■ 03.ご法度
人修羅は名前で呼ばれることを何よりも嫌う。
主人に敬意の欠片も払おうとしないロキでさえそのことについては充分承知していて、呼びかけるときは"お前"などの代用できる言葉を使う。
いつしかそれは仲魔うちでは常識となり、溶け込んで習慣化していた事実を新参者のセタンタに教えた仲魔はいなかったようだ。
だからセタンタがその名前で人修羅を呼んだ瞬間、誰もが止めようと口を開き、同時にあまりの新鮮さに呼ばれた人修羅でさえ怒りを忘れて驚きの表情を浮かべたまま停止してしまったのだ。
「ジコクテン、葛城が驚いているようだが?」
驚いた主人が我にかえる前に、全員の反応を不思議そうに眺めて質問をするセタンタの首根っこをつかんで離れた場所まで引きずる。
このあってはならない事態を招く原因を作ったのは自分、それならばこの混乱を収めるのも自分でなくてはならないだろう。
「セタンタ…そうか、まずはこちらの方から謝るべきだな」
謝罪の意味を込めて深々と下げた頭を戻すと、ようやくこの異常事態の引き金が自分にあることを察したセタンタが不安そうに顔をくしゃりと歪めている。
やってしまったことを嘆いても仕方ないが、人修羅を失望させるような今回の結果に自分を責めずにはいられなかった。
代々木公園を出て渋谷に到着した直後、ちょっとした用事があるから来てくれと人修羅に頼まれ、地下街の空き部屋に連れて来られた。
こちらがやって来る前から部屋の中を漂い、人生について深く考えていたらしい思念体にどかないと食べてしまうぞなどと脅しをかけて追い出すと、深刻そうな表情で人修羅は話を始めた。
「用事とはセタンタのことについてだ」
表情から、とてつもなく重大な話しが出てくるのではと覚悟していたせいもあって、実際に出てきた名前に拍子抜けした。
「ふむ、セタンタといえば先刻加わった悪魔だな、あれがどうした?」
自分と並べば親と子のように見える主人は眉根を寄せて、しばらく話すべきか話さないべきか迷っていたようだ。
親子のように見えたとしても子に見える悪魔は仕えるに値する主人であり、交渉を持ちかけられたセタンタが"でき損ないの悪魔"などと人修羅に対し屈辱的な評価を下したときには、強い憤りを感じてすぐにでも主人を侮辱する妖精に止めをさしてしまいたいと思うわけである。
「遠慮せずに言うが良い、お主の頼みならば内容がなんであれ喜んで引き受けよう」
胸を叩いて言ってみせた言葉の効果か、人修羅の顔から迷いが消えて代わりに安堵したような笑顔が浮かぶ。
「ありがとうジコクテン、お前を選んで本当に良かった」
他の者に同じ台詞を言われても何も感じないばかりか余計なことをと煩わしく思うところだが、この悪魔が言うと自分を頼み込む相手に選んでくれたことを逆に感謝したくなる。
我ながら主人に心酔し過ぎていると苦い笑いを浮かべ、人修羅の頼みごとに耳を傾けた。
頼みごとの内容は、実にこの少年らしいものだった。
「ああいうタイプは初めてなんだ、悪魔だから生きてきた年数は分からないけど見た目は明らかに僕と同じくらいだろ、ジャックフロストみたいな子供悪魔かお前やロキのような大人悪魔としか接してこなかったせいか、色々とやり難いんだ」
意外な言葉だと思った、年が離れていた方が命令などし難いものだと思っていたが。
そんな考えを読み取ったのか人修羅はどうやって詳しく説明しようか額に指をあてて考えていたが、上手く言葉がまとまらないようだった。
「とにかく主人とはいえ同年代の僕にあれこれ指図されたりするのは不快だと思うんだ、それに心変わりして忠誠を誓ってくれたとはいえ交渉中に見せたあいつの僕に対する嫌悪感を考えるとやっぱり…」
それ以上は言い難いのか言葉を途切れさせた人修羅は上目遣いにこちらの反応をうかがう。
「それで誰か代わりに仲魔の規則を教えてやってくれないだろうかというわけか、そこまで気を使わねばならない相手とは思えぬがな」
「そうかもしれない、だけど頼みたいんだ、こちらもできるだけ努力はするから!」
この少年のことだから努力するという決意に偽りはないだろう、それに短いか長いかの差はあるがセタンタとは仲魔どうし同じ道を歩む相手、
「それが主人の頼みならば努力など必要ないくらい完璧にやってみせよう」
ありがとうと呟かれた人修羅の声はなに物にも変えられない報酬だった。
それからセタンタにあれこれと構う時間が他の仲魔より多くなっていった。
なにも事情を知らないオオクニヌシたちの目にはそれが余程珍しく見えたらしい。
「主人よりもジコクテンの方がセタンタの面倒をよくみているなんて意外だな」
その感想は当のセタンタ自身も同じようだった、見るからに扱い難そうなロキにあれこれ指示を出す人修羅が自分には何も言ってこないことを不安に思っている様子が常に見られた。
「ロキよりも扱い難そうに見えるのか…」
寂しそうにつぶやく姿に何度人修羅の本心を教えてやろうかと思ったことか。
セタンタと人修羅が言葉を交わす回数は少なく、敬遠されていると思っているセタンタが主人を"マスター"以外の言葉で呼ぶことはなかった。
それで安心しきっていたのかもしれない、1番肝心なことを教え忘れていたとは。
「そうですか、マスターの怒りをかってしまったのか」
事情を聞いたセタンタの顔は明らかに落ち込んでいた。
「元から嫌われているみたいなのにさらに怒りをかうなんて、たいした覚悟もなく仲魔になったことに対する神からの警告かな?」
その言葉を聞いて、人修羅から頼まれたことを打ち明けずにはいられなかった。
嫌いだから避けているわけでなく、彼なりに色々と気を使った結果そうなってしまったのだと渋谷の空き部屋での話を一部始終隠さず話してしまった。
とたんに血相を変えて主人がいた方向に走り出したセタンタを追いながらも、これで良かったのだと、とても清々しい気分を感じていた。
主人は1人で道具類の整理をしていた。
混乱は他の仲魔がうまく収めたのか、それとも今回は怒りをぶつける相手がすぐに消えてしまったせいか、道具を扱う手は問題なく動いていたが表情は心ここにあらずといったふうなもので、今も怒っているのか分からなかった。
そんな人修羅の様子などおかまいなしに、セタンタは頭を下げてから自分の気持ちをぶつける。
「まずは名前で呼んでしまったことを謝ります、しかしマスターにも謝って欲しい、この妖精セタンタが下らないことで気分を害すと見くびったことを謝ってください」
ものすごい剣幕でまくしたてる妖精に首を上げてぼんやりとした表情を向ける人修羅に、頼まれたこととその理由を打ち明けてしまったことを伝えてわびる。
主人は怒ることもなく、冷静に事態を把握しようとしているようだった。
「ジコクテンに頼りすぎた僕が悪かったんだ、小さなことにこだわらずに僕がちゃんとセタンタと向きあえば、すまなかったセタンタ」
非を認めて素直に謝る人修羅に険しい表情をいくらか崩して、セタンタは次ぎの疑問を伝えた。
「それと、差し支えないなら理由を聞かせて欲しいのです、なぜマスターを名前で呼んではいけないのか」
それは自分も疑問に思ったことだった、回答を求める2人分の視線を受けて人修羅は観念したように理由を口にした。
「主人と従うものの線引きをしたかったんだ、名前で呼びあっていれば親しさは増すだろうが主従関係がぐちゃぐちゃになりそうで、どこかで常に分けておかないと不安なんだよ」
その不安が自分を苛立たせるのだと告白してから人修羅は自らの考えを嘲笑った。
「そんな下らないことに不安を感じるほど僕は弱くて自信がないんだ、笑いたいなら笑ってくれても構わない、ただ名前でだけは呼ばないで欲しいんだ」
「笑いませんよ、ただそうしないとマスターが不安を感じるほど自分の忠誠心が頼りなく見られていることを残念に思いますが」
セタンタの返答には同感だった、些細なことを気にしすぎる主人だと思っていたが、こればかりはもっと他の理由があってこだわっていると思いたかった。
「ではマスター、これからは気にせずどんどん指示を出して下さいね、約束ですよ」
去り際のセタンタの言葉に人修羅は少し困惑したような、それでもどこか嬉しそうな表情でなんどかうなずいていた。