「なあ、蒼樹。おまえなんでひとりで日本に来たんだ?」
日本での生活に漸く慣れてきて少しした頃。
下校途中のいつもの坂道で、僕がクラスでいちばん親しくしている友人に不意に聞かれた。
きらめき高校に入学して間もない頃、興味本位で僕に近づいてきた人はたくさんいたけれど、
上手く話せないでいると、そのうち飽きてしまったのか、そういう人たちは徐々に
僕と距離を置くようになっていった。
そんな中、彼だけは、僕が言葉を見つけられずにいても本当に根気良く待ってくれて。
そして、あまり得意ではない英語で懸命に、僕が言おうとしていることを一緒に考えてくれていることを伝えてくれたりして。
まわりの人たちには、いい加減な風に見られがちな彼が、実はとても優しい人だということを、
他のみんなより良く知っていることが、今も僕の自慢だ。
「話すと長くなりますよ?」
「そうか?それなら尚更聞いてみたいな」
駅へ向かう道の間ではとても話し終わりそうにないけれど、
僕は妙に上機嫌で、アメリカにいた頃の話を始めた。
僕がここにいる理由。
今でこそ僕は、日常生活に困らない程度に日本語を話せるようになりましたけど。
あの頃は、ただ。
幼い頃から祖母に聞かされていた日本という国に興味があっただけで。
知っている日本語なんて、「こんにちは」と「すみません」
それから、「オショウガツ」「オボン」「フジサン」「モモタロウ」…
会話に役に立ちそうもない単語だけでした。
「フジヤマ」でない辺り、少しはまともな気はしますけどね。
僕は生まれた時からそれまでずっと、アメリカで育ちましたから、
日本のことは、ほとんど知りませんでした。
それでもやっぱり、自分の中に流れているのは確かに日本人の血で、
名前も蒼樹千晴という、周りの友だちとは全く違うもので。
初めはただの興味でしたけど、徐々に知りたいという願望が強くなっていったんです。
僕の中にある、僕の知らない、僕を形作るもの。
それをどうしても確かめたかったんです。
ジュニアハイスクールを飛び級で卒業できることが決まった頃でした。
僕は友人達と数人で、ユニバーサルスタジオに遊びに行ったんですが、
途中みんなとはぐれてしまって、ひとりになってしまったんです。
しばらく探し回っていたけれど、もし、友人達も僕のことを探していたら、
動かない方がいいかもしれないと思って、デロリアンの前で待っていたんです。
あ。デロリアン、知っていますか?はい、そうです。その映画に出てくる
過去とか未来に移動するあの車です。
ふと気づくと、僕と同じように、ひとりでその場所で誰かを待っている様子の
日本人の女性がいたんです。
目があった瞬間、その人が日本語で何か話し掛けてきたのですが、
その頃の僕と言えば、わかる日本語はさっき話した通りでしたから、彼女が
言った言葉が全くわからなくて。
僕は日本語を話せないということを、なるべくゆっくり英語で伝えました。
するとその女性は、驚くほど流暢な英語で言ったんです。
「見た目で判断してごめんなさい。友だちとはぐれちゃって、少し不安だったから」
こんな内容だったと思います。
状況は僕も同じでしたから、比較的すぐに打ち解けて、いろいろな話をしました。
彼女は、日本からの留学生で、アメリカに来てから、もうかなり経つということ、
今日は大学の卒業旅行に来ている友人に付き合って、ここに
遊びに来たということ、日本では大阪という場所にある大学に通っていたこと。
それから、お盆やお正月には、ご両親が暮らす街に帰ったりするとか、そういったことを話してくれました。
僕が知っている数少ない日本の単語が出てきて、嬉しかったのを
今でも良く覚えています。
そして僕は、見た目や名前は日本人そのものだけど、生まれも育ちもアメリカだということや、
自分の中に流れるものを知らずにこのままでいることに、疑問を持っていることを
話しました。日本に行って、確かめてみたいけれど、具体的にどうすればいいのかもわからないし、
今の自分では、まだそれをしようとするのは早いのかもしれないという、不安みたいなものもいつの間にか話していました。
その時彼女が言ったんです。
「何かを始めるのに、早いとか、遅いとかはないよ。自分がやりたいと思った時がその時じゃない?」
単純明快な当たり前の言葉でしたけど、僕の心には深く響きました。
そして、外国人留学生奨学金制度の話をしてくれて。
それが、きらめき高校だったんです。
彼女のご両親が暮らしている街にある高校だと、その時彼女が言っていました。
「気になることは自分の目で確かめないと。頑張ってね」
そう言った彼女の表情から、とても強い意志のようなものを感じました。
悩んでいるだけでは何も始まらない。
そんな風に僕は思いました。
その話の直後に、僕の友人達と、彼女の友達がほぼ同時に現れて、
僕たちはそこで別れました。
その後は、どんなアトラクションよりも、僕の頭の中は留学のことでいっぱいで、
何かもう、すっかり日本に近づいた気分でした。
家に帰ってからすぐに、両親に話しましたが、当然もの凄く反対されました。
それでも僕は、諦めずに説得し続けて。
彼女のあの言葉が、ずっと僕の背中を押してくれていたんです。
「やりたいと思ったときが、始める時」
今がその時だと思って、僕は本当に必死で説得しました。
自分を知るためにも、日本に行くことは絶対に必要なことだと思いましたから。
6月の卒業間近になって、やっと両親から許しをもらって、それからは語学学校に通ったりして
日本語を勉強して、きらめき高校の奨学金制度の試験もパスして。
実際に日本に来たのは入学式も間近な頃でした。
それから後のことは、知っていますよね。
■ ■ ■
僕たちは駅までの通り道にある、バスケットコートの側のベンチで缶ジュースを飲みながら
話していたのだけれど。
長い話が終わるころ、ふたりとも手に持っていたのは、ただの空き缶だった。
「で?どうだった、来てみて。……なんて、まだわかんねぇか。そんなに経ってねぇしな」
彼はシュートするようなポーズで、空き缶をゴミ箱に投げ入れる。
空き缶は綺麗な弧を描いて、カラカラと音を立てながら、あるべき位置に収まった。
「わかったこともありますよ。食べ物がおいしいこと、それから、日本の人は優しいということです」
僕の言葉に彼は一瞬微妙な表情になって。
「そうでもないだろ?まあ、食いもんが美味いことは賛成だな。けど、その留学生に
おまえが出逢ってなかったら、俺とおまえも知り会ってないってことか?そう考えると偶然って、不思議だよな」
やけにしみじみと言ってから、僕の分の空き缶までゴミ箱に投げ入れた。
「そうですね。彼女には、お礼を言いたいです。いろんな意味で」
「だな。いつか、会えるといいな」
彼のその言葉を合図のように、僕も立ち上がり、僕たちは再び駅へ向かった。
本気でまた逢えるなんて思ってはいないけれど。
あの人に逢えたお陰で今の僕があるような気がして。
いつか会えることが逢ったら、ありったけの気持ちを込めて、
ありがとうと伝えたい。
もちろん、その時は、日本語で……。
end
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言い訳すら思いつかないので、スルーしてくださいませ。
連載の続きを書こうと思っていたのに、おかしなことになってしまいました(苦笑)
いつものごとく、軽く放置してみただけですので、どうかお気になさらず(笑)