■ 07.ホットスープ
水の中に半身浸かり一張羅のズボンを惜し気もなく濡らしながら両手一杯のアイテムを抱えて対岸から戻ってくる主人を、魔王と外道が出迎える。
背後から迫ってくるイソラの大群を撒いて転がる勢いで階段を駆け上った人修羅は、息を整えながら握りこぶしを突き上げガッツポーズを取った。
銀座大地下道のマネカタの店にのみ置いてあるチャクラドロップを求め銀座から移動してきたものの、濡れたズボンを絞りながら、
「これで銀座で稼いだマッカはゼロだ」
と呟く人修羅は浮かない様子だ。
「この後はアサクサで情報収集か、面倒くさいな」
脱水を終えたズボンを履く人修羅へそう愚痴りつつ、階段に座り込んでいたロキはアイテム袋の中から食べられそうな物を探してファントムへ投げた。
投げ与えられたものをファントムは口で器用にキャッチし、太腿を撫でてズボンの皺を伸ばしていた人修羅が、
「コラッ! 貴重なアイテムを無駄に消費するんじゃない」
と怒ってロキの頭をげん骨で殴る。
「あーイテッ、本気で殴ったな、力馬鹿の貧乏主人のくせに」
魔王はすぐに殴られたヶ所にたんこぶが出来ていないか指先で確かめ、手加減したつもりの人修羅は胡散臭そうな目で痛がるロキを見下ろす。
「おい、お前があんなこと言うから見ろよファントムの奴」
指摘されて、少年は嫌な予感を感じつつロキの視線をたどってファントムの姿を求める。
主人の視線の先でふわふわとした柔らかい物体は体を波立たせ、先程口の中に取り込んだばかりのアイテムをペッと床へ吐き出した。
足元まで転がってきたアイテムをすぐに拾うことも出来ず、
「うわぁぁ、勿体ない」
と悲鳴を上げて、人修羅は天を仰いだ。
その後もファントムは体に取り込んだ分のアイテムを吐き出そうと蠢き続け、人修羅は床に散らばるアイテムを気の抜けたような表情で眺める。
ディスポイズンやチャクラドロップを数個吐き出すと、最後にげっぷの様な音を立ててファントムは元の状態に戻った。
頭を抱え込んでしまった主人へ申し訳なさそうな表情を向け、ファントムはもう1度軽くげっぷをする。
人修羅は文句の1つも言えないほど落ち込んでいたが、そのげっぷに止めを刺されたのか信じられないというふうに激しく首を振った。
「全くお前って奴は……っ!」
苛々した表情と口調で少年は外道と魔王を叱り付けようとしたが、ファントムが限界近くまで体を萎縮させるのを見て、
「……ディスポイズンなんか飲み込んだって腹の調子を悪くするだけだって」
とため息混じりに告げて、怒りの感情は飲み込んだ。
困ったなぁと訴える人修羅の目と、ただ黒く窪んだファントムの目が、気まずい雰囲気の中お互いの姿を見つめあう。
うーん、と唸り、少年は軽く首をかしげた。
「おいで、ファントム」
手招きする主人へ、ロキはギョッとしたような顔を向ける。
今まで遠ざけることはあっても、紹介する場合を除いて決して近寄らせることはしなかった人修羅からの突然の招きに、ファントムは困惑気味に小さな声で鳴き、それでもふわりふわりと浮遊して主人との距離を縮めていく。
「おいで、もうちょっと近く」
酒場のテーブルひとつぶんの距離まで近寄り、ファントムはこれ以上近付いても拒絶されないか心配そうな雰囲気を漂わせる。
ふぅっ、と浅い呼吸をして、しゃがみ込んだ人修羅はそんな外道を安心させるように呼びかけを再開した。
「もっと、そう、ここ、僕の膝の上に乗って」
高度を下げて靴の爪先まで近付いたファントムへ、少年は震える手を伸ばす。
指先が光に触れると、まるで静電気を感じたように慌てて手を引っ込め、真剣な表情で再度接触を試みる。
はぁ、はぁ、はぁ、と緊張と興奮からくる少年の息遣いが、すぐそばで固唾を呑んで見守るロキにまで届く。
青い模様の浮かんだ両手がファントムの側面を押さえ、不安定な物体を落とさないよう慎重に人修羅は自分の膝の上まで持ち上げた。
呼びかけから膝の上に乗せるまで、実際はそれほど時間はかからなかったが、その場に居合わせた全員にとってはカグツチ一周分に匹敵するほどの長さに感じられた。
膝の上にファントムを乗せて初めて人修羅の聴覚は、イソラたちが水場を活発に飛び跳ねる騒がしい音を認識した。
ウィィ、ウィィィと何か訴えようとする外道を両腕で包み込み、少年は緊張で引き攣っていた顔に穏やかな笑顔を浮かべて、
「なんだ、案外簡単なことだったんだな」
と感想を述べた。
「その割にはビビリ過ぎだな、なんだよその湿った面は」
ロキに指摘されて初めて気付いたのか、人修羅は頬を濡らす涙を手の甲で拭う。
手の甲に付いた水滴を見て恥ずかしくなったのか、少年の目の下がほのかに赤く染まった。
「やっぱりダメだな僕、なんだかダメなんだな、僕は……」
照れたように笑い、拭ったばかりの頬に新たに伝っていく涙を今度は手の平でグイグイ拭い取る。
「仲魔がいないと何も出来ないくせに平気で仲魔を見捨てて、仲魔に酷い仕打ちばかりして」
言葉にしゃっくりが混じり、つい先程まで笑っていたはずの顔はすっかり泣き顔に変わっていた。
肩を震わせて泣きじゃくる少年へ、落ち着いた声でロキは訊ねる。
「後悔しているのか?」
嗚咽を漏らしながら悪魔でありながら人間の心を持つ少年は、実際の年齢よりずっと幼く見える泣き顔を何度も縦に振る。
顎を伝って落ちる涙は、上目遣いに主人の様子を窺うファントムに降り注いだ。
「うぅぅ、ピシャーチャぁぁ、ごめんなさいピシャーチャぁぁぁ……!」
頷きながら何度も何度も人修羅は自分が見捨てた仲魔への懺悔を繰り返す。
それが自分が今出来る精一杯の償いであり、償いをするべき相手はどこを探しても見つからないという事実に今まで気付かなかった自分を呪うように、人修羅は声がかすれて出なくなるまで、ファントムを抱いたままの姿勢で何度も何度もピシャーチャへの謝罪を繰り返していた。
少年の両目から流れ出た温かな液体は、飲んですぐに体をじんわりと暖めてくれるスープのようにファントムの体へ染み込み、主人の悲しみを少しでも分かち合おうとするかのように、ファントムも悲しげに体をざわざわと震わせ続けた。
結局人修羅が気持ちを落ち着けて泣き止むまでかなりの時間がかかった。
その間に地下道に留まっていたマネカタたちが野次馬根性を出して見物しに来たりして、ロキは何度も主人が泣いている理由を説明する羽目になった。
「その感情をずっと忘れるなよ」
「あぁ、もうこんな後悔は2度としたくないから」
ファントムと人修羅の距離は、仲魔と主人の関係を示す自然な間隔を保っている。
涙が出尽きるまで散々泣いて、どこかすっきりしたような主人を、魔王は好意的に迎えた。
ターミナルがある部屋へ一番最後に入った人修羅は、歩みを止めて1度だけ後方を振り返ると、
「ありがとう」
と、遥か遠くに行ってしまった何者かに感謝して、閉まりゆく扉から離れた。