「ツイてないなぁ」
マイアミ・デイト署の出入口で私はそんなことを呟いた。
外は生憎の雨模様。
急いで家を出てきたものだから傘の類すら持ってきていない。
しかし、今日の私の悪運は「傘を持ってきていない」では済まされないレベルにあった。
時間は今日のお昼に遡る。
昼食を取りに外に出て、会計を済ませるために財布に手をかけた。
ふと、カバンの中にいつもあって、今日に限ってないものを知ることになった。
『え?お家の鍵を忘れた?!』
「そうなんです」
会計を済ませ店を出て、私は義理の母である加奈子さんに電話をした。
『いつもあって、今日に限ってないもの』
そう、家の鍵だった。
「今日、慌てて家を出たじゃないですか。多分それで」
『そうよね鍵を閉めたの、ママだからね。鍵ないとお家入れないもんね』
「はい」
周囲の人達はジロジロと見てくる。
当たり前だ。
英語圏で日本語を話すなんて珍しいに決まってる。
しかし、電話元の人は日本人で私も日本人。母国語を話して当然だ。
『今日は早く上がれるの?』
「このまま順調に行けば」
『あーん・・・迎えに行ってあげたいけど・・・どうしても会議があって抜けれない感じなのよ』
「そうですか」
母さんの仕事の都合だったら已む得まい。
財布のお金とも相談したら、ホテルに泊まるくらいのお金は残っている。
「でしたら、私ホテルに泊まります。お金はまだありますし、あんまり母さんの手は煩わせたくありませんから」
『ダメダメダメ!ぜーったいダメ!!可愛い娘を一人ホテルに泊まらせるなんてママが許しません!!』
「母さん」
血の繋がりはないし、優しくしたりしてくれるのは非常に嬉しい限りだ。
だがしかし・・・過保護すぎるのは病気に近い。
成人してまで、親の世話にはなりたくない・・・という自立心というモノが私にはある。
「大丈夫です。デイト署の近くのホテルに」
『ダメよ!ぜーったいダメ!!ママ、会議が終わったらすぐ迎えに行くから待ってなさい!!』
「母さん」
『ホテルに泊まるくらいならママが来るまで待ってなさい!いいわね?』
「・・・はい」
一度言ったら聞かないのが義理の母だ。
大人しく従うしかあるまい、と頭を掻きながら返事をする。
『よーし!そうと決まればママお昼頑張って仕事終えるわね!!』
「はい」
『なるべく早く片付けるわ。だから、ちゃん。待ってなさい』
「分かりました」
それが昼過ぎの事だった。
私の昼からの仕事は
忙しくもなく、順調に終えることが出来て時間通りに上がることが出来た。
そして・・・外に出た途端・・・雨だった。
「ツイてないなぁ」
出入口で雨の降りしきる空を眺め、周囲に分からぬよう日本語で言葉が零れた。
「・・・どうした?」
「あ、チーフ」
声を掛けられ、振り返ると其処にはラボのチーフであるホレイショ・ケイン氏が居た。
「こんな所に立って・・・帰らないのか?」
「帰りたいのは山々なんですが」
「何だ?」
「実は、家の鍵を忘れてしまって・・・挙句、傘も今日は忘れたんです」
上司にこんなことを話すのは申し訳ない、というか恥ずかしいというか
そんな心境でもあるし、一応心を通わせている相手だから何だか気まずくも思えてしまう。
「お母さんに連絡は入れたのか?」
「昼にしました」
「それで?」
「そしたら、遅くなるけど迎えに来ると言ってました。正直この雨じゃ道も混むだろうし
此処に着くのも予定よりもかなり遅くなると思っています」
推測での見解だが、確実に遅くなることは目に見えている。
これは確実に母さんが来るのを待つより
近くのホテルに泊まったほうが無難のような気がしてきた。
「そうか。なら、俺の家に来るといい」
「へ?」
隣に立ったチーフの言葉に私は素っ頓狂な声が出る。
そして私の言葉を無視するかのように、隣に居る男の人は
自分が持っている傘を広げ始め階段を数段降り、振り返った。
そして、宝石のような、深い青色をした瞳が私のとぶつかる。
「来ないのか?」
「で、ですが・・・母が迎えに」
話が聞こえなかったわけじゃないはず。
チーフは必ず耳を傾けてくれる人だ。か弱い人達や、信頼する部下にも。
もちろん私にだって同じような扱いをしてくれている。
だから、先ほどの私の話が聞こえていないわけがないのに、なぜこういう展開になったのか脳内が困惑する。
「あまり遅くなるのも危険だ。今日は俺の家に泊まっていけばいい」
「し、しかし・・・っ」
「君のお母さんには俺から連絡しておこう。それなら構わないだろ?」
もっと色々と抵抗しなきゃいけないのに
優しく見つめてくる目とか、声とかに絆されてしまう。
分かってる。
惚れた弱みだって。
この人には到底敵わないって。
溜息を零し、目の前の人を見る。
「母に連絡してくださいね、チーフ」
「もちろんだ。・・・さぁ、おいで」
差し伸べられた手を握り広げられた傘の中に私は招かれ
彼の車まで肩を並べ歩く。
「。もうちょっとこっちに寄りなさい・・・濡れたら大変だ」
「え?・・・あっ」
肩を抱かれ、グッと引き寄せられた。
その瞬間自分の心臓が大きく跳ねたような音が聞こえる。
自分の肩を抱いてくれる、大きな手。
嗅覚を刺激する、かの人独特の匂い。
顔を上げるとぶつかる、視線。
優しく微笑むその表情に顔を逸らしてしまった。
「ディナーはどうしようか?」
「私が、何か、作らせていただきます。泊めていただくワケですし」
「それはいい。楽しみだ」
心を通わせる人と肩寄せあった傘の下。
車に辿り着くまで他愛もない話で盛り上がり、何だか嬉しく思えた。
少しでも近づけたような気がして。
肩寄せあった傘の下
(ある雨の日に舞い込んだ、幸運)