
暗い坑道なら悪魔を殺してマッカを奪うときに奇襲をかけ易くなると提案したのはオオクニヌシだった。
珍しくやる気になっているなとクー・フーリンは不審に思いつつも、オオクニヌシも主人に尽くす気になったのかとほっとした気持ちで提案に乗ったのだ。
しかし蓋を開けてみれば鬼神の態度はいつもと同じ不真面目なもので、幻魔は失望したと言いたげな冷たい視線を悪友に向ける。
オオクニヌシの音量調節一切無しの笑い声は、クー・フーリンが握った拳を振り上げるまで坑道内に響き続けた。
「まぁまぁそんなに怒るな、せっかくの男前が台無しだぞ?」
ふざけた調子でクー・フーリンの頬を手の平で軽く何度か叩き、オオクニヌシは幻魔の警戒を和らげるように優しい表情をみせる。
「そんな顔をしても、だまされないからな」
不満いっぱいといったふうにキツい声で頬を叩くオオクニヌシの手を払い、マントを翻してクー・フーリンは坑道の奥へ進む。
その後姿をやれやれとため息混じりに眺め、鬼神は足早に進む幻魔の後を小走りで追った。
「その先の床は、痛いから直接踏んでは進めないよ」
鬼神の忠告に対し、幻魔は礼を言う代わりに手をひらひらと振って、
「知っている」
と感謝の欠片も感じさせない声で応じる。
自分の方へ振り返りもしないクー・フーリンの態度をふふんと鼻で笑い、オオクニヌシは顎に手を当てて何やら考え込んだ。
毒々しい赤色の床を前にして幻魔は立ち止まり、袋の中に手を突っ込んで浮き足玉を探す。
あとから追いついたオオクニヌシがいつまでもごそごそ袋の中をかき回しているクー・フーリンの手元をじっと見つめ、次いで焦りの色を浮かべた顔へ意味ありげな視線を送る。
オオクニヌシの態度からクー・フーリンはあることを感じ取ったが、それでも自棄になって袋の中を探った。
「だから言っただろう、その先の床は進めないと」
ついに浮き足玉を探すことを諦め、クー・フーリンは下唇を噛んで悔しそうに地面を踏み鳴らす。
「最初から浮き足玉が無いことを知っていたな?」
問い詰められて鬼神は呆れたと言いたげに肩をすくめ、悪びれもせずに"そうだよ"と肯定した。
"何故教えてくれなかった"という憤りが喉からあふれ出す寸前にクー・フーリンはハッとして口を押さえ、気まずそうに俯く。
怒りを向けるべき相手はオオクニヌシではなく、消費した道具を把握せず買い足しておかなかった人修羅だというのに、
すっかり鬼神のペースにはまってしまった情けなさがやり切れない苛立ちに変わり、クー・フーリンの中に重く積もった。
「……っ、お前はずるい、お前はいつもそうやって私の心を掻き乱す」
どこへぶつければ良いのか分からない苛立ちを抑えきれずに、クー・フーリンは辛そうに本音を打ち明ける。
オオクニヌシは困ったなぁというふうに両手で顔を覆ったが、幻魔が回復不可能なほど落ち込んでいく様子を見て、少しだけ嬉しそうな表情をした。
床に腰を下ろし、クー・フーリンを手招きする。
「ほら、セタンタのときのように慰めてあげるから私の膝の上へおいで」
幼子をあやすような柔らかい声だったが、そのせいでクー・フーリンは余計に腹が立ったようだった。
「お前は私を何だと思っているんだ? 私はもうセタンタではない!」
馬鹿にするなと吐き捨てるクー・フーリンへ、オオクニヌシは珍しく見られた方が怖くなるほど真剣な目を向ける。
その目を正面から受け止めたものの、自分の心を鬼神に全て見透かされているような錯覚に陥り、幻魔は数秒も耐えることができずすぐに視線を逸らした。
「残念なことだが、私の中でお前はセタンタのままだよクー・フーリン」
そう言われることを予想していたのか、幻魔はすぐに、
「屈辱だ」
と、感想を述べた。
そんなクー・フーリンへオオクニヌシはもう1度"おいで"と手招きし、幻魔はかつての自分がそうしたように、鬼神の膝の上に屈みこんで厳しい表情で睨み付ける。
「変わったのは私を見下ろす背丈だけだ、どんなに背伸びをしてみても、お前は私にとってセタンタ以外の何者でもない」
クー・フーリンの手から槍が滑り落ち、地面に当たって乾いた音を立てた。
首に両腕を回して体重を預けてくる幻魔の体を、オオクニヌシは倒れそうになりながらもしっかりと受け止める。
鎧で覆われた背中に腕を回して、鬼神はクー・フーリンの心を落ち着けるように何度も冷たい鎧の表面を撫でた。
「そう、そうやって素直に甘えてくれればいい、私の膝の上はお前だけに許された居場所なのだから」
オオクニヌシの喉に唇を這わせながら、クー・フーリンはゆっくりと胸たまっていた熱を帯びた息を解放する。
「いつまでこの居場所に逃げ込むことが許されている?」
天井を見上げて喉をさらけ出したオオクニヌシの目が、その問いに反応してすっと細まる。
「主がこの世界を創りかえる者を選び出し、ボルテクス界が生まれ変わるその日まで」
鬼神の答えを聞いて、全ての感情を消し去ったような表情の幻魔は瞬きを繰り返して目を瞑った。
「それならば、今すぐにでも世界が生まれ変わってしまえばいい」
クー・フーリンの囁きはオオクニヌシの耳に届いたが、鬼神は口元を歪めて曖昧な笑いを浮かべただけで何も言おうとしなかった。
ただ、背中を撫でていた指先で幻魔の黒髪を弄る。
髪を弄られて首の辺りがくすぐったくなったのか、クー・フーリンは喉を鳴らして小さく笑う。
笑い声はじゃれ合う子供のように軽いが、その表情はいつもの快活さを失い、曖昧でどこか淋しげなオオクニヌシの表情と似たものだった。
「お前はずるい……」
光玉の効果がもうすぐ失われるのか光がだいぶ弱まっている。
頼りない光に照らされたオオクニヌシの横顔に幻魔は先程とは全く違う口調で呟き、身を沈めていった。