■ 01.はじまり
その瞬間熱風が人修羅の体を包み込んだ。
視界が赤くなったと判断する方が早いか、全身を焦がす熱に絶叫する方が先か。
熱と共に押し寄せる風圧に為す術も無く巻き込まれ、一匹の悪魔の命は尽きようとしていた。
チクチクと痛む少年の目に火と似たような色をした物体が映る。
元々が似たようなオレンジ色の体だから炎と同化して見えるわけではなく、その物体自体が炎に包まれて燃えていた。
長い管のような器官は片方が焼け落ち、もう片方はきょろきょろと動き回って少年の姿を探す。
「おい……」
人修羅のからからに渇いた喉から小さなうめき声がもれ、口を開けたとたん熱風が喉を焼いて少年は激しく咳き込んだ。
体のあちこちから小さな火が噴き出していることも気にならないのか、その声で位置を察知した物体はすぐに反応を見せる。
長い腕を鞭のようにしならせると、少年の腹めがけて勢いよく振った。
振った腕は人修羅の腹部とぶつかると、すぐに本体の肩から外れてぼとりと床に落ちる。
腕に弾き飛ばされて熱風の外へ追い出されるわずかな間、少年は不気味に揺れる炎の中で崩れ落ちていく影を見た。
自分の2倍はありそうな長細い影に見覚えのある仲魔の姿が重なり、少年の口が
「あ」
という驚きの形に大きく開かれる。
しかし、揺らめく影も、思い出した仲魔の姿も、弾き飛ばされた少年を追いかけて取り込もうとするように大きく膨らんだ火がすぐに飲み込んでしまった。
一瞬にして視界が火の壁から天井に代わり、腫れ上がった人修羅の背中は冷たい地面と衝突する。
仲魔の顔がぼんやり天井を見上げて口を開いたままの人修羅を覗き込んだ。
「すげー、生きているのか?」
氷結魔法で敵を牽制する魔王ロキが、様子を窺う悪魔に主人の容態を訊ねる。
「生きては…いますね?」
自分の主人が助かったというのに、少年の体に傷薬を塗りつけていくオオクニヌシの表情は無感動そのものだ。
薬を塗る指先が火傷に触れて痛んだのか、荒い呼吸を繰り返していた人修羅は顔を顰めてゆっくりと上半身を起こした。
油断すると倒れそうになる半身を支えるサルタヒコを見て、次いでロキの手助けに向かうオオクニヌシへと視線を移す。
「アレは」
地霊の助けを借りて立ち上がった人修羅は、無くしてしまった物に関する記憶を思い出そうとするような声で呟く。
2体の悪魔の背後で威勢良く火球が破裂し、熱風から主人の身を護ろうと咄嗟に剣を構えながら、サルタヒコは泣き出しそうな声で人修羅の疑問に応じた。
「敵の数が減ったらすぐに道反玉で…、あいつ、俺は止めたんだっ!」
防ぎきれなかった火の粉が少年の頬に触れて、ジュッと音を立てた。
過剰なほどの瞬きをする人修羅の目が戦場へ向けられ、隅っこに残る何かが焼け残った跡に釘付けになる。
ひゅー、ひゅーと、落ち着きつつあった呼吸に奇妙な乱れが生じ、胃から不気味な物が喉までせり上がってくるような不快さに人修羅は吐き気を覚えた。
そうこうしているうちに、敵の魔法攻撃に耐えたロキたちが反撃を開始する。
その展開を見て行動を起こすなら今しかないと、張り切った様子のサルタヒコが主人の手首を強く握り、
「さぁ、早く生き返らせてやってくれ」
と、それが当然のことのように少年を前線へ向かわせようと引っ張る。
しかし、どんなに強くサルタヒコが手首を引っ張っても、彼の主人はびくとも動かなかった。
「早くっ」
ぐずぐずするなと言いたげな厳しい地霊の顔が、少年の表情を見た途端なんとも言えない色を浮かべて固まった。
少年の顔は恐怖の感情で引き攣っていた。
上手く噛み合わせることの出来ない歯がカチカチと渇いた音を立て、途切れがちな言葉を必死につないで人修羅はサルタヒコの手を振り払う。
「い…いや…だ…よ…!」
はっきりとしなかった地霊の顔に主人に対する失望の感情が現れ、怒鳴られると思ったのか少年はひぃと短く叫んで頭を抱える。
サルタヒコは言葉に詰まって、小刻みに震える主人の膝に視線を落とした。
地霊の心を様々な感情が支配したが、最終的に出てきた声は低く呻くような苦しいものだった。
「お前を助けたあいつを、見捨てるつもりなのか?」
人修羅はサルタヒコの問いに対し、わずかに肩を上下させただけで何も答えなかった。
敵が仲間を呼んで戦況が悪化したのか、向かい合ったまま動かない2体に向かってオオクニヌシが、
「早く回収するなり生き返らせるなりして下さい、もう限界です!」
と悲鳴のような叫び声を上げて訴える。
ひぃと、また人修羅が情けない声を出す。
「お前を助けたピシャーチャを、置き去りにする気か?」
今度は怒りのこもった声が主人を叱咤した。
サルタヒコの気迫に圧されて人修羅は迷うような視線を再び前線に向けたが、すぐに首を大きく振る。
地霊を見上げた目は病的なまでに暗く、一種の狂気を帯びていた。
「僕は頼まなかった!僕は頼まなかった!助けてくれなんて頼まない、あの化け物が勝手にやったことじゃないか!」
もはや自分がなにを口走っているのか少年は理解できていないようだった。
感情に任せて言葉を吐き出し、躓きそうになりながら必死の足取りで逃げていく。
「何をしていたサルタヒコ、くそっ、もう逃げるしかない」
恥も何もかも捨てて逃げ去っていく主人の後姿をじっと見詰めたままの地霊に、前線から撤退してきたロキが悔しそうに告げた。
「主人はどこへ?」
ロキの後から走って逃げてきたオオクニヌシが、怪訝そうにサルタヒコに訊ねる。
地霊の返事を待つまでも無く予想がついたのか、いつも冷静さを失わない鬼神の声は苛立ちで尖っている。
サルタヒコは黙ったまま人修羅が逃げていった方角を指差し、ロキが気分悪そうに唾を吐き捨てた。
「ピシャーチャを、俺たちの仲魔を見捨てろって言うのか?」
そんなことは出来ないと戦場へ戻ろうとするロキのマントを掴んで、オオクニヌシが素早く引き止める。
「もう無理だ、主人の後を追って態勢を整える方が先だ」
後方から追ってくる敵の喚声が響き、3体の悪魔はそれぞれやり切れない想いを抱えたまま主人の後を追った。