■ 07.命令違反
クー・フーリンは水を飲むように大量の酒を飲み干すオオクニヌシの愚痴を聞かされて精神的に参っていた。
「だいたい我らの主人は」
から始まって、呂律が回らないせいか、辛うじて人修羅を罵倒していると分かる単語の羅列が延々と続く。
オオクニヌシは普段から人修羅に対して言いたいことを隠さずに言うタイプで、際どい発言をして主人を怒らせることが度々ある。
それにもかかわらず、まだこんなに人修羅に対する不満を抱えていたのかと幻魔は眩暈を感じて軽く頭を振った。
「もうその辺りで止めておいた方が…」
いくらアイテムの買い出し中で人修羅が不在とはいえ、忠誠を誓った主人に対する愚痴を聞かされるのはあまり良い気分ではない。
クー・フーリンが耐え切れなくなって止めに入るものの、鬼神は制止を振り切って出された酒を飲み続けている。
どうにかこの場を上手く収められる悪魔はいないものかと困り果てた幻魔は視線を彷徨わせるが、ニュクスは関わりたくないというふうに視線を逸らし、
別のテーブルで1人酒を飲んでいるロキはお手上げだと言いたいのか肩をすくめて曖昧に笑った。
がっかりして視線を隣に戻すと、完全に目が据わってしまっているオオクニヌシが急に沈黙して幻魔をじっとにらみつけている。
愚痴が出尽くしたのかと思ってクー・フーリンが安心したのも束の間、鬼神は真っ赤な顔を近づけて酒くさい息をふきかけた。
「おまえもぅー、たぁまにはめーれいむししてみろよぉー、…うぃっ」
「そんなことできるはず無いだろう」
たまらず顔を反らしてクー・フーリンは応じるのも馬鹿らしいという表情で否定したが、オオクニヌシはそんな生真面目な態度を鼻で笑ってさらに続ける。
「きもちよくてクセになるかもなぁー」
鬼神がそう言い終えるか終えないかのうちにテーブルが激しく揺れて、空になったグラスが飛びはねて床に落ちた。
今まで感じたことのないような不快感に襲われてテーブルに拳を叩きつけて席を立ったクー・フーリンを、酔いの醒めないぼんやりとした顔でオオクニヌシが見上げる。
「…いい加減にしろ!」
怒りに震える低い声に、それまで和やかだった酒場の雰囲気が壊れて緊張感が漂う。
思念体たちは居心地悪そうに部屋の隅っこに避難し、幻魔の大声に驚いたロキは思わず姿勢を正した。
「喧嘩ならよそでやりなさい」
張り詰めた空気を追い払うように、カウンターから出てきたニュクスが床に落ちたグラスを拾いながらクー・フーリンに告げる。
幻魔はまだなにか言いたげにオオクニヌシをにらんでいたが、その言葉をぐっと飲み込んだまま酒場の扉を乱暴に開けて去って行った。
残されたオオクニヌシは酔いが眠気に変わったのか欠伸をして目を擦り、ロキは緊張が解けてテーブルに突っ伏した。
どこに行きたいのか分からないまま、怒りに身を任せてクー・フーリンは足早に銀座の通路を進む。
途中すれ違ったジコクテンが様子がおかしいことに気付いて呼びとめようとしたが、その声も無視して幻魔は進み続けた。
頭の中でオオクニヌシの言葉のみがループし、たむろするシジマ悪魔や思念体はただの色彩としてしか認識されず、足音や言葉は泡のように弾ける。
毒に全身を侵されるようにじわじわと鬼神の誘いが脳を巡り、幻魔はその言葉を追い払おうと歩みを止めて目を閉じた。
「あれ、オオクニヌシたちと一緒じゃなかったのか?」
聞き慣れた声にクー・フーリンが目を開くと、大量のアイテム類を両手で抱え込む人修羅がなぜか嬉しそうに笑う。
その笑顔にわずかに気分が晴れたのか、強張っていた表情を和らげた幻魔は顎の辺りまでアイテムで隠れてしまっている主人の負担を軽くしようと手を伸ばす。
「気を使わなくてもいいよ、どうせみんなニュクスの所にいるんだろ、そこまでなら1人で運べるから」
アイテムを取ろうと差し出された手を避けて歩き出す人修羅の態度に、クー・フーリンの目に険しさが浮かぶ。
「そんなことだから…」
「え、なに?」
よく聞き取れなかったのか呑気な声で聞き返す人修羅に、今度ははっきりとした声でクー・フーリンが吐き捨てる。
「貴方がそんな態度だから、命令を平気で違反するような輩がいるのだと言っているのですよ!」
最初、言われている意味が分からなかったのか幻魔の剣幕のみに強張っていた人修羅の顔は、様々な模様を浮かべたあと引きつったような笑顔で安定した。
「誰も僕が困るような命令違反なんてしていないよ」
「たとえ被害がなくとも、命令を違反する仲魔がいるということ自体が異常なんです!」
険しい表情で足を1歩踏み出すクー・フーリンの迫力に気圧されたのか、幸せチケットで手に入れた力の香が人修羅の腕の中から転がり落ちた。
足元まで転がってきた力の香と笑顔が消えた主人の表情に気付いて、気を荒立てていた幻魔はそれ以上発言を続けることなくうつむいた。
「落ち着けよ、どんな命令にも忠実に従う仲魔なんてそれ自体異常なんだよ」
諭すような言葉にギリッと歯を噛みしめ、幻魔は鋭い視線で納得がいかないと主人に訴える。
「私ならどんな命令にでも従ってみせます、それが貴方の命令であれば」
頑ななクー・フーリンの態度に困ったようにため息を吐いて、人修羅は首を横に振る。
「それはどんなに忠誠心があろうと無理だ、証明してみせようか?」
すぐさまうなずく幻魔に背を向けて、人修羅は酒場ではなく使用されていない空き部屋へ向かって歩き出す。
力の香を拾ったクー・フーリンが後を追った。
がらんとした広い部屋の中央で、アイテムを床に置いた人修羅は真剣な表情のクー・フーリンと向きあって立っていた。
どうやって主人が証明するのかと幻魔は様々な可能性を想像したが、どれも自分にとっては問題ないことのように思えて主人の指示をじっと待った。
「それでは命令を与える」
沈黙が破られて、クー・フーリンはいよいよかと気を引き締める。
人修羅は言い難そうに眉を寄せてまたしばらく沈黙したが、迷いを振り切ったのか戦闘中に命令を与える時と同じ表情で幻魔の顔を見上げた。
「クー・フーリン、僕の目の前で裸踊りをしてみせろ」
空気が急に重さを増したように感じられ、クー・フーリンの思考は一瞬氷りついたように停止した。
冗談で言ったのだろうかと確かめる視線を向けられても、人修羅は表情を変えなかった。
「どうした、やるのかやらないのか?」
返事を催促されて我にかえった幻魔は、どんな反応をすれば良いのか分からず主人から目を逸らす。
迷っているクー・フーリンに自分の思惑通りにことが運んでいると確信した人修羅が得意気に笑った。
「これで分かっただろ、どんな命令にも従える仲魔なんて存在しないんだ、だから…」
あまりこだわるなと続けようとした言葉を、重たいものが床に落ちる音がさえぎる。
「勝手に決めつけないで下さい」
呆然と見つめる人修羅の足元にマントが落ち、白い鎧をクー・フーリンは躊躇せずに慣れた手つきで脱ぎ捨てていく。
鎧の下から普段は隠れて見えない着衣の模様があらわになり、うろたえていた人修羅がさすがに焦りを感じて止めに入った。
「待て、それ以上脱ぐな!」
「まだ命令の途中ですが?」
手首をつかんだ主人に、勝ち誇ったような笑みを浮かべたクー・フーリンが表情に似合わない澄ました声で応じる。
「その命令は取り消す、とにかく脱ぐのは禁止」
「それでは先ほどの貴方の発言は間違っていたと認めていただけるのですね?」
悔しさの滲む主人の言葉がもたらす結果を確認しようと、幻魔は手首に食い込む強い指の力に顔をしかめながら訊ねる。
予想外の展開に一転して最悪の状況に立たされた人修羅は、反論することもできずに色が白く変わるほど強く唇を噛んだ。
沈黙を守ったままの金色の目に暗い影が宿り、悩みぬいた末に人修羅は口の端をわずかに吊り上げた。
「分かった、認めよう」
意外にあっさりと告げられた言葉に拍子抜けしながらも、自分の勝利を確信してクー・フーリンの顔が一気に明るくなる。
しかしその表情は付け加えられた主人の言葉によって無惨にも反転した。
「ただし命令は取り消さない、裸踊りを見せてもらおう」
「そ、そんな」
卑怯だと言いたげな態度をそれはお互いさまだと切り捨てて、人修羅は厳しい声で幻魔を叱咤する。
「手が止まっているぞ、最近の悪魔は1人で服を脱ぐことすらできないのかな?」
「なっ…!」
あからさまな挑発に顔を赤くしたものの、全身をじっくりと観察するような視線を向けられてクー・フーリンは困惑する。
そんな幻魔の背後に回り込んだ人修羅が爪先立って首に腕を絡め、動揺するクー・フーリンの耳元をくすぐるように囁く。
「それとも僕に脱がせてもらいたいのかな?」
耳にかかる生暖かい息と首筋に触れる主人の肌の感触に、体の芯が急に熱くなったような錯覚を覚えてクー・フーリンは目を細める。
首から下降して背を這う人修羅の指が触れたところ全てに電気を流されたようなわずかな痛みと痺れを感じ、空気を求めて喘ぐように半開きになった幻魔の口から熱いため息が漏れた。
「そこの所どうなのかなクー・フーリン?」
「その、それは……あっ」
答えようとした途端に人修羅の指先が体の中心に軽く触れ、クー・フーリンは全身をぴくりと強張らせて悲鳴にも似た声を上げた。
最初のうちは反応を楽しむように軽く触れるだけだった人修羅の指は、抵抗することも忘れて顔を火照らせる幻魔を陥落しようと次第に大胆に絡み付くようになり、
もう片方の手は不安を煽るためか中心に触れられて驚きに見開かれた両目を覆い隠す。
ひくりと震える喉に口付け、人修羅は与えられた分の刺激以上の反応を返すクー・フーリンに抑えきれない昂ぶりを感じて自身を幻魔の太腿の付け根に押し付ける。
「んぅっ…マスター…?」
幻魔のかすれ声に劣情を煽られるまま、人修羅はからかうために始めた行為を自分の欲を満たすための行為に変えて、深く没頭していった。
「結局私は何のために必死になったのでしょうか?」
床に倒されたまま立ち上がる気力もわかないクー・フーリンが、すぐ横で同じくぐったりとしている主人に力なく問いかける。
人修羅は億劫そうになにが原因でこのような事態になったのか思い出そうとしたが、途中でその原因があまりにつまらない意地の張り合いだったことに気付いて思わず嘆息した。
「僕の態度のせいで命令違反する輩が増えるんですぅーってことを伝えたかったからじゃないのか?」
「それは…貴方の身の安全を思えばこそ、私は貴方を危険なめに遭わせたくないのです」
ふざけた言い方に幻魔は気を悪くしたようだったが、酒に酔ったオオクニヌシの言葉に惑わされた自分が情けなくなったのか手で顔を覆った。
落ち込んだ様子のクー・フーリンを元気付けようと人修羅は記憶を探り、その中から面白い情報を見つけたのか懐かしそうに語りかけた。
「命令違反なんて絶対にしないと言うけれど、セタンタだったときにお前はすでに一度だけ違反をしているんだよ」
「私がですか?」
過去の話しに興味を持ったのか、訝しげに聞き返す幻魔に人修羅は軽くうなずく。
「与えられた命令を拒否してでも側に居たがったあの頃のお前は素直で頼もしかったのになぁ…」
「はぁ…?」
いまいちピンとくる物がないのか、気の抜けたような返事をするクー・フーリンの額を人修羅の熱を持った手が撫でていく。
「その時にセタンタが言ったことと同じようなことをお前も言うんだな」
「命令違反をする輩がいて心配だとセタンタも忠告したのですか?」
クー・フーリンの問いに違うよと否定して人修羅はすっかり姿を変えてしまったかつてのセタンタに告げる。
「あの時に比べれば強くなったつもりだけど、お前を不安にさせてしまう辺りまだ僕は誓いを守れていないんだな、ごめんな、クー・フーリン」
急に謝られてクー・フーリンは不思議そうに人修羅を見つめたが、同時に理由の分からない懐かしさが込み上げてきて寂しそうに微笑む主人に口付けた。