■ 10.かみさま
ロキは自分の体が誰かに引きずられていることをぼんやりした意識の中で感じていた。
"冷たい奴だ"と心の中で誰かに愚痴り、"俺はこんなに疲れているのだから背負ってくれてもいいじゃないか"と希望を述べる。
引きずられていると感じるのは、背中と尻が地面に擦れる微かな感覚のせいだろうと魔王は判断する。
まだ自分は生きているのかもしれない。
そう判断したのを最後に、ロキの意識は闇に沈んだ。
「気のせいか重みが増したような気がする」
ロキのマントを掴んで引っ張っていた悪魔は、額に浮かんだ汗を拭って歩みを止める。
くらましの玉に惑わされて敵を見失った悪魔たちの怒鳴り声も、いつの間にか聞こえなくなっていた。
「この辺なら封魔の鈴を鳴らして放置しておけば大丈夫だろう」
冷たいとも思える言葉を冷ややかな印象を受ける表情で呟き、悪魔は言葉通りに運んできた魔王を壁際に放置して袋から鈴を取り出す。
それは混戦の中で人修羅がロキに渡したアイテム袋だったが、結局回復アイテムを使う暇もなかったのか、渡される前の大きさのままだ。
悪魔は鈴を振ると、屈み込んで疲れきって眠る魔王の顔をじっと覗き込んだ。
「酒場の悪戯者と何も変わらないはずなんだが、妙なロキだったよお前は」
興味深げに魔王の顔を観察していた悪魔の表情に微妙な変化が生じたが、そう呟く声は呆れているようにしか聞こえない。
呆れている対象がロキなのか自分なのか、その悪魔自身も良く分かっていないようだった。
ロキの鼻を摘まんでみたものの何の反応もないことをつまらなく感じたのか、悪魔は不満そうに唇を尖らせて立ち上がった。
立ち上がっても悪魔はしばらくの間ロキから目を離せずにいたが、やがて肩をすくめて
「はぁ……面倒なことだ」
と疲れたように吐き捨てると、魔王の胸の上に鈴を乗せてその場を後にする。
背を向けて数歩進み、立ち止まって振り返ろうか振り返るまいか思案して結局振り返らずに歩き出す。
悪魔たちに囲まれて今にも力尽きそうな人修羅の仲魔を安全な場所まで運んできたオオクニヌシは、かつて仲間であったロキに別れを告げた。
目を開けた瞬間に少年がかすれ声で叫んだ言葉は
「ファントム!」
だった。
目覚めの勢いは良かったが、すぐに
「あいててて……」
とわき腹を押さえて悲鳴を上げる。
呼び声に反して無事を確認しようと覗き込んできた顔はサルタヒコのもので、人修羅はきょとんとした目で地霊を見つめ返した。
「あの外道ならソーマのおかげでピンピンしているぞ」
サルタヒコがそう言い終らないうちに、ファントムが地霊を押し退けて顔を近づける。
体全体を擦り付ける勢いで迫ってくるファントムを抱きとめ、人修羅は自らファントムに頬擦りをした。
外道の表情は変わり無いが、いつもよりテンションの低い呻き声で何度も主人に訴えかける。
意味不明な言葉のひとつひとつを噛み締め、人修羅は鼻をすすってファントムが言葉を発するたびに頷いた。
「順調にいけばもうそろそろロキを連れてオオクニヌシがやってくるはずなんだが……」
不安そうに闇の奥を睨むサルタヒコにつられて、少しずつ落ち着きを取り戻した人修羅も視線を向ける。
地霊の言葉通りに少ししてからロキが姿を現したが、オオクニヌシは一緒ではなかった。
サルタヒコにオオクニヌシの行方を訊かれたロキ自身、自分を助けた者が鬼神だったことを知らず、
「あの野郎俺をあんな場所に置き去りにしたな」
と鈴を片手に文句を言う始末だった。
自分の仲魔が全員無事であることを確認して心に余裕が生まれたのか、人修羅は慌ててサルタヒコに頭を下げる。
どう言葉を並べても感謝し足りない様子の少年が再び落ち着くまで待ってから、サルタヒコは苦笑いを浮かべてこれまでの経緯を説明をした。
戦力不足のまま強敵の多い坑道へ潜った人修羅たちの後をオオクニヌシと2人でこっそり付けていったこと。
あまりに酷い乱戦状態ですぐに助け出すことは不可能だったということ。
くらましの玉がアイテム袋に残っているか2人とも分からなかったため、救出作戦はいちかばちかの賭けのようなものだったこと。
照れの混じった様子で自分たちの活躍を語るサルタヒコに、人修羅はただ礼を言うことしかできない。
アイテム入りの袋を受け取ったものの、くらましの玉を使うという発想自体思い浮かばなかったロキは終始渋い表情をしていた。
「ところでこれからどうする気だ、戦力不足のまま進むのか?」
説明を終えたサルタヒコの質問に、人修羅は困ったと言いたげな表情で首を横に振る。
「代々木公園にたどり着いたらどうにかしようと思っていたけど、このままじゃたどり着くことは不可能みたいだ」
すぐにロキが
「あれだけの大人数との戦いはこれから先しばらくは無いだろうから充分たどり着けるだろ」
と反論を開始したが、魔王の意見を重苦しいため息ひとつで却下し、少年は不安そうに目を泳がせた。
サルタヒコはその様子を笑って見ていたが、ファントムまで不安そうに右往左往し始めると、何か決意したように手を叩いた。
「よし、それなら俺がまた仲魔になってやるとするか」
「うわっ! ええっ? 本当にいいのか?」
驚いて変な声を出す主人に手を差し伸べ、サルタヒコはしっかりと頷く。
「アサクサも捨て難いがな、あそこは暇で仕方ないからな」
地霊の気が変わらないうちにと急いで差し出された手を握る人修羅へ、改めてサルタヒコは忠誠の言葉を告げる。
「まぁ、光玉の節約にはなるな」
ロキは相変わらずの調子だったが、少年悪魔は心の底から嬉しそうに再び加わった地霊を含めた3体の仲魔を視界におさめた。
「僕はお前たちの主人としてはまだまだ力不足かもしれない、これからも色々やらかしてしまうかもしれない、それでも……」
両手を握り締めて拳を作り、人修羅は力強い表情を仲魔たちへ向ける。
「それでも、その未熟さを克服するために僕は精一杯努力していくよ」
仲魔たちは何も言わなかったが、少年へ向ける眼差しは以前と違い、従う者として主人を頼もしく思う安心感に満ちていた。
銀座の酒場でロキはいつものようにちびちびと酒を飲んでいた。
特に面白いと思うような出来ごとも無く、退屈な時間のみが無駄に過ぎていく。
酒場に留まり続ける理由も無く、今飲んでいる酒が空になったら、マネカタたちが復興させたと噂のアサクサ見物をしようかと頭の片隅でぼんやりと考えていた。
アサクサという地名からある悪魔の姿が思い浮かんだが、ロキは苦々しい感情と共にすぐにその悪魔の姿を頭から追い払う。
真面目を体現しているようないかにもからかい易そうな悪魔だったが、実際に試してみると扱いづらいことこの上なかった。
人修羅との取引で一時的に手に入れたときも、ただ淡々としているだけであまりの詰まらなさにすぐに手放してしまった。
しかし、そういった面白みの欠片も無い悪魔だからこそ、他の悪魔と比べて興味を感じさせる存在であった。
「トールのように単純ではないか」
皮肉めいた口調で結論付け、残り少ない酒を流し込む。
最近はニュクスに相談のある悪魔や思念体の数も減り、客の出入りの少ない酒場はロキにとって居心地が良い。
数体の思念体が常にボルテクス界の情勢についてぶつぶつ議論しているが、最近はそれさえも店内に流れる退屈な音楽に聞こえる。
「ここにこのまま留まるのも良いか」
ロキの決断が退屈な時間に身を委ねる方へ傾きかけたそのとき、扉を開く音が魔王の耳に届いた。
カウンターに肘をついて次の注文を待っていたニュクスがちらっと新しい客へ視線を送り、特に問題なしと認めたのかすぐに逸らす。
客の目的は初めから決まっているようだった。
ブツブツ呟いている思念体を押し退け、狭い空間に並べられたテーブルの合間を縫って、一直線にロキのもとへ向かう。
扉が開いた瞬間から、ロキは薄っすらと予感のようなものを感じていた。
自分の背後に立つ者が何者なのか、振り返らなくても予想はついている。
それでも自分はわざと億劫そうに振り返って後ろに立つ者の姿を確認するだろう、確認して不機嫌そうに"何の用だ"と訊ねるだろう。
そういったことを確信した上で、ロキは彼にしては珍しい言葉を、迷惑だという感情と退屈から抜け出せることへの喜びが半々といった様子で口にした。
「どこかに存在するかもしれない俺の神よ、今日この時だけはあんたの気紛れに感謝する」
ロキの言葉が聞こえたのか、銀座の酒場に再び戻ってきた鬼神オオクニヌシは何度目になるか分からないため息を吐いた。